第2話 渓流の女王

 5月の最終週の金曜日は、渓流釣りのファンにとっては特別な日です。

 その日には、その香気あふれる美麗な風情から、「香魚」、「銀口魚」とも書く

「渓流の女王」、すなわち『鮎』の漁が解禁になるのです。

 風薫る5月、初夏の爽やかな週末に、エメラルドグリーンの清流に人々が集い、長い長い竿を操って、新鮮でぴちぴちしたものの代名詞でもある”若鮎”と思う存分に戯れる時間を満喫する…「解禁日」の渓流は釣り人たちにとって、そういう特別の「祝祭空間」なのです。


 ”真理”を朝顔型のフリル付きの金魚鉢に入れて、瑠璃は朝夕に「まーり、まーり。真ん丸のまーり。ほんとにおまえはかわいいね」と声をかけながら眺め暮らしていました。

 山間やまあいの寂しい釣り宿には鮎釣りのお客さん以外には殆ど誰も訪れなくて、瑠璃はいつも一人ぼっちでした。

 鮎釣り名人のおじいさんは足腰も丈夫で矍鑠かくしゃくとしていて、瑠璃は何不自由なく暮らせるのですが、「アルプスの少女」?のように世間から隔絶されていて、友達がいないのが瑠璃にも、おじいさんにも悩みでした。

 小学校に上がるころにはもしかしたら両親のもとに瑠璃は引き取られざるを得ないかもしれないという話になっていました。前にも言ったとおりに瑠璃は名前通りにピカピカした感じの、愛らしくて元気な、そしてとても早熟な女の子だったので、育ち盛りでいろんなことを吸収する年代にいろんな刺激を与えてあげなくては、何としても大事に育ててあげなくては、と釣り名人だけあって処世の知恵にも長けているおじいさんは、猫や犬を飼ったり、子ども用の百科辞典を買ってあげたり、いろいろ瑠璃の心の成長のために心を砕いていました。マリモを買ってあげたのもおじいさんのそういう肉親らしい愛情の配慮、発露のひとつでした。

 「瑠璃、マリモは元気かい?」

 いつも穏やかな笑みを口元に浮かべているおじいさんが尋ねました。

 朝食のお膳には鮎や山女魚の塩焼き、山菜、金山寺味噌などが並んでいます。

 「元気だよ。”真理”って名前つけたの。ひゃっかじてんで調べたのよ。「物事のいちばん正しい道理」って意味なんだって。あんまりよくわからないけど」

 「ほう。えらく立派な名前だね。言霊ことだまとかって言うけど言葉というものには不思議な力がある。マリモにももしかしたら魂や精霊が宿るかもしれないな…」

 「真理に命が宿るってこと?」

 「”仏作って魂入れず”、とか、”画竜点睛を欠く”、と言ってな。いくら身形みなりが立派でも命を吹き込まなくては意味がない。丹精込めて愛で慈しんであげればきっと命が宿って本物になる。もしかしたら瑠璃と真理が出会ったのもきっと何かの縁で、深い意味があるのかもしれん…」

 

…おいいさんが彫った樫の鮎の意匠細工の脇に鎮座している「真理」は、相変わらずびっしりと気泡をたからせて、神秘的で静謐なたたずまいで、じっと水の底に沈んでいました。


 <続く>


 


 

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