天国は彼方
砂糖醤油
前編
「あー……人がゴミみてぇだ」
吐き捨てるような俺のセリフに応えるものはいない。
そりゃあそうだ、そういう場所を選んだのだから。
しっかり下調べした甲斐があった。
こんな寂れたビルの屋上なんかは誰でも入れる上、この時間に人が来ることは滅多にない。
人生で言ってみたかった言葉第一位も今しがた言えた。
もう今生に悔いなんてない。
後は数歩、踏み出して身を任せるだけ。
風が心地よい。
あぁ、本当にくだらねぇ人生だったなぁ。
そうして俺は最後の一歩を―――。
「待ってください!!」
「……あ?」
踏む前に背後のドアが勢いよく開けられる音がした。
振り返ると、そこには白いワンピースを着た白髪の女が息を切らしながらこっちを見ている。
立ち入り禁止の立て看板でも置いておくべきだったか? いや、そんな事よりも。
最悪だ。最ッッ悪な状況だ。
それはもう、死にそうなほど。
いや死ねてたら苦労してないんだけどな。
なんにせよここからさっさと立ち去ってもらわなくては。
「なんだよお前。ここは立ち入り禁止だぞ」
「えぇっ、そうなんですか!? っていやいや、そんな事言ってる場合じゃないですよ! 危ないですよ!?」
「いいんだよ、作業中だから」
「え? でもその割に命綱とかないし、ご丁寧に靴も置いてありますけど……」
「チッ」
「何で舌打ちされたんですか私!?」
段々イライラしてきた。
あぁもうごまかすのも面倒くせぇ。
「いーからどっか行け。邪魔だ」
「いやいやいや、この状況でそんな事言われましても」
「別に俺が生きようが死のうが勝手だろ。お前に迷惑がかかるわけでもないし」
「やっぱり死のうとしてる! 止めますよそりゃ! 見過ごすわけにはいかないですから!」
「じゃあ俺が生きなきゃいけない理由を教えてくれよ」
「え? えーっとそれは……こんな死に方すれば地獄に落ちちゃいますよ? 地獄ってほら、苦しいところだって言うじゃないですか」
「どうでもいい。そもそも俺は無神論者だ」
「なんと罰当たりな! って違う! そんな事が言いたかったわけじゃない!」
「じゃあ俺もういくから」
「ちょちょちょちょっと待ってください! 今! 今、考えますから!」
まさか今わの際がこんなに騒がしくなるとは。
最期くらい静かに逝かせてほしいものなのに。
「もし生き延びれたとしても、これからものすごく重いハンデを背負っていくことになるんですよ!?」
「この高さなら即死だ。その心配はない」
「うぐっ……そ、それでも生きていれば良いことが」
「興味ない」
「そ、そんな……うっ、ふぐぅ……」
ボキャブラリーが無くなったのか、彼女の眼には涙がたまりはじめている。
泣きたいのはこっちの方だ。
なんで邪魔されなきゃいけないんだ。
「あー……もう萎えたわ」
別に死ぬのが怖くなったとかじゃない。
このまま延々と不毛な議論が繰り返されるのが嫌になっただけだ。
「よ、良かった……思い直してくれたんですね」
へたりと座り込むおせっかい女に返事もせずにその場を去る。
何か話しかけているが聞こえないふりをした。
ドアを閉めて階段を降りながら悪態をただひたすらに呟く。
邪魔さえ入らなければ、今頃はもう楽になっていただろうに。
……ところで。そういえばなんであの女は俺の存在に気が付いたんだ?
