第43話 動物園③
計画も考えも、彼女の理解も、全てが甘かったのかもしれない。
那澄の荒い呼吸を背中に聞きながら、自責の念が襲ってくる。
「待ちなさい!」
後ろを振り返ると、遠くから警備員が駆けてくるのが見えた。
僕は那澄の手を引きながら、ひたすらに走る。
動物園の駐車場を通り過ぎたところで、引っ張っていた那澄の手がぐんと重たくなる。同時に、ザッと衣類の擦れる音が聞こえた。
「那澄っ」
僕はすぐに転んだ那澄を起こす。
警備員がすぐそこまできていたので、僕は那澄を連れて横の路地に逃げ込んだ。
路地沿いにある小さな公民館の裏に身を隠す。
路地に入った警備員は、息を切らしながらきょろきょろと辺りを見渡し、僕らの姿がないと見るや、帽子を脱いで頭をかきながら引き返していった。
それを確認した僕は呼吸を整えながらその場にしゃがむ。
隣で座り込んでいる那澄の息はまだ荒い。
心配して彼女の背中に手を伸ばすが、さっきの出来事が頭をよぎり、一度引いた。
「......那澄、背中、さするよ」
そう言ってから、もう一度彼女に手を近づける。
そして、ゆっくりと手を置いた。
今度は大丈夫だった。
彼女の背中を優しくなでる。
「大丈夫、大丈夫」
根拠のない、間に合わせのような言葉を何度も繰り返す。
破けたトレンカ。
彼女の透明な膝からは、赤い血が滲み出ていた。
しだいに、呼吸が安定してきたので安堵する。
「ゆっくりでいいからね。 お茶あるけど飲む? あ、でも先にうがいしないとか」
僕はショルダーバックの中からお茶の入ったペットボトルを取り出し、那澄のそばに置いた。
彼女の反応を待ちながら、空を見上げる。正面には大きな入道雲。蝉も鳴かないほどの熱い日差し。公民館の陰が、夏の空間から僕らを隠している。
「......ごめんなさい」
彼女の透き通った声が響いた。今まで聞いたことのないような、悲しみの籠った声だった。
「那澄が謝ることないよ。僕の対応が遅かったのが悪いんだ。僕のせいで、ごめん」
「......」
那澄は何も言わず、ただ下を向いていた。
相当ショックだったのか、アパートに帰ってからも那澄の口数は少なかった。
嘔吐物で汚れた服を着替え、傷口を洗った那澄は、棚から救急箱を取り出す。
「あ、大丈夫? 僕やるよ」
「大丈夫、一人でできるから」
「......そう、じゃあ、服洗ってくるね」
「それも、私がやるから」
そう言って、自分のことを手伝わせようとしない那澄は、責任を感じているように見えた。そんな様子を見て、胸が痛くなる。
それから那澄はほとんどの時間を、何をするわけでもなく、膝を抱えて座っていた。
何か慰めの言葉をかけようと思考を巡らすが、適した言葉が浮かばない。そもそも、彼女がどういう理由であの状態になったのかを知らない以上、下手に言葉をかけるのは、余計に彼女を傷つける可能性があった。
夕食時、傷ついている那澄に心苦しく思いながら、意を決して訊いた。
「那澄、教えてくれないかな、何があったのか。......さっきの、動物園でのこと」
食べる手を止めた那澄は、しばらくして口を開く。
「......昔のこと思い出して、怖くなった。たぶん、たくさん人がいたから......」
那澄はそれだけ言って、また黙った。
「......そっか、うん、教えてくれてありがとう」
人の声や視線に怯えた様子から、そうなんじゃないかとは思っていた。予想通りだったことに少し安心し、同時に自分に対する怒りに似た後悔が湧き上がる。
那澄の過去を知っていたのに、人が怖いということを知っていたのに、どうして気づけなかったのか。
もっと、慎重になるべきだった。
自分の思いを先行させ、那澄を無理させていたのかもしれない。
それから、ほとんど会話のないまま、今日が終わった。
「那澄、電気消すよ」
「......うん」
電気を消した僕が布団にもぐる。
那澄は僕に背を向けて寝ている。
狭いベッドで寝ているはずなのに、僕らの間に距離を感じた。
近づいたと思ったのに、また離れてしまった。
小さな背中。
壊れそうな、怯えた彼女を思い出す。
思い出して、奥歯を噛み締める。
僕がしっかりしないから、那澄をあんな目に遭わせてしまった。取り返しのつかない後悔が、改めて僕を襲う。
罪悪感に苛まれ、自然と那澄に背を向けた。
「......那澄、ごめん」
我慢できずに口から出た言葉が、静かな部屋に溶ける。
彼女の返事がほしかった。
怒りながら罵倒してほしかった。
泣きながら悲しみをこぼしてほしかった。
仕方なく笑って許してほしかった。
何でもいい。僕に向けて感情をぶつけてほしかった。
少しの間をおいて、那澄の声が小さく響く。
「謝らないで」
一番、残酷な言葉だった。
那澄がいなくなったのは、それから三日後だった。
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