第13話 真実の価値

 温かなものに包まれるのを感じて、碧燿へきようはそっと目を開けた。我が身に何が起きたのか、焼き印を見た藍熾らんしが何を言うかのかと訝りながら。──そして、後悔した。目の前の状況が、あまりに訳が分からなかったから。


「何でも良い。を隠す布か何か──うむ、それで良い」


 宦官に命じる藍熾の低い声が、彼女の身体に響く。水を何度も浴びてなお、炎にあぶられ熱を帯びた肌に、絹のひやりとした感触が心地良い。問題は、その上質な絹を纏うのが皇帝その人であるということ。碧燿は、藍熾にしっかりと抱き寄せられているということだ。


(……なぜ!?)


 心の中で絶叫するうちに、肩にふわりと布がかけられた。火事の現場でのこと、何かしら防火の加工が施されたものなのかもしれない。とにかく──これで、碧燿は衆目に肌を晒さずに済んだ。──もしかしたら、この方は彼女を庇ってくれたのだろうか。


「あの」

「これで見えぬだろうから、その中で服を脱いでおけ」


 礼を言うべきか、意図を問うても良いものか。分からないまま口を開いたところ、なけなしの女心を踏み躙る命令がくだされて、碧燿は押し黙った。布一枚隔てただけで裸になって抱かれていろ、とは無体にもほどがある。──けれど、夜の闇の中でいっそう深い青の目には、有無を言わせぬ圧が宿っていた。


(皇帝陛下のご命令なら仕方ない……?)


 無言のまま、そして火傷の痛みに歯を食いしばりながら、碧燿はごそごそと焼け焦げた衣服を脱ぎ落とした。その間、藍熾は彼女を腕に抱いたままの格好で宦官たちに次々と命令をくだす。碧燿などいないかのような振る舞いは、ある意味気楽ではあった。そして、乱を乗り越えて玉座に就いただけあって、采配のお手並みは見事なものだな、などと思う。


義兄様にいさまはこういう方だからお仕えしているのかな?)


 そんなとりとめもない考えで、羞恥と痛みを誤魔化して──そして、碧燿の足もとに無惨な衣装の残骸が積もり切ったころ、藍熾はようやく彼女を見下ろした。


「……淑真しゅくしんから聞いた。お前は、もとは巴公はこう氏の娘だと。は、何ごとだ」

「……淑真? どなたでしょうか」

貴妃きひだ」


 目線の動きで焼き印を示されたのに気付きながら、碧燿は質問に質問を返すという非礼を犯してしまった。けれど藍熾は苛立つことなく、端的に答えてくれる。整った眉が寄せられたから、一瞬どきりとするけれど──彼女への不快を表したのではないことは、続けた言葉からすぐに分かった。


「お前が芳林ほうりん殿に行って戻らぬから心配だと言われた。そこへこの火事の報せだ。忠臣の子をこのようなことで死なせてはならぬ、と」

「そう、でしたか……」


 どうやら、藍熾もそうとうに焦っていたのではないか、という様子だった。どうしてわざわざ皇帝自ら、という疑問の答えも得られて、碧燿は溜息を吐く。


(陛下を動かせるなんて。名で呼ばれているなんて。あの方はやっぱりとても特別な存在なんだ……)


 貴妃あのかたは、碧燿のことを意外と気にしてくださったらしい。己の短気さ幼稚さに頭を抱えたあの一幕があったからこそ、彼女は助かったのだと、言えるだろうか。そう──それに。


(陛下も、父様をご存知だった。忠臣と言ってくださった)


 嬉しいのか誇らしいのか、悲しみが蘇ったのか──胸に渦巻く感情に押し流されるように、碧燿の唇から言葉が溢れる。


「あの……父は、罪人として死を賜りました。ですからその妻子も罪人ということになりました。私の、この髪と目の色は母譲りで──物珍しさゆえに、共に官奴かんどとして後宮に収められました」

