第3話 辺境伯
ドルフィネ辺境伯領。
ボレアリス王国の北西端に位置し、険しい山脈に囲まれながらも、北部に開かれたスアロキン湾によって、他国との交易が盛んな領土であり、また他国からの輸入品に加え、自領で水揚げされる水産加工品を王国内に流通させることで、莫大な利益を得ている場所。
その辺境の地を治める現当主であるジオード・ドルフィネ辺境伯こそが、わたし、リーデロッタの今世での母方の祖父である。
〇
ここでまたとある貴族令嬢について語っておきたい。
彼女は稀代の悪女とまで言われた伯爵令嬢と辺境伯領主との間に生まれた、とても美しい娘だった。
ベルベットのような輝く赤毛に、アメジストとも見紛う紫の瞳。少し丸顔で、垂れ目気味の
彼女の生きる王国では、彼女が生まれた頃から貴族子女達の健全な社交の場と、王国貴族に相応しい知識を得ることの出来る場所として、国王の名と命の元に学園を設立していた。
正式に社交界へとデビューを果たす十四歳から男女共に結婚適齢期とされる十八歳になるまでの間、その学園の門戸は開かれている。
王国の辺境領を治める父を持つ彼女は、当然のように十四歳の社交界デビューと共に、王国の首都に設立された王立アカデミーへと入学した。
そこで彼女を待っていたものは、輝かしい学園生活などではなく、ありとあらゆる誹謗中傷だった。
何せ彼女の母親は王国の誰もがその名を知らぬことのない、悪名高い元悪役令嬢。
そんな元悪役令嬢から生まれ、育てられた少女が、彼女と同じことをしないわけがない。王国の貴族達も、彼らの子女達も、その考えを頭から取り除こうとはしなかった。
故に彼女がどれだけ笑顔を振りまいても、茶会であらゆる子女もてなそうとも、勉学に置いて良い成績を取ろうとも、彼女を取り巻く周囲の目は常に“悪役令嬢の娘”という色眼鏡を通されており。そしてその色眼鏡の色に染まった言葉しか掛けられなかった。
次第に彼女からは笑顔が失われ、茶会を開くこともなくなり、勉学すらも疎かになり出した頃、彼女はとある青年と出会う。
彼は彼女の事を色眼鏡など通して見ようとせずに、ただただ、辺境伯令嬢ヴァイオレット・ドルフィネとして接した唯一の男性だった。
そんな唯一無二の存在に、ヴァイオレットが心を開き、そして想い、彼と結ばれる願いを止めることが出来た者が、当時のアカデミー内に居ただろうか。
幸か不幸か、居なかったからこそ、わたし、リーデロッタ・シリウスが今存在しているのだが。
辺境伯令嬢ヴァイオレット・ドルフィネは、その高い地位をかなぐり捨ててでも、自らを色眼鏡で見なかった、コーパル・シリウス子爵令息の元へ嫁いだ。
いや嫁いだなんて可愛らしい行動ではない。押しかけたのだ。
そして押しかけた先でヴァイオレットは、シリウス子爵家が抱える多額の負債を目の当たりにする事になった。
さて押しかけ女房とは言え、ヴァイオレットはかの有名なドルフィネ辺境伯領家の令嬢だ。もちろん持参金も、ドレスも装飾品も、使用人も、辺境伯の地位に見合ったものを持って嫁いだわけなのだが、当時のシリウス子爵家の抱えていた負債はそれら全てを注ぎ込んで、ようやくまっさらになるほどに積み上がっていた。
それでもヴァイオレットは持てる全てを使い果たしてでも、コーパルを支えようとした。
財産は何も無くなったが、愛だけはある。幸いにも、ヴァイオレットは嫁いですぐに子どもを授かった。二人の愛の結晶である子どもの誕生間近という頃に、再びヴァイオレットは悲劇と合間見える。
コーパルには子爵家を上手く運営するほどの能力はなく、そして辺境伯令嬢として暮らしていたヴァイオレットの生活基準に合わせた生活を無理に続けていたため、これから子どもが生まれてくるというのに、その子どもを育てるための養育費がなかったのだ。
斯くしてヴァイオレットは、ボレアリス王国の貴族子女達に反面教師として、その名を知らしめられる事となる。
愛に溺れて、沈んだ愚かな令嬢。
