第17話 初日 16:00-6

 その時、颯斗の耳は微かな音を捉えていた。

 足音だ。それも一人分。

 あの二人のどちらかが戻ってきた、なんて考えない。方向は丁字路の先からではなく後ろから来ていたからだ。


「まずいな」


 内心で汗をかきながら颯斗は言う。

 顔を向ければか細い光の中を大股で歩いてくる人の姿があった。ただ手足と胴、頭があるというだけでそのサイズは巨岩のようであった。

 着膨れしたように丸く太った体に迷彩服とガスマスク。平均より高い颯斗からさらに頭一つ分、横幅に至っては颯斗と春夏が並んでも余るほどだった。

 そしてもうひとつ、目を引いたのが右手に持つ太刀だ。白銀の刀身が浮いて見える程に輝き、長さは両手を伸ばしたほどあるようにも見える。振り下ろされたら断頭台のように真っ二つになるだろう。

 春夏もその存在に気付いたのか視線が釘付けになっていた。二人は身を寄せて、


「あれ、マーダーよね」


「……獲物は違うみたいだけどな」


 颯斗は唾を飲んで答える

 その理由は分からない。二体目なのか持ち替えただけなのか。もし前者だったら二体で終わるとも限らない。

 マーダーはゆっくりと、しかし一歩ずつ確実に距離が縮めていた。

 逃げるなら今しかない。

 しかしどこに。

 目の前は塞がれていて、後退するにも左右共に未探索。右は他の参加者が通ってきた道だから先があるとはいえ、マーダーを連れて合流したらそれこそ殺されかねない。

 しかし全くの未探索エリアに足を踏み入れるのも怖い。袋小路になっていて今より道幅が狭ければそれこそ逃げることは叶わない。そのリスクを考え、


「抜けるしかない」


「本気?」


 颯斗は頷く。

 真ん中を陣取っているマーダーの両脇は人一人なら簡単に通れる程度には空間がある。

 それに、


「セーフゾーンに突っ込めば追ってこられねえはずだ」


 颯斗は遠くでかすかに見える、取っ手に付けられた布を見つめていた。


「出待ちされていたらどうする気よ」


「しない」


 震えを押し殺して颯斗は断言する。

 瞳はマーダーをしっかりと捉えて離さない。いや、離せない。

 怖い、恐ろしい。それでも立ち向かうべき相手の姿が実物よりも大きく、禍々しく見えていた。

 今持っているのは自分の命だけでは無い。それがなおのこと肝を冷やす。

 そんな異様に冷えた手を、春夏は絡めるように握ると、


「わかった。やりましょ」


 力無い笑顔で答えていた。

 そして軽く颯斗の背中を叩き、


「頼りにしてるわよ、男の子!」


 今度は屈託のない笑顔を見せていた。

 ……すげえな。

 怖い、怖くてたまらない。完璧にことが運んだとしても死ぬ可能性がある。そんな欠陥だらけの仮定に命を預けてくれるのだ。

 情けないところは見せられねえよなと、颯斗は息を吸い、腹に力を込める。


「手、握ってな」


「オーケー」


 差し出した左手に痛いほど指が食い込む。ちょっとやそっとのことでは離れる様子もない。

 空いている手で颯斗はバッグを漁っていた。適当にいくつかの荷物を投げ捨て、最後に一つ掴むと、


「左から行く」


 短く言うと、手に持っているものを口に当て、その一部を歯で強引に引きちぎる。

 かすかに独特な芳香が鼻につく。構う様子もなく颯斗は手を上げ、肩を回す。

 宙を舞うそれは白い軌跡を残しながら緩い放物線を描いてマーダーの顔に直撃していた。

 その結果を見る前に颯斗は動く。姿勢を低く、跳ねるように真っ直ぐに。

 目標はあの太刀だった。目潰しにより場所が分からなければ初速が遅い振り始めの方がまだ避けられる、はず。

 駄目押しだと、小麦粉の袋目掛けてペットボトルの水を撒く。へばりついた小麦粉がゴーグルの視界を簡単には確保できないように。

 上手く行ったかなど確認する余裕もなく、まだだいぶ中身の残っているペットボトルを反対の壁へ投げつける。視覚を奪った以上頼りにするのは音、派手に鳴れば注目はそちらに向くはずだった。

