30.【紫苑視点】不快な雫
店長が入院することになった。
原因は、盲腸。
痛みは数日前からあったが、店長は排卵痛だと思い鎮痛剤を飲んで仕事にあたっていた。
ところが昨日の夜、容態がついに急変。右腹部への激しい痛みに加え高熱と嘔吐の症状が出るように。
これはまずいと救急車を呼んだところ、即入院となったらしい。
『突然やってくる病気だから、みんなも気をつけて。盲腸って聞くとめっちゃくちゃお腹が痛くなるイメージがあるけど、あれは虫垂炎が悪化して腹膜炎になった痛みってこと。右下腹を押さえて痛みがあったら、すぐに受診してね。ジャンプすると分かりやすいよ』
経験からくる注意喚起のメッセージを読み返す。
幸い、破裂まではいかなかったため軽い手術で済むことになった。
入院自体も5日くらいで退院できるとのこと。大事には至らなかったようでよかった。
だけど、店長がいないということは、その穴は。
メッセージに添付されている、訂正されたシフト表に目を通す。
代わりに入ることになったその人の名前に、憂鬱な気持ちが募っていくのを感じていた。
「大変申し訳ございません、席が空き次第ご案内いたしますので少々お待ちください……」
シフトリーダーのイナバさんが直角に腰を曲げて、深々とお客様に頭を下げる。
幼稚園くらいの子供を連れた夫婦が不満そうなため息を吐いて、ドアベルを鳴らし去っていく。
親子の退店を見送って、イナバさんがレジへとつかつか歩いてきた。
表情は険しく、この一因を作った私へと鋭い声が向けられる。
「ハルさん、呼び出しベルがないとはどういうこと?」
「……来店されるお客様一人一人に渡していた、からです」
正直に答えると、呆れたようにイナバさんは肩を落とした。
「伝票は、番号札ひとつに対して一枚出てくるのは分かってるわよね?」
「はい」
「お客様ひとりならいいよ? でも、複数人で来た場合はいちいち一個ずつ渡していたら、そのうちベルがなくなるのは普通気づくでしょう。居酒屋みたいに団体で来るほどの規模ではないのだから」
「はい。……ですが、お会計別々をご希望されるお客様が多く」
「言い訳しない。その場合は同じ番号札を最初に打ち込んで会計すればいいの。そしたら個別会計はできるし、番号札もひとつで済むし、調理担当の方も把握しやすいでしょ」
だから、今日以上の混雑時も呼び出しベルは途切れなかったのかと今更のことに気づく。
ただ、私の中ではもうひとつ不可解な点があった。恥を忍んで聞く。
「……あの、調理時間は異なりますよね。すぐに作れるものと出来上がりまで時間がかかるものを同時に注文された場合、最初に作ったものが冷めてしまうと思うのですが」
「だからー、出来たものからトレーに並べて呼び出せばいいの。また調理が完了次第お呼びしますからって伝えて、ベルをお客様に返せばいい。これ、マニュアルにあったはずよ。もう忘れちゃったの?」
「…………、すみません」
最悪だ、不勉強の墓穴を掘ってしまった。偉そうに口答えした自分が心底恥ずかしい。
追い打ちをかけるように、カウンターへ料理を取りに来たお客様が『ちょっと』と声を上げた。
「あのさ、なんでBLTサンドしかないの? グラタンパンも一緒に頼んだはずなんだけど」
「……お手数をおかけして大変申し訳ございませんが、レシートをお見せいただいてもよろしいでしょうか」
提供にあたっていた芹香の顔が青ざめる。しかし伝票には『BLTサンド』としか記載されていない。お客様が持っていたレシートも同様だ。
機械の故障ということはありえないから、私がグラタンパンの料金を打ち忘れたことになる。
すぐに平謝りしつつ、追加注文の会計に回った。
しかし問題はこれだけではなく、次に待っていた男性客は投げつけるような勢いで呼び出しベルを突き出した。
「……なあ、いくら混雑時とはいえこっちは30分も待たされてんだけど。なんで後に来たやつが先に食えてんだ? どういうことだよ」
あわてて調理担当の方が伝票を確認する。
だが呼出番号も料理名も、どこの伝票にも見当たらない。しかし男性はレシートを持っているため、会計は済んでいるはずだ。
不可解な現象に、イナバさんが冷静に男性の前に立った。
「お支払いは電子マネーでされましたか?」
「……Suicaだけど、それが?」
「分かりました。大変申し訳ございません、最優先でお作りしてお持ちいたします」
イナバさんが何度も頭を下げて、男性が何かを怒り濃く吐き捨て席へ戻っていく。
睨みつける目つきで私の元へと歩いてくるイナバさんに、びくっと肩がこわばった。
強く腕を引かれ、厨房の裏へと連れて行かれる。
「ねえ、さっきのやりとりで何をやらかしたかわかる?」
「……申し訳ございません。教えて下さい」
「あなた、現金払いで打ったでしょう。電子マネー決済で入力しないと、伝票が出てこないの。これもマニュアルにあったはずだけど、一体研修で何を学んできたの?」
続けざまのミスに、イナバさんの声はさっきよりも冷たく硬い。
消えてしまいたくなるほどの羞恥が胸を焦がし、爪が食い込むほど拳を握りしめる。
スギムラさんや他の人に教わって、メモをしっかりと取った。
マニュアルもくまなく読み込んだつもりだった。
だから、信じてレジ担当に配属されたというのに。
頑張ったって、行動に定着しなければ意味がない。
「……他の人にレジを頼むから、ハルさんは洗い場に戻って。後日上に言って再研修を入れておくから」
失望をはらんだ光のない瞳が、哀れむ表情と一緒に私を捉えた。
喉から胃にかけて焼けつく熱さを覚え、負の感情が猛烈な勢いでこみ上げてきた。
またたく間ににじんでいく視界に、泣いて済むと思うのかと弱い心を叱咤する。
泣きたいのは、私のせいで多大なる迷惑を被っている他の従業員やお客様だろうに。
いくら言い聞かせても、まなじりには勝手に熱いものがあふれていく。
伝っていく、不快な雫を止められない。顔を伏せる私へと、温度の失せた声が飛んだ。
「……ハルさん、予定変更。しばらく休憩ね」
「いえ大丈夫で、」
「その顔で接客させるわけにはいかないの。あなただって、仕事仲間がそんな状態だったら気になって手につかないでしょう。だから泣き止んだら戻ってきなさい」
「…………はい」
頭を下げて、スタッフルームへと入る。
メモを取り出し、ミスをすぐさま書き込んだ。忘れないように、何度も何度も書き留めて頭に叩き込んでいく。
ぬるい雨が、ページにぱたぱたと降り注ぐ。
インクがにじんで、文字がぼけていく。なんと情けなく、みじめな様だろうか。
未だ足を引っ張っている要領の悪さに腹が立つ。悔しくて仕方がない。
自分に接客業は向いていなかったのかと、自信が極限まで沈んでいく。
だけど、投げ出すことはもっと嫌だ。
ここで全部流して、早く戻らないと。
やってしまったぶんは誠意を持って、仕事で取り返すしかないのだから。
ハンカチで目元を押さえ、私は無心でペンを走らせ続けた。
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