オアシス短編集
左原伊純
そのバッテリーの最後
夏の朝の神宮球場。
リトルシニア日本選手権の初日だ。
雲一つない青の空は、全ての者の心を追いつめるように澄んでいる。陽光は容赦なく全ての人を照らす。
午前九時、全ての準備は整った。
一塁側に青のユニフォームの『東京バレッツ』。
三塁側に白のユニフォームの『京都ウィングス』。
三塁スタンドで、百名近くのウィングスが応援する。白のメガホンから響く声援の大音量が、ウィングスの層の厚さを示す。
対するバレッツの部員数は二十名だ。全員がベンチにいる。
人数では圧倒的な差があり、ウィングスには一つの恐れもない。
バレッツは結成三年目で、ウィングスは三十年目。バレッツの保護者は番狂わせを必死に願う。
スカウトは淡々と観察する。
マウンドに登ったウィングスの投手の投球練習に、観客が感心する。
バレッツの打者は数の不利をひっくり返そうと叫ぶが、ウィングスの声に消される。
バレッツはあっという間に三者凡退した。ウィングスの選手たちは当たり前だという顔をする。
ウィングスの攻撃が始まれば先制点を取るだろうと、神宮にいる誰もが思っていた。
バレッツの投手がマウンドに上がった。
女子の投手だ。
笹野茜。
一七〇センチある。
中高年の野球ファン達は少々驚く。マウンドが見える位置にいれば、彼女の体だけでなく顔も見える。勇ましいエースの風格だが、その奥に少女らしさが透けて見える。
バッテリーの仲は良さそうだ。二人で合図して、投球練習を開始する。
右投手。上げた左足は鋭角気味だ。姿勢を固定するのは一瞬で、マウンドに叩きつけるように踏み込む。
ねじる力を全身に、そして右腕に渡す。ボールが放たれた後、伸びた右脚が跳ねる程の勢いだった。
バックスクリーンに表示された一二五の数字が、球場を沸かせた。
球場の空気がまるで変わったようだった。
三者凡退に抑えられ、百名のウィングスが息をのむ。
茜がベンチに戻ると、バレッツ皆がはしゃぐ。
「さすがです! 姉貴」
「姉貴ー」
「姉貴呼びするな」
本当はバレッツにも恐れはなかった。
結成して初めて日本選手権に来たバレッツに失う物はないのだから、前進するのみ。
序盤、茜の球について行けず、ウィングスは空振りばかり。茜のストレートは空振りを取れる、極めて球質がよい物だ。
バレッツの捕手、中野正樹は茜にとことん直球を投げさせる。フォークとカーブが直球に花を添える。
狙いを定めた打者を笑うように、大幅なアウトコース低めに球がバウンドする。正樹が跳ぶように体を伸ばして捕ったことに、球場が驚く。
その直後にインコース高めに最高の球をぶち込む。
暴投と好投に弄ばれて打者達は狙う力を失くしていく。
ワイルドピッチを暴投でも捕逸でもなく、ただのボールにするのは正樹の力だ。
スカウトが全くの無名だった中野正樹の名を書き記す。
バッテリーは運命が変わったことをつゆ知らず、ベンチに戻ってもずっと笑顔で喋っている。
「フォアボール姉貴は今日は六つだな」
「大会なのにその呼び方しないでよ」
六回が終わり、三対三で同点だ。ウィングスは三人目の投手。
バレッツは一度外野の選手と交代し、再び茜がマウンドに上がった。
茜の力にウィングスは余裕を剥がされる。茜から打ったヒットは三本のみ。
ウィングスの得点は、交代した投手から二点と、茜の四球を利用しての一点だ。最も、ヒット無しでも得点に結びつける強豪の技は怖い。
七回表、バレッツの攻撃で九番打者の茜の番が来た。
「姉貴がんばれ!」
またしても茜を姉貴と呼ぶチームメイト達に苦笑いし、茜は打席に立つ。
バントを決め、余裕綽々でベンチに戻る。正樹とハイタッチして座った茜は最後の投球のことを考える。
バレッツが点を追加し、一点リードで七回裏を迎える。
あと三人押さえれば勝つ。
ウィングスが必死に叫ぶ。
彼らを意に介さず、茜は楽しそうにしている。
茜の一二〇キロのフォークがホームを強烈に叩き、土が跳ねる。
激しくバウンドするフォークでも、正樹が後ろに逸らさない。
直球と三十キロの差があるカーブは、笑えてしまうほどの空振りを量産してきた。
あと二人押さえれば勝つ。茜は強打者など恐れない。
最高のタイミングで真っ芯に当てても外野フライに終わった打者は、信じられないという顔になる。
