第38話 髪
七月上旬の昼下がり。
ジャキッっという気持ちの良い音が鳴るたび、何もなかった空間から黒い髪がパラパラと落ちた。浴室の床に座りながら、那澄は自分の髪をハサミで切っていく。
その様子を、僕は興味深げに見ていた。
那澄は透明とはいえ、体の機能自体は普通の人と変わらない。当然髪の毛も伸びるので、いつかは切る必要があるのだ。
その散髪をしている様子を見たのは、今日が初めてだった。思えば、透明な彼女がどのように髪を切っているのかなんて今まで考えたことすらなかったかもしれない。
「前髪はこんな感じでいいかな。ちょっと触ってみて」
台の上にハサミを置いた那澄は、僕の手をつかんで自分の額に寄せた。
触ってわかるものなのかと疑問に思いながら、切られたばかりの毛先を指でなぞる。ガタガタというわけではないが、少し曲がっているような気がした。でも、目で見えない以上、やっぱりよくわからない。
「若干、ななめ?」
「え、そうかな、私は綺麗に切れてると思うけど」
「......ごめん、自信ない」
僕が簡単に折れると、那澄はアハハっと笑った。
「じゃあ、横と後ろは立紀君にお願いしていい?」
「え、僕が切るの?」
「うん。自分で切るのは難しいもん」
「ちょっと待って、人の髪なんて切ったことないよ」
「失敗してもいいって、どうせ見えないんだし」
なら、僕に切らせる意味もないじゃないかと反論しそうになったが、すんでのところで飲み込む。那澄と暮らしていくうえで、こういう経験もしておくべきだろうという考えが頭をよぎったからだ。
「どれくらい切ればいいの......?」
覚悟を決めた僕はハサミを手に取り、那澄に尋ねる。
「うーん、鎖骨よりも少し下くらい」
「鎖骨より少し下......」
んん、と僕は思考を巡らす。
その高さを、どうやって確かめればよいのだろう。触る以外の方法が思いつかない。
僕が戸惑っていると、那澄はわかりやすく「あっ」と声を出し、「肩よりも五センチほど長く!」と言い直した。
僕は口角が上がるのをこらえながら、那澄の髪に指を通す。手触りの良いさらさらの髪は、僕を緊張させ、切ることをためらわせた。
彼女の肌を傷つけないよう細心の注意を払いながら、要望通りの髪の高さのところに、ハサミを持っていく。
「......じゃあ、切るよ」
そう言ってから、三回ほど頭の中でシミュレーションをした後、指に力を込める。バツンという音とともに、まとまった量の綺麗な黒い髪が現れ、落ちた。切ってから、切ってしまったという罪悪感に近い何かを感じたが、ここで辞退する方が悪質なのはわかっているので、次の髪にハサミを通していく。
切るたび、浴室の床に髪が溜まっていった。那澄の体から切り離されて、那澄と認識できなくなった瞬間から、髪の毛はようやく僕らに視認され、床に落ちていく。まるで、那澄という「生」の存在だけが消えてしまっていることを強調しているようだった。僕は髪を切りながら、そんな皮肉めいた残酷さを感じてしまい、少し悲しくなる。
半分ほど切り終えたところで、那澄が口を開いた。
「前までは詩乃ちゃんに切ってもらってたんだけどね、すっごく丁寧なの。どうせ見えないんだから適当でいいって思うでしょ?でも、詩乃ちゃん、女の子なんだから可愛くしないとダメだって言って、切り方の本まで買ってたんだよ」
那澄はフフッと笑う。
一方の僕は手が止まってしまった。
「余計に責任、感じてきたんだけど」
「期待してる」
いたずらっぽく笑う那澄は、僕をからかうつもりで言っているのだろう。もちろん端から丁寧に切っているつもりだが、藤沢さんの想いを知ってしまった以上、プレッシャーを感じざるを得ない。
手汗を何度か拭きながら、やっと切り終えたときには、一時間以上が経っていた。目に見えない以上、正確な出来栄えなんてわからないし、そもそも僕は正解の出来を知らない。でも、那澄が「すごい、上手だね!」と褒めてくれるので、求められた仕事はこなせたようだ。
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