第12話 幕間

 今までの過去を伝えるべきか、マリアは迷っていた。

 迷えば迷うほど、小さな器に溜めていた物が膨張し、はじけそうになる。

 でも鳥坂涼太なら受けとめてくるかもしれない。初めて会った時にそう直感したからこそ、今ここにいるんだと思いなおし、ゆっくりボードに今までの経緯を書き始めた。

 マリアの父親は会社経営をしていた。両親は仲が良く、隔世遺伝で姿はハーフのマリアを可愛がっていた。

 ことに父親はそんな娘を、舞い天使だといい溺愛していた。

 休みの日には家族でよく出かけ、父親は必ずと言っていいほど、写真を撮っては家に飾った。


 しかし徐々に陰りが出始めた。マリアが小学三の春頃から明るかった家の中が、次第に薄日が差すくらいまで光度が落ちて、顕著になり始めたのは、その年の夏頃だった。

 夏休みに入り、学校でプール教室が開かれていたので、家で水着を着こんだマリアは、決められた日に通っていた。

 母親が朝から町内会の用事で、昼まで留守にした日だった。部屋でクーラーを涼みながら水着に着替えている途中、父親がやってきた。


「マリア。ちょっといいかな?」

「どうしたの? パパ」

「ビデオ、撮ろうと思って」

「ビデオ? プールの?」


 いつもと違う雰囲気の父親に、初めて嫌悪感を抱いた瞬間だった。でもなぜ大好きな父親に違和感を感じたのか、この時はまだよくわかっていなかった。


「マリアの成長を記録するためだよ」


 父親の顔はいつもと同じ表情をしていてにこやかなのに、知らない人間が父親そっくりの顔を張り付けているような不気味な感覚があった。

 マリアはどうしていいか分からず、パンツとシャツを着たまま棒みたい突っ立っていた。


「マリア、時間は大丈夫かい? 早く着替えないと」


 時計を確認したら、十時を指している。プールは十時半からだ。

 写真やカメラを撮る行為は、いつもと変わりないと思い直して、水着に着替えた始めた。

 父親はマリアを中心に周りを回りながら、時に一視点を集中しながら撮っていた。いつもと同じはずなのに、皮膚に何かが這っているような気持ち悪さがあった。


 パンツを脱いで水着を穿く時、父親は正面から着替えをカメラで撮り続け、レンズが視線みたいにマリアの上から体の中央部に位置を定めた。

 身をよじっても、レンズは追いかけてくる。部屋はレースカーテンだけで明るいのに、気持ちは反比例して曇天模様だった。

 水着に着終えて、上から制服を着たマリアは、


「じゃあ、パパ。行ってきます」


 と顔を見られずに、逃げるように学校へと走って行った。

 その日からお風呂は一人で入りたいとお願いしたのに、父親が残念そうな顔をするから、母親がマリアに気持ちを汲んでやって欲しいとお願いされて、願いは叶わなかった。

 カメラで何かが弾けてしまったのか、父親の行動はタガが外れたように遠慮がなくなった。

 体を洗う時、あの張り付いた顔で、「ほら、ここは大事な所だからね、こうしてよく洗おうね」

 今までタオルで洗っていたのに、急に指で洗い始めた。

 マリアの陰部の浅い部分で父親は、指を蠢く虫のみたいにクネクネと動かした。子供ながらに父親が変わったことを感じ取ったし、自分にされていることは人には言えない恥ずかしいものだと、本能で分かっていた。

 悦に浸る顔で体に触れる父親は、もはや得体のしれない怪物そのものだった。父親は、マリアの胸にある小さな膨らみを、指で何度も何度も泡で滑らせながら撫でた。


「マリアのここも可愛いね。桜色で綺麗だよ」

「パパ……」


 この時、父親の反対の手が忙しなく動いていた。何をしているのか気にはなった。でもそこにお化けがいて、見てしまえば取って食われるような恐怖が、マリアの体をもっと固まらせた。

 下から聞こえてくる租借のような粘着質な音。皮膚にあたる、浴室とは違うねっとりした湿気のある熱。本能で危険だと分かっていても、どうする術もなかった。そして父親は言った。


「マリア、これからも毎日一緒に入ろう。パパが綺麗にするから」


 首を縦に横にも振れず、部屋に掛け込んだ。

 あれは本当の父親じゃない。瓜二つの他人が成りすましているんだと、何度もマリアは考えた。

 優しくて、いつもマリアを可愛がってくれていた。出掛けて歩き疲れたマリアをおぶってくれた父。風邪で発熱したマリアを心配して、早く仕事を切り上げ、甘い果物やアイスクリームなどを買ってきてくれた父。


 昔の父親を思い浮かべているうちに、膝に抱きかえてくれていた父親の手はどこにあった? 負ぶってくれた父親の手は、どこを触っていた?

 普通だった思い出が、今の悪魔になった父親に侵食されてきて、どれが本当の姿なのか、分からなくなってきた。

 過去を振り返れば振り返るほど、マリアは混乱していた。自分だけが違う世界にきてしまって迷子になっている気分だ。

 とうとう我慢ができなくなったマリアはある日、思い切って母親に告白をした。


「マリアちゃん。考え過ぎよ」


 母親は父親と同様に、にこやかな表情なのに血が通っていない、不気味な面持ちだった。

 マリアは思った。やっぱり本当の両親は何処かにいて、そっくりな何者かが二人のフリをしているのだと。

 そしてその日がやってきた。父親が、夜のマリアの部屋に来るようになった。


 どこかでいつかはこんな日が来ると、父親が変化した日から考えていた。それでもマリアは、親子の繋がりを信じていた。信じようとしていた。

 マリアが寝ていると、股から今まで味わったこのとのない不快感で起こされた。掛けられていた布団は何処にもなくて、寝ているベッドがいつもより沈んでいる気がした。

 暗くて静かだった部屋に、お風呂で聞くあの音が鳴っている。犬が餌を前に興奮している時と同じ息遣いも聞こえてくる。

 自らの体を防御するみたいに、マリアの体に力が入った。


「……起きたのか?」


 父親の声だった。少しだけ開けられたままの扉から、廊下の細い明かりが差し込んでいて、股にある顔がベッドを軋ませながらマリアの顔を覗きこんでくる。

 怖くて声が出ず、手で顔を覆った。声ではなく、はっきり顔を認識してしてはいけないと、心が訴えている。

 認識してしまえば、本当に何もかもが壊れてしまう。マリアは時間よ止まれと、何度も起こるはずのない奇跡を願っていた。

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