服装もそうだし、どう見てもこのビルに関係する人間でないことは明らかだ。
考えをめぐらせようとしたところで、やめた。
馬鹿馬鹿しい、どうせもう会うことなどないだろうし。
なんてフラグを立てたのがよくなかったか。
「あ、また会えましたね!」
ざけんな。
何でコイツがいるんだよ。
というか何百人もいる街中で俺を見つける事自体おかしいだろ。
顔をひくつかせながら唖然とする俺のことなど意にも介さず、彼女は話を続ける。
「あれからどうです? 体調とかに変化は? 気分に問題はないですか?」
「……今最悪になったところだ」
「えっ、それは大変ですよ! 吐き気とかはないですか? 頭痛とかは?」
無敵かこいつ。
もういいや、適当な事を言ってごまかしてとっとと家に帰ろう。
と、思っていたところで彼女のスマホから着信音が鳴った。
よし、この隙に逃げよう。
「ちょっと失礼しますね。はい、もしもし……。あ、はい。そうですけど。……え!!??」
あまりの大声に、周りの視線が一気に彼女へと集中する。
かくいう俺も俺で足を止めてしまっていた。
「いやいや困りますってそれは! 何とかならないんですか! え、無理? 後はお前が頑張れって……そんな無茶ぶりあります!? あ、ちょっと!? もしもし!? もしもーし!?」
……彼女の反応を見るに、一方的に電話を切られたらしい。
一昔前のロボットのようにぎこちなくこちらへと振り向いては、距離を詰めてくる。
「な、なんだよ……」
「あのあの、本当に差し出がましい申し出なんですけど!」
と言った途端、彼女は尻込みし始めた。
いやでもやっぱり、他の方法を探した方が、それに変に迷惑をかけるのもよくないよね。
ぶつぶつと逡巡する様子を見せながら目をつぶったかと思うと、何かを決心したかのように勢いよく頭を下げた。
「どうかしばらくの間泊めていただけないでしょうか!!」
「は?」
ほらな、関わるべきじゃなかった。
ほぼ初対面の相手に「泊めてくれ」なんていう人間がどこにいる。
「おかしな事を言っているのは百も承知です! でも行く当てが無いんです! お願いしますぅぅぅ!!」
やめろ鼻水を垂らしながら涙目でこっちを見るんじゃない。
おかげで衆目の視線が刺さる刺さる。
なんなんだ今日は、厄日か? 厄日なのか?
「あー……もう」
とりあえず場所を移さなくては。
警察なんて呼ばれたら困るし、何より俺がこの視線に耐えられない。
ため息をついて彼女の手首をひっつかむ。
「えっ、えっ?」
「話なら違う場所で聞く」
「という事は泊めてもらえるという事ですか!?」
「気が早ぇよ。話を聞くだけだ」
早くこの女から解放されたい。
頭の中を埋め尽くすのはそれだけだった。
「……あの、私ここにいていいんでしょうか?」
女が尻込みした様子を見せる。
選んだのはたまたま近くにあった喫茶店。
良く言えば懐かしみのある、悪く言えばどこにでもあるような店だ。
「は? 別にいいだろ。問題でもあんのか?」
「いやでもお金が……」
「ここそんなに高くねーよ」
彼女が悩ましげな表情を浮かべながら財布を取り出す。
かと思えばチャックを開けたまま逆さまにして振り始めた。
ちゃりん、ちゃりんと響く小銭の音はどこか哀愁を漂わせていた。
「えーっと……80円しか」
「缶ジュースすら買えねーじゃねーか」
マジで今までどう生活してきたんだこいつ。
ますます家に入れたくなくなってきたぞ。
「あぁもう仕方ねーな、ここは奢ってやるから話が終わったらとっとと帰れよ」
「それは困るんですけど……とりあえず話を聞いていただけるということでしょうか?」
「付きまとわれたくねーからな。すいません、注文お願いします」
「ご注文ですね。お伺いいたします」
「このホットのオリジナルブレンド一つと、お前は?」
「あ、じゃあカフェオレのアイスをお願いします」
ちゃっかり俺のより高いのを選んでんじゃねーよ。
「はい、オリジナルブレンドのホットとカフェオレのアイスですね。少々お待ちくださいませ」
お辞儀をして厨房へと戻っていく店員を見送って視線を女の方へ戻すと、彼女は目をきらきらと輝かせていた。
「おぉ、何だか慣れた様子ですね。行きつけだったりするんですか?」
「いや、来たのは今日が初めてだ」
「嘘ォ!?」
本当だ。
大体相談事というものは喫茶店でするのがテンプレートだ。
余裕を見せたくて常連のように見せたのも事実ではあるが。
「で、とりあえず聞くけど名前は?」
「
「じゃあ聞くが天崎、お前そもそも何者なんだ?」
「無視された……まぁいいです。私はですね。……て、じゃない。えーっと」
何故そこで口ごもる。
口を開けたまま目線が上の空へと向く天崎を、俺は半ば呆れながら見ていた。
