ブンヤ

森川めだか

Butter Knighves Thence

Butter Knighves Thence

                      


pool


 被害者Aの母の供述。

「怖かったんです。ただ怖かった。スてるとか、はい、本当にそれだけです。汚したくなかった・・」

アパートジョイセル。新聞記者の真神まがみふゆと赤内あかないレルは赤ちゃん投げ落としの現場の取材に来ていた。

ふゆはアパートを見上げた。

「同じ部屋で・・」レルが口を挟んだ。

「あの部屋か」ふゆが指を差した。

「そうみたいですね」

下は堅い石が固められている。

「これじゃ助からんな」

「自分で110番通報か」レルは資料を見ながらその部屋の小さなベランダを見上げた。今は何も干されていない。

「単なる偶然ですかねえ」

「同じ部屋で同じ事件が二件も起きてんだぞ。気味悪いな」

「ふゆさん、そういうの信じるタチですか」レルは釣り目を細くして笑った。

ふゆはこのアパートを照らす街路灯によりかかっていた。

「蠅の一生ってさ、」

「え?」

「いや、いい。先生書いてくれるかな」

「そのためにもちゃんと調べなきゃ。早く書かないとまた罰金ですよ」

夜は湿ったプールの匂いがする。

レルは新聞社で資料室にいた。ふゆはデスクで母親たちの供述書を読み直していた。

「ふゆさん、ありましたよ」レルから仕事用のフィーチャーフォンに着電があった。

薄暗い階段を行く。

途中の自販機で炭酸飲料を買って、資料室に入った。

「意外な共通点」レルが自慢げに過去の新聞を手にしている。

「こんなのも出てきました」その前に、レルが出したのは去年のエープリルフールの新聞の欄だった。

「ああ、懐かしいなあ。みんなで頭ひねったっけ」

「結局、誰の案が採用されたんでしたっけ?」

「覚えてない」その小さな記事には「地底人の骨、見つかる」と書いてある。

「で?」

「ああ、二人とも薬剤師でした。見て下さい」レルは机に過去の新聞と最近の新聞を比べるように並べた。

「ホントだ、職業薬剤師か」容疑者の名前の上に小さく書いてある。

「住所は一緒」レルは爪をずらした。

「民生委員がいたみたいですね。同じ。今もやってるんでしょうか」

「この記事面白いな。こんな事件もあったっけってのが多いけど、この記事は取っておこう」ふゆがコピーしているのは地底人のエープリルフールの欄だった。

二人の母親の元を回っていた民生委員は西弥生子にしやえこといった。

「他のご家族も回ってますから、そうです、このアパートも全部です。お二人は困窮されてた様子は見られませんでした。二人とも赤ちゃんが生まれたばっかりで、幸せそうでしたよ」

ふゆは喫茶で自分のフィーチャーフォンの番号が書かれた名刺を渡した。

上ではプロペラが回っている。

「驚きました」弥生子はそう言って、汗ばんだ口元を拭って俯いた。

「もちろん事故物件として出したわけですよね」ふゆは火を差し出した。弥生子は煙草を吸うのだ。

「それでも構わないと仰る方は多いようです。格安ですし。小学校も近いし」弥生子は灰色の息を吹き出した。

「この記事をね、小説にしたいんですよ」

「小説?」弥生子の手が止まった。

「面白がってるわけじゃないんです。ただ、この件には今の日本の根深いものが潜んでいる気がしてね。ああ、どうぞ。新聞記者も事件を解決できるわけではないんです、それは警察とか検事とか裁判の仕事。後を追うこともできますが、毎日事件が起きるでしょう。続報を出すような気持ちでこの事件を小説にしたいんです」

