第26話

 そのマリアも、鳥坂の傍らにいつの間にか座っていた。

 手で押さえた傷は、乾くことなく血液を外に送り出している。さっきまでの喧騒が徐々に遠のいていく。

 意識が奈落へと落ちそうになった時、傷口に小さな何かが置かれた。霞みかけた目に映ったのは、胡蝶を真似て手を添えているマリアの姿だった。そのマリアの唇が動いた。


「……声、出るんじゃねえか」


 次の瞬間、急に傷口からマグマでも噴き出したんじゃないかというくらいの熱さと、強く肉を素手で引っ張られているような、痛さが脳天を突き抜けた。


「痛てぇっ!!」


 刺された後にも出なかった声に鳥坂自身も驚いて、一気に現実に戻された。


「鳥坂?!」

 

 胡蝶が驚いて鳥坂の顔を手で挟み込んで、無理矢理上に向けるから胡蝶の顔を間近で見る羽目になる。


「首が痛い!」

「あら? 案外に元気ね」

「……刺されて元気もなにもあるか」


 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。救急車が到着し、同じタイミングでパトカーも横付けされる。

 鳥坂はストレッチャーに乗せられた。車内は座るスペースはあるが、胡蝶のせいで圧迫感がある気がした。


「鳥坂、大丈夫かい?」

「え?……ああ、何とか」


 鳥坂は傷口を反射的に手で押さえていたが、違和感があった。

 数分後には、近くの病院に運び込まれていた。処置室で医師たちが意識確認をするが、平時と全く変わりなかった。

 医師が何かを話し合っている。周りの看護師たちも戸惑っているというより、手持無沙汰に見えた。


「名前は鳥坂涼太さんですね」

「はい」

「この血は?」

「刺されたんですが……」

「――わかりました。少し染みますよ」


 一人、二人と処置室を出て行き、医師と看護師の二人が残った。


「はい。終わりました。起き上がれますか?」

「え? 手術とかしないんですか?」


 刺された人間は、それが普通だと思っていた。ゆっくり上半身を起こすと少し目が回る。傷を見ると、大きな絆創膏のようなものが貼ってあるだけだ。医師は腕を組んで納得できない表情をしていた。


「服に付着している血液を見ても、傷は深いはずなんですけど……運が良かったとしか……」

「どう言う意味ですか?」


 医師は唸りながら答えた。


「ほぼ出血は止まっていて、深めの切り傷と言う感じでして。でもね……とにかく処置はこれで終わりです。念の為、入院してもらいますね。早ければ明日か明後日にも、退院できると思いますので」


 看護師に支えられながらベッドから降り、廊下へと出た。

 待合の椅子に胡蝶とマリアがいた。胡蝶が悲痛な面持ちで駆け寄ってくる。数歩のところで一瞬、目の前が暗くなり、足に力が入らなくなった。支えていてくれた看護師と胡蝶が受けとめてくる。


「鳥坂! 歩いて大丈夫なのかい?」

「すみません。いまから病室にお連れしますので、少しお待ちください」


 看護師は直ぐ近くの部屋に入っていき、車椅子を持ってきた。案内された病室で横になると、少し楽だった。


「何かあれば、ボタンを押してください。十七時夕食で就寝は二十一時。朝は七時には検温になります」


 必要事項だけいうと、さっさと出て行ってしまった。


「鳥坂、あんた傷は?」

「いや、それが」


 医者かた受けた説明を、そのまま胡蝶に伝えた。

 話しながら鳥坂は刺された直後を思い返し、途中から痛みが引いていった気がした。

 自分自身も結構な出血をしていたと自覚があった。それに相手が持っていた刃物の柄まで、血が付いていたのを見ている。

 胡蝶もそんな浅い傷ではなかったと口にしているが、刺された場所は、今は少しチリっとするだけだった。

 確認のため服を捲りあげてみる。それからゆっくり絆創膏を外していった。


「……え? いや、そんなはずないでしょ」


 傷に鼻が付く距離で見る胡蝶は、訝しげに眉をひそめたあと信じられないという顔をしている。

 胡蝶も医師同様に唸って椅子に座った。胡蝶と入れ替わって、今度はマリアが近づいてきた。気にせず二人は話しを続けた。


「医師もお前と同じ反応だった」

「そりゃあそうよ。鳥坂もしかして」


 胡蝶は、重要な事を告白するような威圧感を出している。


「なんだよ」

「あんた、宇宙人とか」

「アホか。赤い血だろうが」

「よね。冗談よ冗談」


 その時、油断していた鳥坂の傷口が、また熱くなり痛みが走った。


「っ痛!」


 腹を見ると、マリアが傷口を瞬きもせずに凝視している。添えられているマリアの手を退けると、傷が綺麗になくなっていた。


「胡蝶!」


 鳥坂は思わず叫んだ。異変に気付いた胡蝶は、鳥坂が釘付けになっている腹を見た。


「――これは」


 二人の視線が同時にマリアを捉えた。

 本人は何もなかったかのように、視線を鳥坂一点に絞り、何処かに引きずり込もうとする、強い意志を含んで見据えている。

 マリアは、自分の手をじっと見ている。暫く病室内は静かで、たまに廊下から聞こえてくる足音がやけに大きく聞こえてきた。


「マリアちゃん。何をしたの?」


 初めに口を開いたのは胡蝶だった。マリアは戸惑っている様子もなく、ボードで会話を始めた。


「『治れ』っていった」


 胡蝶が復唱し視線を投げかけてきた。鳥坂も信じられない気持で、目があったままだったが、


「あ!」

「何?!」

「こいつ話せるぞ」

「今、その話じゃないでしょ」

「でもそいつは『いった』て書いてあるだろ? 俺、刺されて朦朧としてた時、こいつの口が動くのを見た」


 ただ、動いているのは見たが、声は聞けていない。そこは面倒なので省いた。


「そうなの? マリアちゃん」


 彼女は俯き、何も答えない。鳥坂が見た光景は、間違いないと確信した。


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