第2話 水浴び
舞が目指す集落は、屋敷から比較的近くを流れる桑野川の上流だ。
近いといっても、既に徒歩で六時間。もう日は傾き始めていた。
季節は真夏、彼女は汗だくになっており、多めに持っていた竹水筒の水も底をついた。
幸いにも、今歩いている辺りは山道で霧がかかっており、比較的涼しい。
少し脇に入ると、木々が
そこまで降りていくと、いくつもの白い大岩が不規則に並んでおり、その間を澄み切った水が流れている。
少し下ると、清流がいくつかまとまり、小川と言っていいぐらいの幅に広がっていた。
舞は喜んで、川側まで行き、両手で水をすくって飲み、そして竹水筒に水を満たした。
ひんやりとして気持ちいい。
彼女は、そのまま顔を洗う。それだけで爽快な気分になる。
ふと、汗だくになっていた自分の格好が気になった。
地図を確認したところ、あと少しで目的の集落に辿り着く。そろそろ、『巫女装束』に着替えてもいい頃だ。
白い小袖に赤い袴の巫女装束、それだけで神秘的なイメージが湧くから不思議だ。
人と会うときは、普段着よりこの衣装を着ていた方が、聖職者として伝わりやすい。
しかし、今の自分は汗だくだ。着替える前に身を清めた方がいい。
舞は、辺りを見渡した。人影はなさそうだ。
念のため、『時空の腕輪』でチェックしてみるが、内蔵人感センサーによると、半径百メートル以内に人はいない、という結果だった。
彼女は岩陰に隠れ、旅装束を脱ぎはじめた。
襦袢まで全て脱いで、生まれたままの姿になる。
足先を水につけると、思ったより冷たく少し
思い切って、全身を、清らかでかつ緩やかな水の流れに浸した。
鮮烈な冷たさに最初は戸惑ったが、すぐにそれが気持ち良く、かつ、身も心も引き締まるようなすがすがしい気分に変わった。
そして小さな手ぬぐいで全身を清めていると、腕輪から、ピピッと小さく警告音が鳴った。
驚いて見てみると、人感センサーが反応しているではないか。
「だ、誰っ!? 誰かそこにいるんですか!?」
彼女は怯え、焦りながら岩陰に隠れ、しまった、と後悔した。
服と荷物は、一つ向こうの大岩の側に置いてしまっている。
もし相手が盗賊だったとしても、常に身に付けている『時空の腕輪』を使用すれば、体だけはこの場所から脱出できる。しかしその場合、荷物は諦めなければならない。
背負い袋の中には、巫女装束の他に様々な仙界、つまり三百年後の世界の道具が入っている。
それらの替えがないのかと言われれば、そんなことはないのだが、もう一度揃え直す必要があり、大きな時間のロスとなってしまう。
どうしよう、裸を見られる覚悟で荷物のあるところまで走り、それらを抱えて強制離脱しようか……そんなふうに考えていた時、
「……俺だよ、ハヤトだよ」
という、若い男性の声が返ってきた。
「えっ……ハヤト、なの? どうして、ここにいるの?」
「お前の護衛をするよう、お袋から司令を受けたんだよ。なるべく気付かれないように、って言われてたんだけどな……」
ハヤトは、舞にとっては幼馴染みで、同い年の男子だ。
既に、正式な『
「護衛……じゃあ、ついて来てくれてたんだ……えっと、それで……見た?」
舞は、恥ずかしそうにそう聞いた。
「いや……お前が岩陰に隠れたから、慌てて近くに寄ってしまって、それでお前のその奇妙な道具の探知圏内に入ってしまったんだ。だから、裸は見てない」
「……どうして、私が裸って知ってるの?」
「……えっと、それは……そう、水で体を洗う音が聞こえてきたからだ」
「……本当? 覗いたりしてない?」
「ああ。お前の裸を覗いたりしたら、お前の親父さんに殺されてしまうよ」
この時代、女性が裸を見られることは現代ほど恥ずかしい事ではなく、多くの湯屋で混浴になっているほどだが、舞の父親の拓也は、娘の裸を男性に見られることを極端に嫌っていた。
それに、舞の父親は恐るべき仙術を使う、本物の仙人だ。今、この時点の会話だって、何処かで聞かれているかもしれないのだ。
「うん、わかった……じゃあ、服、着るから、あっち向いててね」
「ああ……」
舞の方からはハヤトは見えず、どこにいるのか分からないが、とりあえずそう言っておけば大丈夫だ。
彼は、舞に対しては不器用なほど誠実だったからだ。
「……もうこっちに来ても大丈夫だよ」
その声に、ハヤトは安堵のため息をついて、ゆっくりと木陰から出て行った。
そしてその巫女装束に、はっと息を飲んだ。
最後に会ったのはほんの十日ほど前なのに、ずっと大人っぽくなっているように感じたからだ。
髪がまだ濡れており、それが色気を出しているためか、はたまた巫女装束が神秘的に思えたからなのか……。
「……ハヤト、ちょっと見ないうちに、また逞しくなったね。あなたが一緒に来てくれるんだったら、とっても心強いよ、ありがとう」
彼の旅装束を見ながら、微笑んでそう話してくれる彼女に、ハヤトはどきりとさせられた。
舞の母親は、藩一番の美人と評判だ。
そしてその娘である彼女もまた、藩一番の美少女だと彼は思っていたし、周りもそう言っている。
先程、そんな舞の、背中だけだが衣を纏っていない姿を見てしまった。
そこに、ほんの少しの罪悪感と、鼓動が高鳴るのを感じていたが、それを知られてしまってはいけない。
忍たるもの、感情を読まれてしまってはならないのだ。
「それで、どうするの? 離れた所からこっそりついて来てくれるの?」
「いや……ばれたら仕方無いから、その時は一緒に行動しろ、その方が守りやすいだろうからって言われている。まあ、俺の腕だとばれるのは時間の問題って思われてたんだろうな」
「そんなことないけどね……たまたま、私の腕輪が反応しただけ。でも、私にとっては側にいてくれた方がありがたいよ。何しろ伝説の忍、サブさんとミツさんの息子だもんね」
「親父とお袋の名前を出すなよ。気が重くなる……」
「あはは、うん、そうだったね。私も両親の名前出されると同じ。お互い大変だね」
「ああ……」
そう言って二人で笑い、目的地に向けて歩き始めた。
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