ヴァイオレット・ドルフィネ。
彼女こそが、わたしの今世における母親である。
〇
祖父が倒れたとの知らせを受け取ったわたしは、アカデミー中に散らばる担当教授達へしばらく欠席の旨を、それなりの早歩きで知らせて回った。
普段、図書館から出てこないわたしが少し慌てた様子で教授達へ声をかけたためか、それともわたしの祖父であるドルフィネ辺境伯へ恩を売っておきたいためか、なんにせよ、ジェダがわたしの荷物をまとめ終えた頃には、もうアカデミーの玄関前にはわたしが乗るための馬車が用意されていた。
馬車は急いでくれたのであろう。いつもならば二時間はかかる首都郊外にある実家への道が、たったの一時間ちょっとで着いたのだから。
その分、馬車の揺れは凄まじく、見事にわたしは馬車酔いもして、お尻と腰がガクガクになったわけなのだが。
「……ありがとう、ございました」
青い顔でお礼を言うと、御者はわたしにハッカ飴を手渡してくれた。わたしは再び深く礼をしてアカデミーへと引き返す彼を見送った。
彼の姿が米粒ほどになった辺りで、わたしは自分の実家であるシリウス子爵邸の方を向く。
手入れの行き届いていない伸び放題の芝生。
錆だらけの門。
塗装の剥げている玄関扉。
実はこの辺りの中流階級である商家の子ども達が、我が家を幽霊屋敷と呼んでいる事を、貸本屋へ通っていたわたしは知っている。
(これでも、隙間風と雨漏りはないんやから、文句ちゃ言えん)
ジェダが錆び付いて、ギィギィ言う門を開ける音で人が来たことがわかったのだろう。玄関扉が開いて、中から見慣れたお爺ちゃん執事のカーネルが出てきてくれた。
「あぁ、リーデロッタお嬢様。おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました。カーネル、お母様は?」
「まだお支度中でございます。何分急なお話でしたので……リーデロッタお嬢様は随分とお早い到着でしたね。アカデミーからもっと時間がかかるかと思っておりました」
「御者が気を利かせてくれたのでしょう。いつもより早く着くことが出来たの」
それにわたしの荷物は少ないのだ。トランク一つで事足りるくらいには。だから馬に多少の無理をさせる事もできたのだろう。
「ジェダ、わたしの荷物は玄関ホールに置いておいて頂戴。それから、少し休んで。ドルフィネまでの道のりは長いから」
「かしこまりました」
「カーネルはもう馬車を手配しに行ってくれないかしら? 出発が早いに越したことはないでしょうから」
「ですが、奥様のお支度がまだ……」
「わたしが終わらせてくるわ」
老体に鞭を打つようで申し訳ないのだが、カーネルに母の支度を終わらせる事はできない。
わたしはカーネルに山道に強く、馬力のある馬が引く馬車を手配するようにと念押ししてから、実家の階段を駆け上がった。
〇
シリウス子爵邸は三階建てである。
一階は来客用、三階は使用人の住居。そして二階がわたしたちシリウス家の居室になっている。
二階の中でも階段から遠く、他のどの部屋よりも広く、バルコニーも付いている一番良い部屋が、母ヴァイオレットの部屋である。
わたしは二階の廊下の突き当りにある母の部屋の扉をノックする。だが返事はない。中から物音はするのに、だ。
わたしは誰の許可も得ずに扉を開ける。目の前には、観音開きの衣装ダンスが全開になっており、ベッドの他、寝椅子、椅子、テーブルに至るまで、あらゆるところに掛けられたドレスにスカーフに、果てはドロワーズまでもが散らばっている光景が広がっていた。
(あーもーやっぱりやちゃ)
予想通りの光景にため息も出ない。わたしが入ってきたのに気が付いたメイドがようやく手を止めたところで、わたしは今世における産みの親であるヴァイオレットに話しかける。
「お母様、リーデロッタです。先程、帰宅いたしました」
サラリと流れるストレートの美しい赤毛の向こうで、涙に濡れたアメジストの瞳がふらりとわたしの赤い目を捉えた。
