12.【紫苑視点】そういうのは駄目だ

 何度か呼びかけてみたものの、よほど深い眠りに落ちているのか芹香が目覚める気配はない。詰みそうだ。


 芹香に痛みを与えるなど到底できるわけがないし、大声もできれば出したくない。

 もっと、優しく、かつ刺激的な起こし方を。

 そんなものがあるかと否定しかけたところで、ある箇所に視線が吸い寄せられる。


 淡紅色に艶めく、芹香の唇へと。

 気づけば指先が触れていて、何をしているのかと我に返り手を引っ込めた。


 そういうのは、駄目だ。

 芹香はいま、私のことを友達だと思ってくれているのだから。


 ようやく理性を取り戻した私は、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話を取り出す。

 マナーモードを解除する。それからLINEの受話器のアイコンをタップし、『音声通話』のボタンに指先を伸ばした。



 芹香の拘束から無事脱出した私は、トイレを借りるねと伝えて部屋を後にした。


 ドアを閉めて、壁にもたれて。

 触れてしまった、人差し指の腹を見つめる。


 温かく、潤っていた。ほんの一瞬なのに感触は生々しく残っていて、また心音が速くなっていく。


 そっと、自身の唇へ引き寄せる。

 触れた瞬間、ひときわ大きな鼓動が心臓を揺らした。



「あ」


 階段を降りきったところでちょうど、台所から出てきた女の子と鉢合わせた。

 シンプルなトレーナーとスウェットパンツといういかにも部屋着らしい姿で、見た目は芹香よりも若いように見える。


「えっと……体調はもう大丈夫なの?」

「あ……はい。休ませていただき、ありがとうございます」


 誰かと聞いてこないあたり、芹香から事情は聞いているのか。

 目の前の女の子も距離感を測りかねているのか、声は硬く辿々しい。


「そう。……なら、よかったね」

「はい、せ……りかさんには感謝してもしきれません」


 女の子の立場が分からないため、図らずも芹香を下の名前で呼ぶ形になってしまった。


 言い慣れない呼称を口にしたことにより、むず痒さが湧き上がってくる。

 振り払うように、私は目的を切り出した。


「すみません。お手洗い、お借りしてもよろしいでしょうか」

「あ、そう、だった、よね。引き留めてごめんね。どうぞ使って」


 お互いぺこぺこと頭を下げて、トイレに籠もる。

 結局、あの少女が誰だったのかは聞けずに終わってしまった。



「え、しーちゃん覚えてない?」


 帰り道。玄関を出たところで芹香に聞いてみると、意外な答えが返ってきた。


「お姉さん……?」

「そうです。あれでもうちの姉なんです。てか姉貴も自己紹介してないんか、昔ゲームやった仲なのに」


 お姉さんの清白すずしろエリカさんは芹香の4つ年上。今は市内の工場に勤めているらしい。

 お店まで車を飛ばしてくれた方なのに、まるで結びつかなかった自分が失礼にも程がある。いくら運転席を見ていなかったとはいえ。


「てっきり妹さんかと」

「姉貴まじ老けないからねー、幼稚園の卒アルあたりから顔変わってないよ。妹は老け顔なのにさ」

「童顔だといつまでも舐められるし、大人びた顔立ちのほうがいいじゃない」


 芹香は私服だとお酒も余裕で買えてしまうくらいだから、本人は気にしているのかもしれないけれど。

 お互い、ないものねだりだ。


「しーちゃん、明日病院だから欠席するでしょ? 胃に優しいものをなるべく選んだからどうぞ」

「あ、ありがとう。本当に、何から何までありがとう」


 芹香から大きな紙袋を受け取る。

 中身はお弁当だ。それも複数。

 私が寝入っている間、近くのお弁当屋さんで買ってきてくれたらしい。


 手を振って、芹香は踵を返す。

 胸の奥に温かいものがこぼれ落ちて、同時に歯がゆさを覚える。


 私は今日、お世話になってばかりだ。

 せめて、芹香に何かを返したかった。

 して頂いたことの重さを考えれば、返さなければならなかった。


 なら。

 唯一の得意分野を胸に、私は芹香を呼び止めた。


「もし、よかったら、だけど」


 意外にも、芹香はその申し出を受け入れてくれた。



 約束の月曜日がやってきた。

 バルコニーに続く大開口窓の向こうには、朝焼けに染まる白い公営住宅が見える。

 4月でも、まだ早朝の台所は上着が必要な冷え込みだ。


 7時まで10分を切った頃、父がダイニングキッチンに入ってきた。

 伸びっぱなしの髭と頭髪、吹き出物に濃い疲労の色がうかがえる。


「朝はどれにする?」

「親子丼で」

「はい。こっちの包みはお昼用ね。中身は生姜焼き」


 牛乳瓶を栄養ドリンクみたいに呷っている父の前に、温め直した弁当を置いた。ちなみに私はざるうどん。


「土日潰れるってしんどいね」

「竣工前だからなぁ」


 竣工前、というのは工事での作業が終わる直前の時期のこと。

 私の父親はゼネコンマンだ。納期が迫っていることもあり、毎日大量の書類仕事と検査がある。

 転職で長時間残業は無くなったとはいえ、ここのところはずっと休出続きだ。


「お腹の調子は大丈夫なのか?」

「今は落ち着いた。病院も1人で大丈夫。駅から直通バス出てるし」


 父はほっとしたように息を吐くと、鞄から財布を取り出した。


「検査あるだろうし、いくらか病院代に当ててくれ」

「うん、助かる。ありがとう」

「あと、こっちはお友達に。さすがにタダ飯は悪いから」

「わかった」


 お弁当代の千円札数枚を受け取る。受け取ってくれるかは難しそうだが。


 二人で暮らすようになってから、寡黙だった父はよく話しかけてくるようになった。

 どんなに忙しい朝でも、私と一緒に食べてくれるようになった。

 くたくたで疲れているだろうに、学校行事はできる限り来てくれた。


 母と同じ過ちは犯すまい。

 口に出さずとも、父の変化にはそういった心痛な想いを感じる。

 夫婦仲に亀裂が走ったのは私にも原因があるのだから、一人で気負う必要はないのに。


 父を見送った後、LINEが鳴った。

 芹香からだ。準備できてるよと返した後、まだ寝巻き姿だった己の格好に気づく。


 制服に着替えたら不自然だし、けど今から服に迷っていたら待たせてしまう。


 いいか、このコートで誤魔化せば。

 こういうときは、すっぽり全身を隠せる己の体格に感謝する。


 約束の品を持って、外に向かう。

 気合を入れたから、喜んでくれるといいな。

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