44.【紫苑視点】したいという感情
最寄りのネットカフェは隣町の商業地域にあった。
地図にはファッションセンター、業務スーパー、ホームセンター、ドラッグストア、ファミレスといったメジャーなお店が建ち並んでいた。
田んぼの中に建っているためか、近所の専門店街の3倍は面積がありそうに見える。
「初めて来たけど、ここって学割使えるんだね」
「部屋は女性専用フロアってタイプがあるけど、それにする? ペアシートも選べるみたいだし」
「そだねー」
とりあえず3時間パックを選んで、カラオケルームくらいの広さの個室に入った。
内装は至ってシンプルだ。3人ほどが座れそうなソファシート、足置き用のオットマン。
その前にはスライドデスクとデスクトップPCが備え付けてあり、飲食のメニュー表も置いてある。
気温が高いなかを歩いてきたから、服の中は夏並みの熱気がこもっていた。
すぐさまエアコンを入れて、ぬるくなってしまったスポーツドリンクを喉に流し込む。
「汗すごいよ、大丈夫? 気持ち悪いとか、めまいとか起きてない?」
「大丈夫。首にネッククーラー巻いているし、水分はこまめに摂っていたから」
とはいえ、汗の量はごまかしようがない。
とくに今日は、日焼け対策も兼ねて露出は控えめの服装にしたのが裏目に出た。インナーが冷えてベタつき鬱陶しいことこの上ない。
おしゃれするにしても、歩き回るのは分かっていたのだからもう少し動きやすさや通気性を意識した生地にするべきだったかもしれない。
汗で乱れた髪をコームで整えていると、芹香が奥の部屋に続く扉を指差した。
「ここ、シャワーもあるみたいだし。しかも無料でシャンプーもタオルも使い放題だよ」
「あ、あるんだ」
「うん。コインランドリーもさっき見かけたし、せっかくだから利用しちゃおうよ。1回300円だって」
「えっ」
今度こそ声が裏返った。
確かに扉を開けると洗面台があって、さらに奥の扉にはトイレ、スライド開閉ドアで仕切られたシャワールームが確認できた。
「しーちゃん、先入ってきていいよ。洗面台の扉、内側から鍵かけられるから安心して」
「え、ええと」
「気になるなら、その間部屋出てるよ。ソフトクリーム食べ放題みたいだから、行こうかなって思ってたとこだし」
シャワーを浴びることがいつの間にか決定事項になっていた。
汗だくの私を気遣ってくれていることは分かる。せっかく設備が揃っているなら、利用したいと思うのも当然だろう。
1人で来ているならば。
けど。シャワーを浴びて、服が乾くまでの間はバスローブで待つしかない。
恋人の前でそんな格好になるなど、意識するなと言われても無理がある。
なのに、芹香はなんとも思っていないのだろうか。
「ついでだから洗濯物持っていこうか? そこにカゴと洗濯ネットあるはずだから」
「大丈夫です自分でやります」
「入ってからだとそのぶん乾くの遅れちゃうし、バスローブで出るの恥ずかしくない? 私が上がる頃にはしーちゃんのも乾いてるだろうし」
「そ、そうだけど……」
「てか、そんな無防備なしーちゃんを送り出すわけにはいかない」
「…………」
下着も入った服を他人に預けるって、たとえ恋人であっても抵抗しかないのに。
そういう台詞をナチュラルに挟んでくるから、従わないわけにはいかなくなってしまう。
結局。綺麗さっぱりしたい欲にはあらがえず、私は服を脱いだ。
どのみち、汗臭い格好で芹香の隣にいるわけにはいかない。
個室じゃ匂いもこもっちゃうだろうから、シャワーがあったことにはむしろ感謝だ。
「……あがったよ」
「あいよー」
入念に髪の毛の水分を拭き取って、結んで、バスローブをまとい洗面台から出る。
扉を開けると、少し寒いくらいの冷気が流れ込んできた。同時にヘッドホンをつけている芹香が振り返る。
ユー○ューブのサイトを見ていたようで、ドームっぽい場所で名前だけは聞き覚えのある音楽アーティストが熱唱していた。
「さっぱりした?」
「う、うん。リンスインシャンプーがミント系なのか、頭皮がすごくすーすーして気持ちいいよ」
「へー、そりゃ楽しみだ」
いつもと変わらない調子の声が返ってきて、会話が終わる。芹香はふたたびモニターへと視線を向けた。
……え、それだけ?
