龍虎の退魔師-琥珀菊花-

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

 どうしてあの時、あの庭に入り込めたのか、その理由は今となってはもう分からない。


「危ないっ!!」


 ただ覚えていることは、広くて綺麗な庭に天女みたいな女の子がいて、その天女が妖怪に食われかけていたことだけ。


「『さん』っ!!」


 その時俺は、迷うことなく天女の前に飛び出して、背中に天女をかばって妖怪と相対した。


 今にして思えば無鉄砲もいいところだったが、幸いなことに相手の妖怪は小物で、まだ幼く、ろくに修業も積んでいない俺でも退魔することができた。


「大丈夫か?」


 振り返ると、天女は泣いていた。


 どうして屋敷の奥の奥にあったその庭に入り込めたのかは覚えていないのに、彼女が愛らしい顔を歪めて、涙で顔をグチャグチャにしていたことは、なぜか覚えている。


「大丈夫……よ」


 そして天女が、俺を見上げた時に、無理やり笑ってみせたことも。まるで『自分は笑顔以外の表情を他人にさらしてはいけないのだ』とでも言うかのように。


 まだ俺も小さな子供だったけれど、俺にはそれがとても大変なことだと分かっていた。心を殺して違う表情を浮かべるなんて辛いこと、こんな小さな女の子にさせちゃ駄目だと、俺自身だって小さな子供だったのに、いっちょ前に思った。


 だから俺は、深く考えずにポンッと言ってしまったんだ。


「そんなに無理やり、苦しい顔をしなくてもいい」


 無理して大丈夫だと言う必要なんてないんだ。怖かったり、辛かったりしたら、素直に泣いていいんだ。


 そう言ってやると天女は大きく目を見開いた。


 それからクシャリとしゃくりあげて、俺の装束のたもとを握り締めて大きな声を上げて泣き始めた。俺はどうしたらいいか分からずオロオロして、天女が泣き止むまでずっとその柔らかい髪をいてやってたんだっけ。


 今でも俺は、その時の行動を後悔していない。


 ……していない、はずだ。






「……最近は少し、後悔しているかもしれないがな」


 甜珪てんけいは妖気が巻き起こす暴風に適当に切った短い髪を遊ばせながら深く嘆息した。


 もう今夜の捕物とりものが始まって一刻が、この状態に突入してからは四半刻経つ。だというのに戦局は一向に変化がない。


「っつまでチンタラ妖怪と遊んでやがんだ胡吊祇うつりぎっ!!」


 状況にしびれを切らした甜珪は腕を組んだままドスの利いた声を張った。怒気の向け先は暴風の中心だ。


「このままじゃ夜が明けちまうだろうがよっ!!  えぇっ!? テメェは今晩も俺に徹夜させるつもりかっ!?」


 怒鳴りたいだけ怒鳴ってから耳を澄ます。霊力が乗った呪術師の声は、どれだけ妖気が荒れ狂っていようともその奔流を貫いて轟く。甜珪の相方にももちろん今の怒声は届いているはずだ。


 その証拠に、暴風の向こうから微かな応えが聞こえてきたような気もするのだが。


「あぁっ!? 言いたいことがあんならこっちに聞こえるようにはっきり言えっ!!」


 その微かな声も甜珪の一声に掻き消されてしまう。傍から見れば理不尽極まりない状況なのだろう。


 ──チンタラしてるあいつが悪い、あいつが。


 眠気から生まれる苛立ちを噛み殺しながら、噛み殺しきれなかったあくびをわふっと噛み締める。


 その瞬間、まるでそんな甜珪のすきを見計らったかのように暴れる風が弱まり、渦の中からポンッと何かが叩き出された。


 それを見た甜珪は口元を覆っていた手をそのままにスッと瞳を細める。


「やぁっとお出ましかよ」


 黒い獣のような姿をしたは、渦の外にいた甜珪を見つけると一目散に突進してくる。


 まるで渦の中心にいる脅威から逃げ出すかのように。目の前にいるおいしそうな獲物を喰らって、負った傷を癒そうとでもするかのように。


 それが退魔師が仕掛ける常套手段とも知らずに、一目散に罠に向かって突っ込んでくる。


「『六方ろっぽう障壁しょうへき しゅくせよばくせよ 闇より生まれし異形のモノを』」


 この一帯を世界から切り取る形で展開されていた壱の結界が素早く収縮して妖怪を捕らえる。一瞬で己を縛り上げた縛魔陣に妖怪はすべもなくギャンッと高く声を上げた。


 その前で無慈悲に赤銅色の瞳をきらめかせ、印を組むこともせず、甜珪は凜と呪歌を叩きつける。


「『闇は闇へ帰れ 滅殺めっさつ』っ!!」


 縛魔陣に捕らえられた妖怪はバツンッという音とともに霧散した。まるで見えない手に引き千切られるかのように引き裂かれた妖怪は、人の言葉では表現できない音で断末魔の悲鳴を上げる。


 最後まで残された参の結界の中にワンッと響いた絶叫は長くは続かなった。スッと静寂が空間を満たした中に、ハラハラと音もなく黒い残滓ざんしが花びらのように散っていく。


「やっと終わったか……」


 見慣れた光景に心動かされることもなく、甜珪は一度も使っていない両手をパンパンと払った。


 それから結界の中心でほうけたように景色に見入っている相方をジトッと冷たい目で見遣る。


「いつまで馬鹿面さらしてるつもりだ胡吊衹。帰んぞ」


 そして当人にその声が聞こえたかどうか確認するよりも早く身をひるがえした。


「え?……えっ!? 待ってよ甜珪っ!!」


 相方の情けない声が上がると同時に、最後まで残されていた参の結界が砕けて消えた。暴風が収まったお陰で視界が確保された景色の中に、結界の残滓である光の欠片かけらと、その欠片によって照らし出される澄んだ青がヒラリと揺れる。


 その全てを視界から締め出すようにきつくまふだを閉じて、甜珪は深々と溜め息をついた。


 ──こんなことになるのなら、助けなかった方が良かったかもしれない。


 最近折に触れて思うことを今日もまた内心で呟きながら、甜珪は後ろを振り返ることなく足早に歩を進めた。

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