「そう、転職中! 転職中の身なんです! いや~中々これが大変で! あはは……は……ゴメンナサイ」
天崎は半ば自虐気味に笑いを浮かべるが、意味がないと察したのかぺこりと頭を下げた。
「それでさっきの電話は?」
「上司と言うか仕事仲間というか……あ、元ですよ元! その人のところに泊めてもらう予定だったのですが……まぁその、彼女も彼女で大変らしくて予定がおじゃんに」
「帰る場所は無いのかよ? 両親は?」
「ありません。飛び出してきたので、それっきり。ホテルや民宿に泊まるお金もなく……」
そりゃ80円で泊めてもらえる場所なんて無いだろうよ。
しかし、彼女の容姿はかなり良い方だ。
そばかすと短い髪のせいで多少芋っぽさはあるものの、顔のレベルは高い。
だから襲われる事を覚悟すればどこかに泊めてもらえるのかもしれない。
……って何を考えているんだ俺は。
いくら金が無いからといってそんな行為に走らせていいはずがないだろ。
「お待たせいたしました、ホットコーヒーとアイスカフェオレです」
「ありがとうございます。あ、美味しいですよこれ」
俺の心配をよそに、天崎はカフェオレに口をつけると驚愕と喜びの入り混じった笑顔を向けてくる。
本当に表情がコロコロと変わる奴だ。
宿なし、金なしの切羽詰まった状況にしてはやけに呑気な感じがするのは気のせいだろうか。
「で、それが何で俺を頼る理由になるんだよ。ただの他人だろ」
「それは……そうなんですけど。他に関わりのある人もいなくて。でも本当に嫌ならいいんです。他を探しますから」
そう言って物憂げに彼女は微笑む。
ここで知った事か、と言えるならどれだけ良かったことだろう。
きっとそうならないのは血筋だ。
お人好しという名前の、遺伝する病気だ。
「もてなすような余裕なんてねーぞ」
「いいんですかっ!?」
カフェオレをこぼしそうな勢いで彼女が机を叩く。
どうせ後悔するだろうに、了承する俺も馬鹿だ。
表情が歪んだのは、きっと口に含んだコーヒーの苦さからなのだろう。
もうすぐ春とはいえ、家に着くころには気温もかなり下がっていた。
郊外の古びたアパート。
ひびの入った壁がその古臭さに拍車をかけている。
その二階の一番奥が俺の家だ。
駅からさほど遠くない割に家賃が安い分、部屋はそこまで広くない。
元々のスペースから置いてある家具の大きさを引いて、二人分が寝れるので手一杯だ。
「整ってますね。何というか、殺風景?」
「お前かなり失礼な事言ってる自覚ある?」
咄嗟に天崎が口元を抑える。
口を塞ぐ前に気づけ。
「スミマセン」
「……いいよ、別にお前の言う通りだし」
部屋にあるのは小型のテレビと、本の量と比べてスカスカな本棚。
それと押し入れくらいだ。
そりゃあ生活感なんてあまり感じられないよな。
「ともかくありがとうございます。えっと……」
「
「幸介さんですね! うん、良い名前です!」
「俺はそうは思わねぇけどな」
「……?」
「あー、何でもねぇ。ともかく飯だ飯。確か冷凍食品が冷蔵庫にあったはず……あれ」
冷凍庫を開けてみるも、中には保冷剤しかない。
……しまった、どうせ死ぬからと後の事を何も考えていなかった。
もう飽き飽きではあるが手軽なコンビニ飯で済ませるか。
襖をあけて、ハンガーにかかった上着に手を付けた。
「どうかされましたか?」
「飯買ってくる。お前、俺のと同じ奴でいいか?」
「あ、でしたら……私に作らせていただけませんか?」
「……一服盛る気か?」
「何でそうなるんですか!? 違いますよ、私だって何かお返ししたいんです! それに幸介さん、まともな食事してないでしょ!」
ずばり図星である。
自炊なんてろくにしたことが無いし、洗い物をするのも面倒くさい。
だから近くのコンビニにある弁当だけでいつも食事を済ませていた。
「他人に食生活とか指図される筋合いなんてねーしいいだろ別に」
「いーや駄目です! ここは私が作ります! 泊まらせてもらうんですからこれくらいさせてください! 冷蔵庫を見せてもらいますね!」
強引に押し切られ、天崎が台所へと入っていく。
ほとんど食材など入っていない、ただの冷えた箱と化した冷蔵庫の中へ手を伸ばす。
取り出したのは卵二つ、青ネギにこの前買ったサラダチキンだ。
「あ、お米ってあります?」
「レンジで温めるやつならあるけど」
「それで充分です! 30分くらいかかりますけど、それまでテレビでも眺めて待っててください!」
そう言って彼女はまな板と包丁を取り出し、本当に料理を始めだした。
いや冷静に考えてみればなんだこの状況は。
初対面の女に自殺を止められ、何故か家まで押し入られて夕飯を作ってもらっている。
どうしてこうなった?
