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 まだ霧尾が物心つく前の話だ。

 霧尾一家は天鯉村という山間の集落に一軒家を構え、暮らしていた。小さな田畑と林業を家業とし、江戸時代からその地で生活をしてきた、という。祖父母はそのことに誇りがあり、やがては霧尾もその家を受け継いで暮らしていくのだ、と言い聞かせられていた。

 しかし降雨量が劇的に減り、急遽ダムを作る計画が持ち上がった。

 地元の人間は誰一人として賛成しなかったが、行政主導で強引に工事が進められ、村はダムの底に沈んでしまった。


 母親の背に負われていた頃から三十年足らずで、再びこの土地に戻ってくることになるとは、亡くなった祖父母も思ってもみなかっただろう。

 やはり雨が降っていたようで、地面が僅かにぬかるんでいた。

 ぽつりぽつりと建つ木造家屋は大半が崩れ、新しい鉄骨の柱ばかりがむき出しで立っている。

 おぼろげな記憶を頼りに湿った道を歩いていくと、かつての我が家が建っていた場所に玄関の引き戸が倒れていた。柱は一本だけ、おそらく大黒柱だったものが残っているが、それも半分ほどの大きさに折れている。大きくて頑丈だと思った家は、ダムの底になり、ほとんど残らなかったのだ。

 と、どこかで人間の声がした、と感じた。

 更に奥、小さな地蔵菩薩の石像が並ぶ場所の裏手に、お堂があった。

 雨乞い様、と呼ばれていたよく知らないお堂だ。その前に、少女が座っていた。土で汚れた白のワンピースを着ていて、何も言わずにじっと霧尾のことを見つめていた。


「君は、迷子かい?」


 こんな場所に人がいる。

 そのこと自体が奇異だったが、誰かに捨てられた可能性がない訳でもない。

 けれど彼女は首を横に振ると、


「雨の匂い」


 と言った。

 そういえばかつてはそんなものもあったな、と思い出した刹那、額に雫が落ちた。

 見上げれば、雨だ。

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