「実際の事件を基にしてですか?」弥生子は煙草をもみ消し、コーヒーをすすった。

「その方が新聞連載にいいでしょう」

弥生子は何か考えていたのか窓から外を見ていた。通る人の足が見える。

「私には何の権限もありませんから」

「もうあの物件には」

「恐らく誰も住み着かないでしょうね。管理組合も及び腰ですし」

「ご足労かけて申し訳ございません」

「倉庫ですよ、倉庫」

弥生子の吐き出すような声がいつまでも消えなかった。

ふゆもレルも未婚だ。

新聞社に帰るとレルがアソートチョコを差し出した。

「今日、バレンタインだっけ?」

「別にバレンタインじゃなくても良くないですか?」

みんなももらったらしい。

「面白い話が聞けた」ふゆは自分のデスクに座るとチョコを一つ口に放り入れた。

「ふゆさん、何か言いかけたでしょう。私に」

「何を?」

「あの時、アパートの前でですよ」

「ああ、蠅の一生な。蠅は約500もの卵を産み付けるらしい」

「よくチョコ食いながらそんな話できますよね」

「それからな、蠅はウジになったりさなぎになったり、忙しいんだ。生きてから死ぬまで約一か月半だよ。それしか生きられないんだ」

「どこにでもいますし、いつもいるように感じますけどね」レルもふゆのアソートの一つを摘まんだ。

「同じ蠅じゃないんだよ。薬剤師か」ふゆは蓋をして脇に置いといた。

「ちょっとずつ食べる気ですね」

「頭がいい蠅は他の蠅と比べて寿命が短いんだと」

「誰が調べたんですか?」

「知らないよ。蠅にもストレスがあるんだと」ふゆは笑った。

「薬剤師か」

レルはもう他の記者とお喋りをしている。

ふゆは今回の赤ちゃん投げ落としの一応の書類をまとめた。その中にエープリルフールの記事も混ざっていることに気が付いた。

同じクリップで留めた。

「おい、レル。お茶持ってきてくれよ」

レルには無視された。

「いいよ、自分で行くから」給湯室にはみんながデスクで食べた食い物のプラ容器が捨ててある。その下にコバエが死んでいた。

「食べるものもなかったか」ふゆはティーパックを上へ下へお湯に浸した。

育児放棄ならこの世界にごまんとあるが。

手を出しそうになった経験なら誰だってあるだろう。

「罰金ですよ」戻ったらレルが罰金状を持っていた。

ここの部署では次の新聞に記事が間に合わなかった罰金を取る仕組みになっている。

「また俺か。いくら溜まってる?」

「一万円ぐらい。断トツ」

「俺と組みになってるんだからお前も一緒だろう」

「私のは間に合わせました」レルは舌を出した。

思うところがあったのかレルは黙った。

「本当の気持ちが新聞記者に書けるんでしょうか」

「甘っちょろいこと言ってんじゃないよ」

「その子にはその世界しかないんだからって書きたかったんです」

レルのデスクの脇には大きいキャリーバッグが立たされてある。

「キャリーバッグ・・」

「ああ、他の取材です。ビジネスホテルで女性の死体が発見されたんですよ」

「わざわざ行くことか」

「それが、何か月経っても身許が分からないらしいんです。不思議でしょう、高齢女性が、お金を持ってそのまま死んで、その身許が誰にも分からないんだって」

「親族は?」

「何人か名乗り出たらしいんですけど、その誰も別人だったって」

「行旅死亡人か」

「温泉でも入ってゆっくりしたいです」

「お疲れさん」


silver spoon


 ふゆとレルは取材のレポートを持って氷雨銀ひさめしろという作家に会いに行った。もう話は付いてるはずだ。

「銀さんの過去、知ってるか」ふゆは行く途中でレルに聞いた。行き交う人々は二人が新聞記者だと知らない。

「氷雨先生のですか?」

「父親が愛人殺したんだとよ。変わり種だよ」

レルは初めて氷雨の部屋に入った。

そこには文机と、飾り棚一つだけ。

座る場所さえ用意されていなかった。銀は文机の前に陣取ったままである。

「先生、今度の」ふゆがレポートを銀の前に置いた。

「ああ」と言って、しばらく銀はそれを見ずにペンの先で耳をほじくっていた。

「実際の事件って言ったのは僕なんですよ。せっかく新聞小説書くんだから」銀はレルを見て話した。