「あぁ、ロッタ! 帰ってきてくれたのね」
母はわたしを幼い頃からの愛称で呼ぶと、しっかと抱きしめる。母からの抱擁が嬉しくないわけではないのだが、今はそんなことに浸っている場合ではない。
「お母様、お爺様が倒れられたという手紙を受け、急ぎ帰ってまいりました」
「そう。そうなの。父上が……いえ、貴女のお爺様が倒れられて、正直危ない状態だと言われているそうよ」
「えぇ、わかっています。ですから、急ぎドルフィネ辺境領へ向かわねばならないと思い、準備を手伝いに参りました」
「手伝いって、貴女の準備はどうするの、ロッタ?」
「わたしの準備は済んでいます」
わたしの着替えは全てジェダの用意したトランクの中だ。それにこれから山道を揺れる馬車に乗って移動するのだ。どう頑張っても、馬車酔いで本の一冊も読めるわけもなければ、そんな揺れる馬車の中で刺繡やらレース編みやらが出来るほどわたしは器用ではない。だからこれ以上、わたしの荷物は増やさなくていいのだ。
わたしは母の部屋中に広がったドレスの中から、若草色とすみれ色、それから紺色のドレスを選んでメイドに手渡す。合間に適当なコルセットやパニエ、ドロワーズを選んで、ついでに下着類を多めに入れてしまえば、着替えは充分なはずだ。あとは装飾品を少し選べばいいだけだろうと、ドレッサーの方へ向かおうとしたわたしを母が止めた。
「ロッタ、待って頂戴。こんなにドレスが少ないと困るわ。夜会用のドレスが一枚もないし……」
「お母様。ドルフィネへはお爺様へのお見舞いに行くのですから、夜会用のドレスなんて必要ありませんよ」
「で、でもね。三着だけしかないのは」
「あまり荷物を増やすと、重くなって馬車を牽く馬の負担になって、ドルフィネへ着くまでに時間が掛かってしまいます。それに着飾りすぎると盗賊に狙われますから、少ないくらいで丁度いいのです」
母のドレッサーを開いて、真珠で出来た装飾品一揃いを取り出して近くにあったハンカチで包む。これはトランクの中に入れないで、手元で管理した方がいいだろう。
開きっぱなしの衣装ダンスの中から、布で出来た、それでも刺繡たっぷりのポシェットを取り出して、そこへ装飾品を入れて母へ手渡す。
「お母様、装飾品はこれだけを手元でしっかり持っていてください」
「何を言っているの、ロッタ。装飾品を、たったこれだけ? しかもこれポシェットじゃない」
「お見舞いですから、華美な宝石よりも真珠の方がいいかと。それに革のハンドバッグも物取りに狙われやすいので、不服かもしれませんが、布のポシェットでお持ちください」
母が戸惑っている隙に、部屋中に散らかったドレスたちを片付けるようにメイドに指示を出してしまう。
途中、どうしてもと母に懇願されて、山吹色のイブニングドレスを一着だけを追加して、どうにか母の荷物をトランク二つに収めることができた。これならば山を超えて向かわなければならないドルフィネ辺境領まで、三日もあれば辿り着けるはずだ。
そろそろカーネル爺さんに手配をお願いした馬車が、うちの門の前に到着していて欲しい。
「お母様、わたしは手配した馬車が来ていないか、確認しに下へ参ります。お母様は馬車へ乗るための最後の支度を整えてくださいませ」
馬車での長旅の途中、落ち着いて用を足せる便利な施設は、残念ながらまだボレアリス王国にはないのだ。出発する前に、しっかりと済ませておいて欲しい。
「ロッタ……貴女、どうしてそんなに落ち着いているの? あんなにもお世話になったお爺様が倒れられたのよ」
「……わかっております。だからこそ、平静を保って準備をすることで、出来る限り早く、お爺様の元へ行きたいのです。お母様も、わたしと同じ気持ちだと信じております」
わたしはそれだけを母に伝えて、再び階段を降りる。
〇
ドルフィネ辺境伯とわたしの初対面は、リーデロッタが三歳になった時。
