39.上書きしたい
初恋の相手とするキスは、きっと何度しても慣れそうにない。
あの日以来に触れた紫苑の唇は、マシュマロみたいに柔らかくて弾力感がある。
キスってこんなに気持ちいいものなんだって、ただ重ねているだけなのに体が火照っていく。
「…………」
顔を離した。
目の前には、顔を真っ赤に染めた紫苑の顔がある。吐息が触れそうな距離の中、私は聞いた。
「……今日は、何回まで?」
「な」
目を見開いた紫苑が『恥ずかしいこと聞かないで……』とちょっとまなじりを吊り上げてつぶやく。
ごめん、ムードなくて。
でも、こうやって同意を得なきゃ、どんどん進んでしまいそうだから。手を合わせて、紫苑の揺れる瞳をじっと覗き込む。
「それか、しーちゃんがしたいぶんだけくださいな」
「余計に聞き方がいやらしい……」
言わせるのも酷な質問かなーと思って言い方を変えてみたんだけど、ますます紫苑が赤面する結果となってしまった。可愛い。可愛すぎる。
「……私の好きにして、いいの?」
「そっちのがいやらしい言い方ですなー」
「……ちゃんと答えなさい」
「むぎぃ」
両頬をサンドイッチみたいに挟まれた。ごめんて。けどおどけた言い方してないと、心臓ばっくばくでいつ破裂するか分からないんですわ。
照れ隠しだよと弁明して、『お願いします』と促す。
「目、閉じて」
「……ん」
言われたとおりに従うと、やがて辿々しく唇が重ねられた。
不慣れを表す鼻息がかかって、両頬に添えられた指がぷるぷる震えている。
やがて、押し当てているだけだった唇がゆっくりと動く。
下唇を軽くついばんで、ふにふにとすり合わされる感触を覚えた。
私のときよりも長く触れ合っていた唇が離れて、力が抜けたらしい紫苑が私の胸へもたれかかる。
「こ……ここまで」
「ん……良かった」
頭に手を置く。いま心音がやばいことになってるけど聞かれてるだろうな。
まさか単なるちゅーだけじゃなくて大胆にはみはみしてくると思わなかったから、もう顔から火が出そうな勢いだ。
リビング除湿にしてたのに背中に汗がにじんでいる。
「って、しーちゃんついてるついてる」
あわててテーブルのティッシュ箱から何枚か引き抜いて、紫苑の口元をぬぐう。
グロスがべたついて、口端にはみだしていた。
濃いリップにしたのがまずかったな。
紫苑の顔白いから余計に目立つよ。口紅失敗したお母さんみたいな顔になってる。
キス後にごしごしされるのも自分とのキスが嫌だったのかって気にされそうだから、はみ出た部分だけを落としておいた。
「とれたよ」
「……ありがと」
拭いた後も、紫苑は気になるのか視線が私の唇から離れようとしない。
顔に何かついてますかね。ケアはしてたけど口臭とかあったんかな。
「あ……いや、なんでも」
「そう濁されると余計に気になるから、遠慮なく言ってよ」
「…………、せっちゃんのそのリップって、いつから使ってる?」
はて。顔になにかついてるかの指摘と思いきや、リップの話題に飛んだのがよく分からない。どゆこと?
「いつからって……1年ほどよ?」
「そ、そう……」
「ありゃ、もしかして匂いとか気になった?」
しまった。いいやつだからすぐ使い切りたくなくてちまちま減らしてたけど、口紅も消費期限あるんだよね。
開封後は1年以内に使い切れって専門家が言ってたのを思い出した。それに、油って酸化しやすいんだっけ。うわしくじったな。
「ち、違う」
「え、違うの? 気遣ってるとかじゃなくて?」
「ほ、本当。えと、その…………他の人にもそのリップでしてたのかって……気に、なって」
「あ」
そういうことかー。それもそれでしくじったな。
前の子とこのリップでしたかとは覚えてないけど、紫苑からすれば気になっちゃうのも当然だよね。さっきのキスも、リップを取ろうとしてたのかね。
反応がないことを引いていると受け取ったのか、勢いよく紫苑が頭を下げてきた。
ヘドバンレベルに髪を振り乱している。どうどう、脳震盪起こすよ。
「ご、ごめんなさい。小さいこと気にして。で、でも。やめてって言ってるわけじゃない。使い切るまでは普段どおりに使って」
「いやいや、独占欲を出してくるのは悪くないことだよ」
紫苑のそれなんて可愛いもんで、私なんかもっとばしばし出しちゃってるからね。
そうとなれば、することは一つだ。
ポケットからスマホを取り出し、通販サイトを開く。
「せっかくだしさ。つきあって最初のプレゼント、お互いが選んだリップにしない? プライベート用ってことで」
「…………あ」
ぷれぜんと、と紫苑が確かめるようにちいさく口にした。
ちょっと口角が上がっているのが死ぬほど可愛い。ついでに頭を撫でる。
じっさい、私も最初のプレゼントは何にするかずっと迷っていた。
恋人になった以上は目に見える証が欲しいし、自分だけが知っている紫苑の姿をたくさん増やしていきたい。
だから、ふたりきりのときにだけ使うリップってのはなかなかいいアイテムなんじゃないのって自画自賛する。
「しーちゃん、ジルのリップだっけ?」
「うん……あれ、知ってたんだ」
「前に言ってたの聞いたから」
カンナとの会話で知った……ってのは伏せておく。
つっても紫苑、色が薄いのか色なしを使ってるのか、普段だとつけてるのかよく分からないんだよね。
あんまり目立つやつは好みじゃないんだろうか。
「つけてると、男受け意識してるのかって揶揄られたことがあって」
「単なる嫉妬だろうけど、お前のためにつけてんじゃねーよって感じだよね」
中学時代に言われたらしきこと引きずってたのか。そいつの顔を見てやりたいわ。
私みたいに派手系だとなんも言われないけど、紫苑みたいな清楚系の子が目立つメイクだとあざとい言われるのは納得いかないな。
「でも、せっちゃんだけに見せるものだから。したくなるような色のリップがいい」
「あはは、かわいいこと言ってくれる」
ナチュラルに口説かれたら、つけてなくてもしたくなっちゃいますよ。
紫苑、無意識に理性を試すようなこと言ってくるなほんと。
「……まっさらな状態で、もう一度する?」
「ここまでって言ってなかったっけ」
「回数は言ってないわ。……それに、私だって普段使ってるものでせっちゃんとしたから人のこと言えなくて。……あと、リップのことを聞いたら、上書きしたいと思った」
私ほどじゃないけど、君もけっこう独占欲強いところあるのね。
丁寧に、クレンジングを染み込ませたコットンで唇をすっぴん状態に拭う。
そういえば、何もつけてない状態でするのは初めてだな。それもまた新鮮でいいよね。
「今度は、せっちゃんからして」
「はいよ、お嬢さん」
跳ねる心臓を押さえつけて、紫苑の顔を引き寄せる。
今度は、感触を刻みつけるように、長く。
……よかった、ここがリビングで。
視界の端にまったく関心のないのんき顔であくびをする猫の姿が目に入って、ふふっと声が漏れそうになる。
自分の部屋だったらやばかったかもしれない。
そんなこんなで健全なお付き合いを続けて、高校最初の試験日が過ぎていった。
そして、私の中間考査は散々な結果に終わったのであった。
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