「赤ちゃん投げ落としですか?」

銀は肯いた。

「たまたまテレビつけたらそれが映っててね」

部屋にはテレビがなさそうだ。

やっと銀がレポートに目を通し始めた。

「街路灯の色は何色でしたか」

「普通の・・」

「普通の」と言った銀の唇は薄い。

「これは?」銀が手控えと見紛うほどの小さな切り抜きを手にした。黄ばんでいる。

「去年の、お遊び半分で書いた、エープリルフールの記事です」

「嘘か」

銀は何かを書き付けた原稿用紙をヒラリと二人の前に置いた。それを手に取ったのはレルだ。

「アガーサの人類プロデュースフォースの力を試すゲーム? どういう事ですか」原稿用紙にはそこしか書かれてない。ふゆに渡した。

「アガーサってのが地下人類、で、フォースってのが地球」

レルは思わず笑ってしまった。

「聞いても分かんない」

銀は体の向きを変えた。

「日本人は何も信じていない。この事件の根っこはそこにあると思いませんか」その指は床に置かれた原稿用紙にある。

「信じるとは」

「神を信じるのは人の勝手、という風潮ですよ」

「それで地底人類?」

また、銀はペンで耳をほじった。

「地球空洞説。小説って例えば変なものですよ、全て知ってて始まるんですからね」その原稿用紙を文机に戻した。

「タイトルは」

「美毒」

「社会面に掲載します」

「そんな大層な」銀は笑った。

「日本人はシマウマですね。黒にも白にも染まる」

「そういえば、稀に人間にも宿るそうですね、羊とか」

「ああ、ウジね」

「蠅の一生って自分で考えたんじゃないんですか」

「蠅は暖かい部屋なら50日、蠅のさなぎはね、土中で花開くんですよ」

「花、ですか」

「こうやって、環のように蓋が開くんです」

「先生、母親は二人とも薬剤師でした」

「読みました、興味深い」

「じゃあ、そろそろ」

ふゆとレルは立った。

「動機は、汚したくなかった、だけですか」

「今のところは」

「先生、連載開始は今年の、エープリルフールになるようです」

銀は肯いた。

「蠅は英語でフライですが、バターフライがなぜバターなのか今も分かってないようです」

「どうした、鳩が豆鉄砲くらったような顔してさ」

「常識がない人ですね」レルはプンプンだった。

「初めましての挨拶もなかったですよ」

「お前もしなかっただろ」

「おこんばんわしか出てこなくて・・」

外には星が出ていた。

「変なこと気にしてましたね、街路灯の光が何とかって」

「もう一回、見に行ってみるか」

銀は電気を消してスタンドライトだけだ。

「アガーサは母親に殺された子供なんだ。そして、フォースは車を燃やしてアガーサに対抗する・・」

思い付くまま書き出していった。

「惑星直列か」

ペンで耳をほじくった。

「アガーサは何かを失った人類、何か、何かな」今やっていることだ。何も置かれていない飾り棚。

「アートだ」

気が逸れるのがあって良かった。

「さすが作家さんは言う事が違うね」

「どこがですか」

「何も信じてないのが日本人だって」

「それぞれ矜持とか宗教に限らず持ってるんじゃないですか、思いあがりですよ」

「神は心的事実の中にいるんだよ」

「思い込みってことですか」

「今の日本じゃ確かにそうだろ。俺は日本のことしか知らんが」

現場に着いた。

アパートには灯が点っているところもある。

「んー」ふゆは街路灯を見上げた。

「そういえば、海の色に見えなくもないな」

「ただの黄色。昼光色ですけど」

ふゆもレルもあの部屋を見た。

「何か言ったらどうですか」

「小説じゃないんだからそうスラスラ出てこないよ」ふゆは街路灯に手を付いた。

「ジェリーフィッシュだな、俺達」

「くらげ?」

「地上で溺れてる」

「じゃあアガーサはモールですか」レルは地面を踏み鳴らして笑った。

「そうだ、モグラだ。新聞記者にできる事はって聞いたよな。フィクションとノンフィクションの垣根を作ることだよ。ここから先は越えちゃいけませんよってな。それがどっちだか分からなくなっちまった」ふゆは土を蹴った。