リーデロッタを養育する費用をシリウス家ではどうあっても賄えない事に業を煮やしたヴァイオレットが、恥を忍んで一度、実家であり、実母エスメラルダの暮らすドルフィネ辺境伯領の離宮へと帰って来た時の事だった。
それまで過ごしてきた首都のシリウス子爵邸から、突然、山を超える長旅を経て、見たこともない真っ白な石造りの大きな城へと連れてこられ、身体中を丸洗いされて、着た事もないような窮屈なドレスに、重たい装飾品の数々を身に付けさせられて、そして高圧的な態度の祖母だと言う人物に対面させられたリーデロッタは、幼いその身に有り余るストレスから、発熱した。
頭の中が煮えたぎるような高熱で朦朧とする意識と夢の中を行き来するうちに、わたしは自分が現代日本で生きていたことがあった、転生者であることを認識したのだ。
認識してから、熱が下がるまでの三日間、ベッドの上は前世のわたしの記憶を辿るのにピッタリの場所だった。何せ、前世のわたしは人生のほとんどを病院のベッドの上で過ごし、そして、十七歳の誕生日を迎える一週間前のカレンダーを見たのを最後に、意識を失い死んだのか、それ以上の記憶が出てこなかったのだから。
あとたったの一週間。
それだけで、誕生日を迎えることができたのに。
できなかった。
そのことが悔しくて、悔しくて、仕方がなかったわたしは、リーデロッタ・シリウスとして生きる上で、絶対これだけは達成してやろうという目標を立てた。
平凡でいい。
目立たなくていい。
今世は長生きをする。
ともかく、十七歳を絶対に超えてやる!
だけど三日間もゆっくりと前世の記憶を思い出したところで、転生前のわたしが持っていた程度の記憶と知識では、病院のベッドの上で時折読んでいたような、“転生者だから持っている知識で上手く生きていくぜ!”なんてことは全くできそうにない。
それどころか、今のままでは実家の貧困によってまた早死にしかねないと気が付いたわたしは、熱が下がって回復したリーデロッタの身体で、まずこの世界の知識を求めた。
前世の記憶とひとまずリーデロッタとして三年間生きてきた記憶によって、知識を得る方法はこれしかないと考えたわたしは、広々とした石造りの屋敷の中で本を、とりわけ図鑑のようなものがないだろうか、と探しまわった。図鑑であれば絵と共に文字が載っているはずだから、こちらの世界の文字の勉強になるだろうと推測したのだ。
先回って言い訳をしておくと、三歳児というものは大変背が低く、視野も狭いものだ。そしてそんな三歳児の身体からしてみれば、真っ白な石造りの大邸宅は、内装もドアも廊下のカーペットすらも、どこもかしこもが同じような作りで整えられた巨大な迷路のようなものなのだ。
ほんの少し、本を探し回るつもりで与えられていた部屋の扉を出たわたしは、だだっ広く似たような風景が続く屋敷の中を歩いて行くうちに、次第に母どころか、熱を出した自分の世話を焼いてくれていた使用人のただ一人とも出会えないことに焦って、走り出していた。
何度も言うが、三歳の小さな身体と狭い視野には、ドルフィネ辺境伯の本邸も、祖母の居た離宮も似たようなものに見えていたのだ。
だから自分がいつ本邸に紛れ込んでしまったかなどもわからずに、焦って走りながら何度目かわからない曲がり角を曲がった。
この曲がり角が、まさかこの先の人生を翻弄するターニングポイントだったなんて、わたしは思いもしなかった。
曲がり角の先で三歳のわたしとぶつかったのは、引き締まった巨体に、真四角なのではないかと思うほど綺麗に整えられた銀髪と、母と似ているアメジストの瞳でギラリとこちらを見下ろしてくる、やたらと品の良さそうな老人だった。
「……子ども? おい、どこから入り込んだのだ」
その時ぶつかったわたしも、そしてぶつかられた老人も、その時にはお互いに血縁があるだなんて、全く知らなかったのだ。
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