地区予選から今まで、何人もをこの顔にした。
茜のストレートの真価は速さではなく、重さだ。
打たれても飛びにくく、詰まったフライになる。
先程の打者も他の投手ならホームランにできた。それほどいいスイングだった。
あと一人押さえれば勝つ。
だけど茜と共に戦い続けてきた正樹は、嫌な予感がする。打者を翻弄する陰で、ボールが増えていた。
今までの三失点は全て四球が起点。
「おい姉貴」
正樹はマウンドへ。
「私がまたやらかすと思ってる?」
笑顔の茜にプレッシャーを感じている様子はない。楽しそうにボールを握る。可愛らしい丸い目は試合を楽しんでいる。
「さっさと終わらせよう」
これ以上のことを正樹は言わない。茜は自らメンタルを調整できるが、その分、外から干渉できない。正樹は茜の心に口を出すことをあまりしたくない。
最後の打者にしたいのに、ファールにされ続け、正樹はますます嫌な予感を強める。
適当に打ってくれた方がまだましだ。
茜はピンチさえ楽しそうで、不気味だ。
正樹だけはそれが茜のふるまいだと分かってしまう。
ファールで二ストライクに追い込んだ。あと一球、緩いのでいいからストライクにして欲しくて、正樹はストライクゾーンに直球を指示する。
ボールになった。正樹は予感の当たりを恐れだす。
「姉貴!」
マウンドに走る正樹は怖がっているが、茜は平常心だ。
平常心に見えるだけだと分かるのは正樹だけだ。
「適当に打たせてもいいから、四球だけは」
「分かった。大丈夫」
茜が頷いても、正樹は安心できない。
茜の精神が弱い方が、まだ扱いやすかった。
正樹に茜の手綱は握り切れない。
投手を助けられる捕手だったら良かったと正樹は思ってしまった。
思ってしまった時点で、バッテリーの終わりを感じていたのだろう。
速度と球質を両立した球は、制御できない暴れ球だった。
バッテリーが二年生の時は、暴投と捕逸の数は異彩をはなっていた。
敵だけでなく、味方さえ振り回すのが茜の投球だった。
四球になる。
バッテリーは大会中に何度も危ない線を乗り越えてきた。
だけど進み続けただけで飛躍はしていなかったと、気づいた時にはもう遅い。
試合は延長し、四対五でウィングスの勝利だ。
茜はいつも嫌な予感を無視することで対策していた。だけどもう、目の当たりにした。
「ごめんなさい……」
チームメイト皆の中学野球の最後を思えば茜は泣きそうだったが、勝負で泣いてはいけないと、涙をこらえる。
チームメイトは泣き、ここまで来たと笑い、抱き合った。
監督が泣いても、茜は泣きたくない。
帰りのバスは寝ている者もいる。皆疲れていた。体も、心もだ。
他のチームと違い、全国を目標にもしていない弱いチームだった。
神宮で全員が試合に出た。
極端な程上昇した喜びの後に負けの悲しみに叩かれた。
深く眠って無理はない。
泣かないことだけを考えて茜は車窓を見ている。
茜の隣に座る正樹がいきなり、茜の肩を叩いて振り向かせる。
「俺は茜と一緒で楽しかった」
普段はふざけて姉貴呼ばわりする正樹が、久しぶりに茜を名前で呼んだ。
「最後だからって、いいこと言わないで」
一年生の秋の大会後、正樹が『強いのに四球ばっかりだからフォアボール姉貴だ』と茜に言った。最初は怒った茜だったが、チームメイトまで真似して姉貴と呼ぶので、諦めた。
「茜がいたから、楽しかったんだよ」
正樹がぼろぼろ泣いているのだから、茜はついでに言ってしまおうと思った。普段は言えないことを。
「正樹が私をフォアボール姉貴って呼んで、皆で私をからかっていい雰囲気を作ったから、チームでたった一人の女子が浮かなかったんだよ」
たった一人の女子に気を遣うこともある。茜の失敗を温かく笑う空気を作った正樹は、捕手の役目以上に茜を守っていた。
茜だって気づいていた。
姉貴と呼ぶなと怒るふりだった。
勝負で泣いたのではなく、正樹に泣かされたのだからいい。
バスから降りた。いつもの生活の場に帰った時、茜も正樹も泣いていなかった。
夕日に照らされ最後のキャッチボールをして、握手して、別れた。茜は女子硬式野球へ。正樹は硬式野球へ。
二人が共に戦うことはもう、二度とない。
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