「ちょっと寝てリフレッシュした方がいいですよ。目に隈ができてますよ」

近くの公園ではスプリンクラーの散水が始まっていた。

「夜なのに」

「朝にやりすぎると蒸発するんだ。植物は夜に育つんだよ」

「人工芝なのに」

レルの頭は原稿用紙に戻っていた。あの原稿用紙も黄ばんでいた。

ここから先は見えない。

「頭のいい蠅は何をするんでしょうか」

公園の柵の中ではどこへも行けない動物たちが誰も乗せずに笑っていた。


many love


 銀は神に代わるものとして善を置いた。アガーサの世界に。

それからゆっくり父親に思いを馳せた。

「私が行っても寂しがらないでくださいね」

レルは首元にマフラーを巻いた。

「どこに行くんだっけ?」

「熱海」

「何て名乗ってたんだ、その死んだばあさん」

「えと・・」レルは黒い皮張りの手帖を取った。

「いいの持ってんな」

「私の就職祝いに買ってくれたんですよ、・・容莉枝よりえです」

「それだけか? チェックイン時の名字は?」

「あれ? 聞き忘れたのかな」

「抜けてんな」

「お土産何がいいですか」

「ロールケーキ」

「何で熱海なのにロールケーキなんですか」

ふゆは笑った。

「いいネタ取ってこいよ」

レルはキャリーバッグを引いて部屋から出ていった。

民生委員の西からふゆのフィーチャーフォンに着電が入っていた。

ふゆも表にでて下の自販機で炭酸水を買って、折り返した。

「何か分かりましたか、他にも。あのアパートの件ですよね」

西は慌てていた。

「いえ、違うんです。ジョイセルの他にも私、見回りを持ってて、マンションなんですけど」

「そこで何か?」

「あの事件があってから気味悪くて」

「また事件が?」

「多分」

西の話では受け持った当時から、長年、倉庫になっている部屋がそのマンションにあるという。これまでは気に留めなかったが気にし出すと止まらない。

「来ていただけませんか。民生委員っていっても何もできませんから」

「見てみましょう。鍵は持ってるんですか?」

西はマンションの名を告げた。

弥生子はマンションの前で待っていた。白塗りのマンションだ。

「新しく見えますが」

「何年か前に大規模修繕したんですよ。こう見えても築年数は経ってます」西は前に立って、エントランスキーで中に入らせた。

「これも新しく取り入れたみたいです」

「それまでは誰でも入れたんですか」

西はある一室の前で立ち止まった。

「この部屋です」

番号も表札をかける所もない。ふゆはドアポストを押してみる。

「目張りされてますね」

「入りますか?」

ふゆは肯いた。

西が鍵穴に貼られた白い粘着テープを剥ぎ取って鍵を差して回した。

先に入ったのはふゆだった。

籠った匂いがする。

「倉庫といっても何も入ってない」ふゆは足で床を擦ってみた。誰も使ってないようだ。

「表向きですね。風、入れましょうか」こんな時でも民生委員なのか西が窓を開けようとした。

「ここにも粘着テープが」

「開けない方がいいですよ」ふゆは全体を回ってみて、また元の位置に戻った。

「ここで何かがあった」

「ずっと前ですよ」

「後で資料を調べてみますよ。マンションの名前は変わってませんよね」ふゆはレルの手帳とは比べ物にならない100均で買った手帖を広げた。

資料室にはその当時、取材に行った記者たちの覚え書きも入っている。今は電子化の時代だが忙しくて手が回らない。

黄ばんだ三面記事にこれもまた手垢の付いた取材レポートがクリップで留めてあった。

「ここか」

マンションの名こそ書かれていないがあの部屋で赤ちゃんが殺された。母親の手で。

取材には産後うつ? と書かれている。

「枕で顔を」母親の証言だ。

「母親はどうした」記事にも取材にも母親の名は消されている。これは精神に問題があった場合が多い。

その時の現場の写真が残されていた。木目調の部屋。マンションは白塗りではなく真っ茶色をしていた。昔の写真では入り切れなかったらしくマンション自体が歪んで写っている。