 予測通りと言っていいのだろうか、マーダーは太刀をゆっくりと持ち上げると上段の構えを取る。その間に小走りで二人は脇をすり抜けるようとしていた。

 瞬速。太った死神が起こした一太刀は音すら切り伏せる。鉄の塊と思えないほどしなった太刀による袈裟斬りは、コンクリートをもバターのように断つ。

 触れればただでは済まない。先端が掠めた程度でもぱっくりと大きな裂け目が出来るほどに鋭く、冷たい一撃だった。

 しかし、それは当たればの話であった。

 ──勝ったぞ!

 颯斗は吠えたい気持ちをどうにか抑えて前に進み続ける。

 太刀筋は後ろにいる春夏の一歩、いや半歩分離れた所を通り過ぎ、そのまま床を割っていた。

 緊張と歓喜で感情の整理がつかず、颯斗は顔半分だけ笑みを浮かべていた。

 後は逃げるだけ。後ろの春夏を一瞥した後、閉まっていた扉へ向かう。

 後方を警戒している余裕は無い。一刻も早くセーフゾーンへ入る方法を見つける必要があった。

 存在は示唆していても入り方まで書いていない運営の不親切に苛立ちを覚えながらも颯斗は最初の閉まっている扉へたどり着く。

 ……どれだ?

 そもそも何を探せばいいかすら不明であった。颯斗は眉を寄せながら春夏を見ると、


「タッチ出来そうな端末は無い?」


「……ない」


「次!」


 上下左右、視線を一周させて颯斗が言うと、春夏が腕を引いて駆け出していた。

 次、その次と通路を練り歩く。三度目にして分かりにくいがようやくそれらしきものが扉の真ん中に付いていることに気付いた。

 これかと思うと同時にスマホを勢いよく押し付ける。今までの探索では取っ手の部分しか目に入れていなかったことが悔やまれた。

 そして、


『セーフゾーンを解放します。最大五人まで、累計六時間使用出来ます。現在は一名、残り六時間です』


 ……は?

 突然のアナウンスに颯斗は思わず固まっていた。

 確かにビクともしなかった扉は流れるように開いていた。その代償として、近くにいれば誰でも聞こえる程の音が流れることを想定していなかっただけで。


「早く!」


 背中を刺すような言葉に颯斗は一瞬だけ跳ねて一歩踏み出す。

 全身が部屋に入る。振り返ると、次は私がと、春夏がスマホをかざしていた。


『セーフゾーンを――』


 またあの馬鹿でかい音が響く。同時に閉じかけていた扉がまた開き、春夏が疲れた笑みを覗かせていた。

 そして、その後ろを白銀の線が通り過ぎていた。

 華が、咲く。赤い、紅い華。

 ゆっくりと倒れる春夏の背中から羽のように広がる血が──


「い、ったー!」


 春夏の叫び声に、颯斗は目を見開いていた。

 ……なんだったんだ、今のは。

 疑問を抱えたまま、倒れる春夏に駆け寄り、


「大丈夫か!?」


「引っ張って!」


 その切羽詰まった表情に、颯斗は頷いて腕を握る。

 閉じようとしていた扉は邪魔な足が無くなったことで完全に閉まっていた。


「あー、まじで悪運強いわ」


 春夏がそう漏らしていた。

 実際背中から血は出ている。が、吹き出すほどではなく一面に滲む程度だ。

 致命傷では無いことに安堵しつつ、颯斗はTシャツを脱いで患部に押し当てて止血をする。


「大丈夫か?」


「だいじょばない」


 変な日本語を口走りながらも春夏の表情は明るかった。

 あぁ、生き残ったんだな……

 そこで初めて、ようやく一息つけた。颯斗はゆっくりと力を抜いて、春夏の身体に重なるように倒れていた。

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