素肌にバスローブ一枚の姿でも、とくに動揺の色を見せなかった芹香に呆気にとられる。
「あの、せっちゃん」
「んー?」
「上がったけど、はいら、ないの?」
平常心を保てず、声がつっかえる。
発するたびに見えない壁にぶつかっているようだ。
どもりまくりの私にも芹香は突っ込むことなく、相変わらず平坦な声で答えた。
「もうちょっとでしーちゃんの服、乾燥するはずだから。そしたら浴びてくるよ」
「そ、そっか」
「その格好でずっといるのも恥ずかしいだろ。なるべく見ないようにしてるから」
ああ、だからすぐに視線を逸したのか。
そこまで分かっておいて一切トーンを変えずに話せることに感心すると同時に、こういうの慣れてるのかな、なんて余計な方向へと思考が飛んでしまう。
「…………」
部屋に沈黙が落ちる。
芹香の気配は完全に私を遮断していて、気軽にお喋りといった空気ではない。
直前の会話から気遣っているのは分かっているが、ここまで無言を貫かれると居心地が悪い。
いったん洗面所に向かい、ドライヤーを取り出した。髪が乾く前に服が乾くほうが早いだろう。
「あれ?」
ヘアケアを終えて部屋に戻ると、なぜか同じくバスローブ姿の芹香がいた。
「まさか、もう浴びてきたの? サイレント入浴にもほどがない?」
「いやいや、あらかじめ脱いでただけ。しーちゃんの服取りに行くついでに自分の出しちゃったほうが効率いいし。あ、服乾いたから渡しておくよ」
「どうも……」
尖りそうになる唇を抑えて受け取る。てっきり着替えた私に洗濯を頼むと思っていただけに、釈然としない。
というか、芹香はその格好で廊下に出れるのか。私に聞かず全部自分でやってしまう姿勢に、言いようのないもやもやが募っていく。
芹香が洗面所へと消えていき、ほどなくしてシャワーの音が耳に届き始める。
いま、扉の向こうでは、芹香が。
頬が燃えて、どうしようもなく鼓動が早まっていく。
聞かなくてもいい音を、拾ってしまう。
してはならない意識をしてしまう。
着替えなくてはならない服に、指が伸びない。正しい選択肢が目の前にあるのに、いずれも選ぶことができない。
「……あれ?」
もだもだ悩んでいるうちに、芹香が上がってきてしまった。
未だバスローブ姿のままでいる私に、さすがの芹香も声がしどろもどろにねじれる。
「あ、えと。下着だけはつけてる。もちろん、せっちゃんの服持ってくるときには着替えたけど。これ着心地がいいから、出るまでこの格好でもいいかなって」
「そ、そっか。暑いもんね」
「気になるなら着替えるけど」
「う、ううん。しーちゃんの過ごしたい格好に合わせるよ」
洗濯済みの芹香の服を渡すと、そそくさと芹香が洗面所に消えていった。
動揺していたらいい、なんてしてはいけない感情が胸に落ちていく。
誘惑させる道が間違っていると知っていながら、止められない。
分かっている。
期末試験まではまだ日数がある。
それが空けるまでは、お互い勉学に勤しみ我慢の時であるということも。
だから今日、ネットカフェに来たのも。私の要望とお店のリサーチ、ふたつの目的を果たすために来たに過ぎない。
シャワーを浴びたのも汗を流しただけで、深い意味などない。私が勝手にデートと解釈して舞い上がっているだけ。
同僚として勤め先の改善点を話し合うか、友人の範囲内で漫画や動画鑑賞で楽しむか。
できることはそれくらいで、そういう雰囲気になってはならないのだ。
理屈がいくら正しい道を提示していても、したいという感情が上回る。
一日くらい息抜きしたっていいじゃないか、と言い訳を理性に重ねて。
着替えて戻ってきた芹香が、隣へ腰掛けた。
私との間には数センチほどの隙間があって、私から逸れるように爪先の角度が斜めを向いている。
あえてぴったり距離を詰めると、分かりやすいくらいに芹香の肩が上がった。
「さ、寒いの?」
「ううん、くっついてみたくなった」
「そ、そうなん。んで、これから何して遊ぶ?」
質問には答えず、手を彼女の頬へと伸ばした。
さっきからこちらを見ようともしないから、意識してくれていることへの嬉しさと目を合わせてほしい要求が混じり合う。
「して、いい?」
問うと、控えめに頭が揺れた。了承の合図と受け取り、唇を寄せる。
冷房はがんがんに効きまくっているのに、いま芹香と分け合っている温度は火傷しそうなほどに熱い。
唇を押し当て、彼女の胸元に手を置く。
なのに、芹香の両手は固まったように膝の上から離れない。いつもなら背中に腕が回っているのに。
なら。この間芹香がしてくれたようなことをして、新たな表情を引き出したいと思った。
重ねているだけだった唇から、わずかに舌を突き出す。芹香の瞳が大きく見開かれた。
舌先で舐めずるように動かすと、強い力が両肩にかかった。
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