窓からは何も写っていない。下は畑、その時にはここにマンションは珍しかったのだろう。

銀は獄中死した父のことを思い出しながら、ふゆが持って来た赤ちゃん投げ落としのレポートに目を通していた。

「汚したくなかった、か」

どういう意味なのだろう。

人は離婚する遺伝子を持って生まれてくることもあるという。父は僕をお母さんからも奪おうとする。

だから銀は神を信じ切れないのだ。

母はあの事があってから呪詛しか口にしなくなった。銀の中で父は蠅だった。他人の死体に群がるどうでもいいもの。ただ、目障りだった。

子供の象徴は孤独だった。他ならぬ自分に付いた影。

それは今も自分を覆い隠す。それは誰の影なのか母親の影ではないだろうか。

銀は父のことを小説に起こそうとかそんなことはしない。

思い出より貴重な物はない。

「さあ、書かなきゃ」

アガーサの主人公はすももにした。女の子だ。

自分の手で父を書いて小説を汚したくなかった。

アガーサは手火たひを持っている。暗い地中でも生きていけるように。その他は地表人と変わらない。

銀は煙草を吸った。一枚目の原稿用紙に「美毒」と書いて、また新しい原稿用紙をめくった。

銀は結婚は考えてない。

「だーれだ」ふゆの目が手で覆われた。

「帰って来たのか」

「何だ、分かっちゃいましたか」レルが手を離した。

「ちゃんと取ってきただろうな」

「ちゃんとありますよ、ほら手拭い」レルが持って来たのは瓦の柄の手拭いだった。

「みなさんの分もありますよ」

レルは貝紫色の手拭いを配って回った。

「何かありましたか、何か元気ない」

「もう一人の被害者が出たからな」

「また赤ちゃんですか?」

ふゆは肯いた。

「ずっと前のな」

ふゆはため息を吐いた。

「後は天運に任せるしかない」

「心配いらないですよ。最後に春は勝つんですから」

レルは罰金状に書き付けた。

「どうした?」

「私、この記事間に合わなかったから」

ふゆは下に降りて、帰ってから飲もうと自販機で缶ビールを買った。

忘れてはいけないと思い、西に電話した。

「風邪声ですみません」西が出た。

「現状維持。あの部屋には入らないでください」

「頼まれたって」

ふゆは新聞社のビルを見上げた。今日も新聞記事は心のすき間を通り抜ける。

ふゆはビールの蓋を開けた。

あの部屋にはいつから置いてあるのだろう、青いボックスティシューだけが蓋も開けられずに部屋に残されているだけ。


lives matter


「お疲れのご様子ですね」

ふゆは椅子に座りながら目を閉じていた。

レルは手帖を見ながら記事を書いている。

「その女の事件、解決したのか?」

「まあ、何というか・・」

「お前、西弥生子に会ってないよな」

「誰ですか、それ」

「あのアパートの見回りやってた民生委員だよ」

「はあ」レルは生返事だ。

「もっと気合い入れて聞けよ」

「うるさい! 今、書いてるんです」

ふゆは目をもみ解した。

「どんづまりだな」

「また投げ落としですか?」記事を上げたレルが戻ってきた。

「んあ?」

「その昔の」レルは自分のデスクに着いた。

ふゆはコピーしておいた三面記事と取材のレポートを手だけで後ろに回した。

「枕で顔をねえー」

ふゆはレルが持って来た貝紫の手拭いで目を覆った。そのまま寝る気だ。

「一―6、ちょっと行ってみませんか」

「行っても何もないよ」

「この住所に心当たりがあるんです」

ふゆが手拭いをどけるとレルがレポートを差し出していた。

「お手数おかけして申し訳ございません」ふゆとレルは西とまた会った。

「いえ、」西は手持ちのタオルで鼻の下に噴き出た汗を拭った。

「赤内です」

「あーあー、そんなご丁寧に、どうも」

「ご迷惑はおかけしませんから」

「私は入れませんよ」

ふゆもレルも肯いた。

ふゆとレルは西の後を追うようにマンションまでの道を歩いていた。

「いい天気だ」

レルは手帖を見ながら歩いている。

「このマンションそんな新しくないですよね、写真だと」レルはエントランスの門に手を付いた。

「大がかりな修繕したんだと」

西はもうエントランスキーで開けて手でドアを押さえて待っている。

「ここがその倉庫」

西が粘着テープを剥がしてドアを開けた。

「鍵はどうしますか? 次、会った時にでも」

「郵送で送ります」ふゆは部屋の鍵を受け取って、西は帰って行った。

もうレルは部屋の中にいる。

「そろそろ話してくれよ」ふゆはしゃがんだ。このどこかで赤ちゃんが死んだのだ。

「まず、話しますね」窓は白い磨りガラスで中からも外からも見えないようになっている。