「何か手伝う事は……」
「いいです! この前までお仕事でお疲れだったんでしょう? だったらここは私に任せてゆっくり休んでてください!」
立ち上がることも許されず促されるままにテレビをつける。
ありふれたバラエティ番組が流れている中、台所から流れこんでくる鼻歌がやけに響いた。
最近の曲では無さそうだ。
なんだか合唱曲に近い感じがする。
「はい、卵粥です。熱いので気を付けて食べてくださいね」
「……何でお粥?」
本当に彼女は20分ほどで料理を持ってきた。
二人分のお粥から立ち上る白い湯気が照明の中へと吸い込まれていく。
「疲れている時は温かいものが丁度いいんです。お粥は胃にも優しいですし、心にも沁みるんですよ」
「はぁ、よく分からん。とりあえず食べていいって事だよな?」
「その前に」
「何だよ」
「合掌をしましょう。食べ物やそれを作った方、そして神様への感謝を忘れないように」
「……もしかして新興宗教の勧誘とかじゃないだろうな?」
「違いますー! 私はちゃんとしてます! ほら、ごちゃごちゃ言わずに両手を合わせてください!」
「分かったよ、合わせりゃいいんでしょ?」
「よし! それでは……いただきます!!」
「……いただきます」
スプーンで軽く皿の中を掬う。
見た目は至って普通のお粥だ。
まぁ毒が入っていたとしても、別にいい。
どうせ今日死ぬ身だったのだし。
ためらいもなく、俺はスプーンを口の中に入れた。
「どうですか、味は?」
「……うまい」
瞬間、口の中に温かみが広がった。
味は塩が少しきいたただのお粥なはずなのに。
どうしてだか、人肌のような温かみがそこにはあった。
「それは良かったです」
にこりと笑みを浮かべる彼女に、少しだけ胸が高鳴ったのは内緒の話だ。
他人の前で料理にがっつく様子を見せるのは恥ずかしかったため、少しずつ味わいながらお粥を口へ運ぶ。
食べ終わるころには温かさが全身へと広がっていた。
「うまかった」
「褒めるより先に『ごちそうさま』、ですよ?」
「……ごちそうさまでした」
「はい、おそまつさまでした。食器洗っておくのでお風呂に入っててください」
「いや、流石にそこまで全部やらせるわけには」
「いいんです、私がやりたくてやってることですから! はい、ちゃちゃっと入ってちゃちゃっと寝る!」
母親か何かかこいつは。
されるがままに風呂に向かっていく俺も俺で大概な気もするけども。
そして9時を回ったころには、後は寝るだけの状態となっていた。
当然布団は一人分しかないから天崎に譲って自分は床で寝る事にした。
彼女も中々譲らなかったが、流石にそこまでやらせるのはまずい気がしたのだ。
「電気、切りますね」
天崎の声に生返事をする。
明かりが消えた部屋の中は、ほとんど何も見えない。
役目を終えた電球がうっすらと見えるのみである。
―――あの時飛び降りていれば、俺の視界はこうなっていたのだろうか。
だったら眠りと死に大きな差などなく。
どうして俺は今生きているのだろうかと、重くなりゆく瞼を閉じながらぼんやりと思った。
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