河内と大和

 神武が目指したのは奈良だけど、奈良に行くには大阪を通り抜けないといけない。その大阪だけど現在とはかなり様相が違っていたんだって。


「大坂城や四天王寺がある上町台地が半島やってん」


 上町台地の東側が河内湖と呼ばれる海みたいな大きな湖になっていたとは驚いた。


「河内湖には北から淀川、南から大和川が流れ込んでるやんか。そやから河の内の湖やから河内と呼ばれたんやと思うで」


 ついでに摂津は上町台地の先っぽ当たりだったとしてる。もうちょっとざっくりには、河内湖を挟んで淀川が埋め立てた方を摂津、大和川が埋め立てた方を河内としても良いかもしれない。じゃあ和泉は、


「河内の南になるんやが、水利が悪くて開発が遅れたんかもしれん」


 古代の畿内とは河内と大和だったかもしれないって。古代の産業は農業で、弥生式の稲作だったはず。稲作をするにはとにかく水は必要。だけど灌漑技術や治水技術はまだまだ貧弱も良いところよね。


 農業は川に沿って行われるけど、古代では川の上流が中心だったよう。もう少し言えば大きな川に流れ込む支流の上流の谷間かな。姫路のあたりは播磨と言うし、姫路のあるころは姫路平野になってるけど、古代は利用されなかったようなんだ。


「播磨は針間やってん。今やったら揖保川の上流や」


 大きな川の下流は水害が多くて利用できなかったぐらいだ。


「そやけど神武一派は古代なりに利用する灌漑技術があったんかもしれん」


 コトリさんも神武は奈良まで到達していたと見てる。


「纏向遺跡もあるからな」


 だけどまず栄えたのは河内のはずだって。理由は単純明快で仁徳天皇陵や応神天皇陵のようなウルトラ巨大遺跡が存在してるから。葬られているのが誰かの特定はともかく、あれだけの巨大古墳を次々に作れるだけの大勢力があった証拠と言えるものね。


「そやけど再び飛鳥に戻っとる」


 大和朝廷時代に飛鳥に都があったのは双葉でも学校で習ったもの。あれは神武から連綿と大和にいたわけでなく、一度河内に出てから大和に舞い戻ったとするのがコトリさんの説で良さそう。河内から大和に戻った理由は、


「やっぱり水害やないか。今やったっら想像も出来へん規模の洪水が定期的にあった気がする」


 大洪水が起これば田畑も、家も、宮殿だって根こそぎ流されてしまう被害を蒙っていたんだろうな。それだったら最初から大和のままでも良かったのに。


「いや神武が大和をあきらめた理由もわかる。これ見てみい」


 古代の奈良盆地の推測図だそうだけど、なんだよ、これ。奈良盆地の殆どが湖になってるじゃない。


「奈良湖と呼ぶのやけど、こんな大きな湖が真ん中にあったもんやから、奈良県にある古代遺跡は飛鳥も含めて端っこばっかりやねん。つまりは湖を臨む湖畔にあったっちゅうことや」


 大和って琵琶湖を抱える滋賀県みたいな風景だったんだ。そりゃ見晴らしは良かっただろうけど、耕地面積となると限られてしまうのはわかる。いや、実際に限られてたから大和から河内に行ったんだろう。


 奈良湖の排水口は大和川になり、大和川が河内湖に流れ込んで河内の国を形成したのか。この奈良湖だけど大和川から流出する量と奈良盆地に流れ込む量なら、大和川からの流出が多かったんだ。だから今の奈良盆地は単なる平地になっている。


 だけど奈良湖はかなり後世まで縮小しながらも残っていたらしい。小野妹子って言うから聖徳太子の時代になるけど、小野妹子と一緒に来た隋の答礼使である裴世清は、大和川を遡り海石榴市に上陸し、飛鳥の宮に行ったに記録されてるぐらいだって。


 奈良湖は縮小はしていただろうけど、聖徳太子の時代でも水郷みたいな状態で、奈良盆地を横断できるぐらいの規模があったで良さそうだ。


「これはコトリの推測やけど、神武の時代から河内の時代を経て、もう一回見に行ったら、陸地が増えてるから移ったんちゃうやろか」


 かもしれない。ちなみに奈良湖の水がほぼ干上がったのは大化の改新の頃じゃないかと考えられてるよう。奈良盆地では条里制に基づいて開墾された後が今でも確認できるぐらいだけど、これは手を付けていなかった奈良湖の湖底だったから、あれだけ大規模に出来たんじゃないかとコトリさんは考えているよう。