「私が追っていた容莉枝って人は、住所もちゃんと書いてあったんです、ほら、ここです」レルは手帖の中を見せた。

「・・確かに、ここの住所だ」

「私も問い合わせてはみたんです。そしたら初めは存在しないって言われました」

「そんなの調べりゃすぐ分かるだろ」ふゆは胡坐をかいてしまった。

「部屋番号を言ったのがいけなかったのかな。画像で見たここは新しそうだったし」

「部屋が存在しないってことか」

「倉庫になってたんですね」

ふゆは立ち上がった。

「その容莉枝の名は?」

床尾とこおあいです」

「相さんか」ふゆはしゃがんで、手を合わせた。

「弔ってやらないとな、誰か」

「忘れられなかったんですよね、ここのこと」

いつかの時分、ここで殺された赤ちゃんと、ホテルで死んだ女が重なった。

「母だけが事情を知っている」レルは窓枠に付いた露を指で落とした。

「アガーサの世界みたいですよね」

「アガー、ああ、氷雨先生のね」

「このネタ、記事にしてもいいですか」

「その女は何て言ってた」

「ホテルにいたい」

「解決するのが新聞記者じゃないんだよ、この事件も終わりかも知れないな」

「作家ってのは全て知ってて始まる。あの先生言ってましたよね」

「俺なんか、昨日も明日も時で見えないよ」

「涙の前のさよならみたいですね、前から知ってたなんて」

「死んだおふくろに聞かせてやりたいよ」

「また、そういう・・」

「何で先生は地球にフォースなんて付けたんだろうな、力なんてさ」

「あの人が考えてることは分かりません」

「あれ?」ふゆは自分の手帖を見ていた。

「どうしました?」

「あの西さんの住所、書いてねえや。ミスったなあ」

「コレステロールが溜まってるんじゃないですか」

「そんなに飲んでねえよ」

「さっきからインスタントラーメンの匂いしてますよ」

ふゆとレルは出て、鍵をかけた。

「風が入ったな」

「よかったんじゃないですか」

日光で道が白く見える。

「フォースって四番目って意味もありましたね。地球は太陽から離れて三番目だけど太陽入れたら四番目ですよ」

ふゆは新聞社に戻ったら、西に電話しようと思っていたが、西からもう着信が残っていた。

「もう気付いたのかな」

レルは手帖に何かしきりに書き付けていた。

「すぐ戻る」そう言って、ふゆは駐車場に入った。

「え? 何のことですか」

西は会って話したいと言う。鍵の事ではないらしい。

「今、どちらに?」

電話を終えたふゆはレルを探した。

住宅街なのにパン屋がある。レルが金を払う時だった。

「ずいぶん、長いな」

「フランスパン。これでコレステロール出してください」

ふゆとレルはその足で西の待っている喫茶に行った。

「すみません、こんな長い物」ふゆは窓際にとび出したフランスパンを傾けた。

鍵を置いた。

西はそれを受け取ると、財布の中に入れていた。

「気になることって」

「世の中がどうなってんのか分からないですよ」今度はもみあげの所に付いた汗にタオルを当てた。

「冷たい物でも頼みましょうか」

「あのアパート、次の入居者が決まったって」

「ジョイセルのあの部屋のですか」

「はい、そうなんです」

「こんな事言ったら何ですが、掘り出し物ですからね」ふゆは胸の前で指を組んだ。

「募集もしてないのに、あの部屋空いてますかって」

そういう時代なんですよ、とは言えなかった。

「気にされない方も多いですからね」

「私、もう回れませんよ。どんな顔して会ったらいいか」

「入居者はやっぱりご家族で?」

「それが、若い夫婦さんでね、もう少しで赤ん坊が産まれるって。何から何まであのままなんですよ」今度は額の汗を拭いた。タオルを握りしめて離すことはなさそうだ。

「賃貸でしたよね」レルが聞いた。

西は肯いた。

「まあ、もう、あんな事件起こらないとは思うんですけどね・・」

ふゆとレルはアパートジョイセルに来ていた。

アパートの下の地面は土になっていた。

「植栽でもするのかねえ」

二人でフランスパンをちぎって食べた。

近くの小学生たちが帰って来る頃合いだった。

「この頃、楽しい?」レルが子供に聞いた。

「次の母親は薬剤師じゃないですよね」

ちょうどあの部屋から母親が出てきて干すところだった。お腹が大きい。

黄色い帽子の小学生は返事もしなかった。

「あの子から見たらおばさんなんでしょうね」

「母親の方が若い」

同じ公園なのに前とは違って見える。子供がいるだけで違うのだ。

「私たち大人ができることって、神様を信じさせることでしょうか」

「真実を信じさせることだよ」

「でも、」レルは言いかけて黙った。

どこの真実ですか?


