第20話

 小学三年の頃まで父親は朝ネクタイを締め、母親は朝食を作って家族三人でテーブルを囲っていた。毎日が何事もなく、無難に過ぎていた。今なら分かる。何も起こらない日常ほど実は幸せなのだ。

 日々、変わり映えがないため、色艶やかに残っている記憶はほとんどない。

 ただ振り返った時に、総括的に思い出す程度になってしまうと共に、心と体に受ける痛みだけが鮮明に残っている。


 平坦だった道が、急に吹雪く真冬のように険しくなったように、印象があまりにも強過ぎるためかもしれない。

 それは鳥坂にとって初めて父親に殴られた時だった。なぜ父親が自分を殴りだしたのかは、徐々に家の雰囲気から察していた。

 勤める会社が傾き始めリストラにあった父親は、次の職場を探すために暫くは奔走していた。


 しかしもともとプライドが高かったので、勤めていた会社よりも格上、もしくは同等の職場を探していたようだった。何十社と受けても仕事は決まらず、次第にその憂さを母親にぶつけるようになっていた。

 持ち家ではなく、まだ賃貸だったため借金はなかった。家賃と水道光熱費さえ払っていれば住む所は失わずにすんでいた。

 家計を支えるために母親がパートを始めると、父親はとうとう職探しも止めた。生活を母親に頼るようになってから、人として堕ちて行くのは速かった。


 母親から金を取り上げギャンブルにつぎ込み、何処かで金を借りまたギャンブル。母親が借金に気付いた時には何百万になっており、それと並行して暴力も比例していた。

 ギャンブルで負けると母親の髪を引っ張りながら顔を殴り、うずくまると足で何度も蹴る。

 鳥坂にも容赦はなく、蹴る殴るは日常茶飯事。水の張った風呂に何度も顔をつけられ、死にそうにもなった。

 次第に物を使うようになり、包丁で背中を切りつけられたり、熱したアイロンを背中に投げ付けられて、見事に痕が残った。


 包丁の時はさすがに、父親もまずいと思ったのか、それ以降は部屋にある殴れそうなもので何度も襲って来た。今思い返せば、冷静に判断して暴力を振るっていたと思う。

 母親は、息子の鳥坂が殴らている間、泣きながら身を挺して守ってくれたが、仕事に行っている時は小さい体はなさがれるままだった。

 とうとう貯金もすべて使い果たし、借金を返せなくなってきた頃に取り立てがやってきた。それが安積だった。




 脳内で当時の映像が映画のように流れていた。気が付くと水音がいつの間にか消え、ふんわりボディーソープの香りが鼻に付いた。


「涼ちゃん」


 アイマスクのようにしていた腕が、意識とは別に剥がされる。

 腕の重みで眼球を圧迫していたから数秒、目がぼやけていた。視界がはっきりしてくると、バスタオル一枚の桃香が上から覗いていた。吹ききれていてない髪先から落ちる水滴で、鳥坂の白いシャツに水玉模様を作っている。


「髪、ちゃんと乾かせ」

「涼ちゃんが乾かしてよ」


 桃香は横たわる鳥坂の上に跨ると、おもむろに撒いていたバスタオルを外した。

 若々しい張りのある胸に桜色の尖り、くびれのある腰は何人もの男を喜ばしてきた。


「じゃまだ。どけ」

「私これでも売れっ子なのよ? お風呂代に好きにしてもいいんだよ?」


 鳥坂は馬鹿馬鹿しくなり、体を滑らす様に下半身を抜いた。


「ちょっと! 若い女が裸で跨っているのに、なんで反応無いわけ? 病気? 病気なの!」

「はあ? お前に魅力が無いから勃たないんだよ」

「やっぱり幼児趣味なんだ。前々から変だとは思っていたのよね。私がどれだけ誘っても、なびかないんだもん」

「何、言ってんだ? そんなわけないだろうが」

「だって私見たのよ。子供と歩いているところ」

「どこで」

「公園付近」


 マリアを連れて歩いている場面を、運悪く見られていた。


「俺と子供だけじゃなかっただろ。もう一人一緒にいたはずだが」

「知らない」

 

 桃香は頬を少し膨らませ、タオルを体に巻きなおすと脱衣所へ入っていた。

 鳥坂はキッチンで、インスタントコーヒーを入れ始めた。用意した二つのカップをリビングのテーブルに置くと、一つはそのままにして口を付けた。

 差し込む光が、朝のとは違う場所を照らしているのに鳥坂は気付き、時計を見ると十二時を過ぎている。

 時間を知ると急にお腹が空いてきた。桃香がムスッとした顔でリビングに戻ってきた。


「コーヒーを飲んだら出て行け」

「え? 嫌だよ。まだいる」

「俺は出掛けるんだ」

「何処へ」

「飯」

「じゃあ私も行く」

「来るな」

「一緒に行く」

「……勝手にしろ」


 鳥坂は桃香を見据えてみたが、気にもせずに身支度を始めている。

 ソファから立ち上がり上着を手に取ると、そのまま玄関に向かった。その後ろを、文句を言いながら慌てて桃香が追いかけてくる。

 駅前にある牛丼店で食べている間、桃香は仕事の愚痴をこぼしていたが、BGM程度にしか聞こえていなかった。

 店を出ると、そのまま桃香を追い返した。お腹を満たして満足したのか、吐き出す物を吐いてスッキリしたのか分からないが、手を振って「またね」と軽い足取りで駅の階段を上がっていくのが見えた。

 力ずくで追い払えるのにしないのは、桃香の事情を少なからず知っているから。鳥坂は自身と似ている部分があるからこそ、邪険にできないでいた。

 空を見上げてみると雲一つなく、気温も心地が良い春日より。生憎仕事の予定も入っていない。このまま電車に乗ってあても無く出掛けるのもいいと、一瞬考えた。

 数秒迷い結局、公園へと向かった。歩いていると少し汗ばむが、吹く風が滑らかにすり抜けて、口に含んだときのハッカのような爽やかさがあった。

 公園に着いたが中には入らずに一瞥した後、胡蝶と歩いた道をなぞって進んだ。

 なぜその道を辿っているのか、自分でも理解できなかった。考え始めると、自分の行動を客観的に見て、あのマリアに会いたくて向かっている気がして笑いが込み上げてくる。


「家に戻るか」


 踵を返して道を引き返そうとした時、携帯が鳴った。有難いことに仕事の依頼だった。呼び出しは日常に戻れる合図音のようで、ほっとした自分がいた。

 人となるべく深く関わりたくはないのに、自らそこに無意識に入り込もうとしている鳥坂を引きもどした。 



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