「水害をキーワードにして考えるとおもろいで」


 まず河内開発に着手したのだけど、定期的に襲われる大洪水に辟易したのはとっかかりよね。水害にトラウマを植え付けられた人間が考えるのが、


「水害のない土地に引っ込そうや」


 奈良盆地には河内の大和川のような大河はない。あるのは中小河川ばかりだから、当時の治水技術でもある程度は対応できて、また灌漑技術も使いやすかったはず。土地の狭隘さに対する不満はあったかもしれないけど、水害の恐怖に較べたらずっとマシみたいな認識かな。


 大和の王権は栄え、やがて平城京に都を移すことになる。どうして奈良盆地の南部から北部に遷したかの本当の理由は不明だけど、


「風水がもたらされたんちゃうか」


 風水では四神相応の土地を重視するけど、あれって、


 北に玄武・・・丘陵地帯

 西に白虎・・・大きな道

 東に青竜・・・流水

 南に朱雀・・・湿地


 平城京は北側に玄武と見たてられる佐紀丘陵があり、南側には朱雀に見立てられる奈良湖の名残りの湿地帯があったと見て良いはず。東西についてはコジツケぐらいかな。というか、北に丘陵を頂くのは奈良盆地の南部じゃ無理だものね。


「奈良盆地の南部でやるなら大和三山とか甘樫丘ぐらいやろな」


 平城京は最盛期には十万人ぐらいは住むようになっていたとする推測がある。それぐらい栄えたのだけど桓武天皇の時に遷都している。教科書なんかには旧仏教の勢力を避けるためとかあったと思うけど。


「それも理由としてあったとは思う。そやけどもっと現実的な理由としてそんな巨大都市の運営経験なんかあらへんやんか。当時の都市問題をどうしようもなくなった気がするねん」


 準備の不十分な特設イベント会場みたいな事態になったのじゃないかって。ぶっちゃけトイレ問題。特設イベント会場でもトイレが十分じゃないとトラブルになる。それが十万人ともなれば大量なんて規模じゃない糞尿が連日量産される。


 現代なら水洗便所で下水に流し、それを下水処理場から川に戻すけど、当時に下水処理場なんてあるわけがないから、直接流すことになる。だけど奈良盆地の川でそれをやると川が対応しきれなくなったのはあったはずだって。


「それだけやない、生活に水は必要や。そんな川から汲んだ水なんか飲んだら病気になるで」


 井戸も掘ってたかもしれないけど、近くの川がドブ川になれば影響した可能性もあるとしてた。


「あおによしで見た目は綺麗やったかもしれんけど、都の中には悪臭が漂うとったんちゃうか」


 朝廷だって身近過ぎる暮らしの問題だから対策を真剣に考えていたのだろうけど、


「行き着く先は水不足やんか。水なんか増やしたくても右から左にどうにか出来るもんやあらへん」


 そこから新しい都の候補地を探し始める試行錯誤があるのだけど、


「平城京の一つ前の長岡京がおもろいねん」


 長岡京の特徴として水が豊富なこと。家ごとに井戸が設けられ、都の中に下水設備を設け、これを豊富にある水で南の淀川方面に速やかに流せるようにしてあったそう。古代の水洗便所みたいな感じかもしれない。


 平城京で水に困った反動で水にこだわった土地に都を作ろうとしたのだろうけど、豊富な水が長岡京を都にするのを阻んだらしい。


「簡単なこっちゃ。普段から水が豊富って事は、大雨でもあったら都が水浸しになる」


 そうなるよね。長岡京が都にならなかったのは、政治的な問題もあったみたいだけど、現実的には建設中にも起こったはずの水の制御問題が、どうしようもなくなってお手上げになったんだろうって。過ぎたるはなんとやらだね。


「それぐらいの経験があれこれ蓄積されて千年の都の平安京が出来たってことや」


 う~む。歴女のコトリさんの知識はおそるべしだ。

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