decelarate


 ふゆとレルはデスクに向かって自分の仕事に集中していた。

「結局、汚したくなかった、か」

動機はそれだけしか分からなかった。

レルは容莉枝について考えていた。

容莉枝はどうだったのだろう。記者はモノにならないと考えたのか、供述も取ってない。

「蠅って最後どうなるんですか」

「死ぬよ」

「子供を残して?」

ふゆは肯いた。

「眠り病ってのもあるんだ。蠅が媒介して、意識混濁、その後、死ぬよ」

「眠ったままで?」

「蠅には近寄らない方がいい」

「見出しは汚したくなかった、でいいんじゃないでしょうか。受け取り方は様々でしょうけど、それで考えさせるきっかけを、」

「そのためにはまだ追う必要があるよ」

「母親たちのその後をですか?」

ふゆは肯いた。

「記事にはならないよ」

二人とも背広を手にした。

「じゃあ、行こう」

二人目の母親は今も勾留中のはずだ、一人目はもう刑期を終えてるはずだが行方は知れない。

「社に入った時に言われた事、覚えてますか。いつまでも清新な感情を忘れないよう・・」

「俺も似たようなこと言われたよ。それが社訓の一つだからな」

「感情って邪魔な場合が多いですよね」

ふゆは笑った。形だけの笑いだった。

ジョイセルには行かなかった。

昼に欠けた月が見えた。

「考える必要なんてあるのかな」

「ん?」

「いや、動機さ。読者もライターも分からないものを口にして満足するだけなんじゃないか」

「曲がりなりにも新聞記者なんだから、清新な感情を大切にしていきましょうよ」

ふゆは鼻で笑った。

「母親たちもまさか自分がそんな事するはずないって思ってたはずだよ。それが何かのはずみで、」

「テルクラブにいた頃、」

「ああ、記者クラブね」

「他の社の記者は我先んじようとしてました。知る権利っておかしいですよね」

二人の着いた先は先に殺された赤ん坊の墓だった。

享年がいちじるしく低い赤ん坊の名と横に寄り添うように新しい名前が彫られていた。

「ああ、母親も死んだんだ」

花が活けてある。

妻の横にはまだ朱色の文字が彫られてある。

レルは他の墓も見ていた。

二人目の赤ちゃんの名。それとともに朱色で母親の名がある。

どれも若くして亡くなったお墓には生前、その子が好きだったものが石になっている。

二つのお墓に共通するのは「愛」という文字だ。

ビタミン栄養ドリンクの茶色い容器にもう枯れた花が挿してある。

「公判はずっと先だ」ふゆが坂を下りてきた。

ふゆもしゃがんで、それを見た。

「そうでもしなきゃやりきれなかったんだろうよ」

「切ないですねえ」

「それが感情か」

「氷雨さんの、そろそろ取りに行かないとですよね」

「もうエープリルフールか」立ち上がったふゆはすごく不機嫌で、レルはなかなか立ち上がれなかった。横に並ぶのが怖かったのだ。

ふゆはゴミ箱を見に行った。その際にレルは立ち上がった。

ふゆはゴミ箱を覗き込んで、ため息を吐いているようだ。

「何がつまらないんですか」

「まあ、嘘じゃない世界だよ」

「かたちある物がないからですねー」

「何が?」

「新聞記事」

「つまり?」

「つまり・・、わ!」

坂を上ってくる人がいたので二人は黙って立っていた。

おじいさんと子供だった。

墓の前に立つと線香の束におじいさんがライターで火をつけた。

「ワー」子供が何かに驚いて喜んでいる。

「火が出来上がってる」

ふゆもレルも春に微笑んだ。

「記事にはならんな」

「帰りましょうか」

新聞社に戻るとふゆはフィーチャーフォンから西弥生子の名前と履歴を消去した。

「俺が書くからいいよ」

ふゆが手にしたのは取材レポートに使う安いコピー用紙だ。

枡目が打ってある。

それに今回携わった人と、レルと自分の名前、簡単な要旨だけを書いて、それまでのレポートにクリップで留めた。

資料室に行くと、赤ちゃん投げ落としの記事にそれらを挟んだ。

氷雨銀の名前を書き忘れたが、それもよしと思った。

黄色い資料室の明かりを落とした。

戻ると、レルが何やら紙を突き付けた。

「罰金状。ふゆさんが一番ですよ」

「いくら溜まってる?」

「一万とちょっと」

「蠅算だね」

レルはまたその紙をデスクの真ん中に置いてあるペーパースタンドに挟んで立てた。

ふゆは次のページへ続く新聞記事を書いていた。

これも間に合いそうもない。

もう外は夜だった。

「なあ、次のエープリルフール何にする」と話している。

「空白のまま出す気ですか」レルが顔を覗かせた。

「もう、私が手伝いますよ」

「人間が赤ん坊を産み付けるなんてどうですか」エープリルフールの話をしている記者にふゆは言った。

「この世界に」

結膜炎を起こした子供がいた。

お医者さんは付き添っていたお母さんに言った。

「朝になるとね、目ヤニで目が開かなくなるから、その時は・・」

子供は眠っていた。

子供が言った。

「目ヤニで目が開かないよお、お母さん」

「はいはい」

湯桶を持った母親が優しく目を洗う。

「お湯で溶かしてあげてください」

起きて初めて見る顔は笑ってるお母さんだった。

そんな時もあったっけ。

「お前、可愛がられたんだろうな」レルに言った。

「え? 今、何か言いました?」集中すると聞こえなくなるタチか。

下に行ってフィーチャーフォンで母親に電話をした。

登録してない番号だったから出なかった。

家に帰ってからにするか。

ああ駄目だ、今夜も徹夜だ。

なぜだ。

ゴミ箱には花が入っていた。

それが感情か。

お湯で溶けた目が流れる星を追っている。


uroboros


「氷雨先生の初稿、取って来ました」

エープリルフール。

「一週間分あるようですね」

「アガーサの人、何て名前ですか」

「李」

「すもも?」

「善だってよ」

「ああ、信じるものがないって、あの」

「読んでる暇はないぞ」

朝刊にエープリルフールの記事が載って、夕刊から美毒が始まる。

「ウロボロスって何ですか」

下の自販機でコーヒーを飲みながらふゆとレルは昼の休憩を取っていた。

「あの小説の絵、わざわざそれにしたじゃないですか」

銀からは「二頭の蛇が食い合う」図柄を使いたいと事前に連絡があった。

「終わらないってことだろ」

「この事件がですか、それとも事件が起きるこの世界がですか」

「ちゃんと街路灯のことも載ってたな」ふゆはゴミ箱がいっぱいだったので、その上に空き缶を置いた。

「フィクションとノンフィクションのことかな」レルはまだウロボロスについて考えていた。

「私、垣根なんてないと思うんです」

ふゆは黙っていた。

「分からなくなったって言ってたじゃないですか、」レルはコーヒーを飲み干して、ゴミ箱の上に置いた。

「それが嫌だから自分の中で垣根作ってるような気がします」

ふゆは何も言わず、もうビルの中に入ろうとしている。

「お釣りは取りましたか」

ふゆは自販機のポケットに指を突っ込んだ。

肩をいからせて立った。

「0が入ってる」

次の夕刊に間に合わせるよう記事を書く。

何か事件が起きたらそれをモノにしようと思う。

「今度は俺の方が早かったな」

「あー、ふゆさんに負けるなんて」

ふゆは一人、資料室に寄った。

記事というのは下枝しずえなんだろう。下から見ても木の枝が空に広がってるだけだ。何でこんな形をしてるのか誰にも分からない。

日光を少しでも取り入れようと手を伸ばす。新聞記者に与えられたのは下枝に触れる立場と権利だけ。

ファイルに書かれているのは日付だけ。街路灯が照らすのは何なのか。ウロボロスは善なのではないか。

ふゆはファイルの一つをめくってみた。二頭の蛇が食い合っている。信じるものがない事件と記者だった。

ファイルを戻した。

アガーサの持っている手火は何を照らすのか。

下に行くとレルがもう栄養ドリンクを飲んでいた。

しかたなく光る夜は雪のようだ。

「もう夜が明けますよ」

「ああ、地球だからな」

レルはビルの中に入って、薄手のコートを持って戻って来た。

「やっと家に帰れる」

レルはコートを着て、その上に首までの髪を垂らした。

電車に乗るレルを見ても誰も新聞記者だとは思わないだろう。

黄色い明かりの中で電車では新聞を読んでいる人がいるかも知れない。

レルは赤く化粧をしていた。

「じゃ、帰りますね」

数時間もしない内にまた会う事になる。

ふゆは新聞社に残った。

自分のデスクで仮眠を取った。

帰って行く音もして、入って来る音もした。

目を覚ますと一人だったので、日に当たりに行った。

レルが出社してくるところだった。

「おはようございます」

もう化粧はしていない。

「あの唇の薄い先生、何考えてんでしょうね」

「読んだか」

「はい、それが、」

「俺はまだ読んでないから話さないでくれよ」

レルが行くとふゆはただ空を見るしかなかった。

レルはデスクに着いて、ふゆの椅子は空いたままだ。

ふゆはトイレの個室で煙草を吸っていた。

久々の煙草は頭に沁みる。

煙は逃げるように上がっていく。

小便器の前に誰か立っている。

ふゆは自分の手に目を移した。

血管の上に蠅が止まってる。

「ラブストーリーじゃないもんな」

便座の上に乗ると窓から答えがない道行く人々を眺めてる。ネタを探しながら。

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