「母親は、健在なのか」

「心痛と心労もありましたので、すぐに……でも、あの、誰とも知れぬ者に下げ渡されるよりは良かったかも、と思いますが」


 官奴かんどとは、文字通りに公の奴隷。だから家畜のように焼き印を押されるし、見た目が良かったり芸があったりすれば、珍しい鸚鵡オウムていどには扱われる。そして、物のように売買されたり、褒章として下賜されたりすることもある。美しい女などは真っ先にその対象になる。母を看取みとれただけ、碧燿は幸運だったのだろう。


「母は、間に合いませんでしたが──義父は実父と交際がありましたので、先の太后に賄賂を積んで、我が身を買い戻してくださいました」


 白鷺はくろ貴妃に告げた時にはざっくりと省略した碧燿の出自は、そういうことだった。


 本来は、何代にも渡って奴隷の身に甘んじなければ父祖の罪はそそがれぬところ、金の力でどうにかしたのだ。あの女怪の不興を買う危険を犯してまでその対価を払ってくれた義父には、感謝してもしきれない。……そこまでしてくれたのは、亡き実父との友情ゆえで、碧燿を案じているというのも嘘ではないのは知っている。それでも言われるがままに女の幸せとやらを享受する気になれないのは、完全に碧燿のほうが悪い。


義父様とうさま義兄様にいさまも、さぞ驚き嘆かれるでしょうね……)


 胸に過ぎった忸怩じくじたる想いを読み取ったように、藍熾がぼそりと呟いた。


「その経緯があって振る舞うのは、賢いとは呼べぬと思う」

「そうでしょうか」


 初対面の時の、皇帝への非礼のことか、綬帯じゅたいの件できょう充媛さいえんに詰め寄った時のことか。今のこの事態だけでも、もっともな感想ではあるのだろうけれど。それでも碧燿は首を振り、微笑んだ。


「父を見て、私は知ったのです。真実とは、命を懸けなければ無価値なものなのだと」


 藍熾が目を瞠るのを見て、皇帝を直視している非礼を思い出した。けれど、まあ今さらだろう。火傷がもたらす熱と、心の奥底を打ち明ける高揚に浮かされたように、碧燿の舌は止まらない。


「父が訴えたこと──先帝はとうにしいされていたことは、誰もが知っていたことでしょう。けれど、誰もが黙っていた。父が死を賜るまで、おおやけでは語られることさえなかったのです」


 碧燿を見下ろすことで陰になっているからか、あるいは火が収まりつつあるからか、藍熾の表情はよく見えない。ただ、深い色の目がたたえる疑わしげな感情は、分かった。


「命と引き換えにしてまでも? 真実を明かし、記すとは、そこまで──」

「大事なこと、必要なことです。父があって私がいるように、正しい行いは誰かが必ず受け継ぐでしょう」


 少なくとも、命を惜しんだ者からは敬意を払われる。白鷺はくろ貴妃が、碧燿の救出を皇帝に願ったように。碧燿は、父の名声によって命を拾ったのだ。

 形ばかりは愛を語らう男女のように、碧燿は藍熾の胸に縋って訴える。


「だから命を惜しんではならないのです。その死が理不尽であればあるほど、真実はより輝くのですから。だから、私も──」

「そのくらいにしておけ。目つきも顔色もおかしいぞ」


 けれど。斬りつける口調で遮られて、言葉を途切れさせる。気圧されたというか、物理的に喋ることができなかった。碧燿の口を塞いだ藍熾の掌は大きく硬く、義兄のそれを思い出させる。自ら剣を取って戦う者の手だった。


「お前は、俺を諫言を容れぬ愚帝に仕立てようとしていたのだな。僭越せんえつ極まりない」


 剣呑けんのんに細まった深い青の目が、間近に迫る。睫毛が触れ合うのではないかという近さで、皇帝の怒りが伝わってくる。


(そんなことを言われても……)


 そういえば、碧燿は死を与える側の立場や心情を考えたことはなかった。だって、考えるだけ無駄だろう。尊い方々というのは権力を振りかざし理を曲げ、無理を通しては下々を苦しめるものだ。父を殺した、あるいは見殺しにした者たちを慮ることなんてできはしない。


 でも──ひとからげにして決めつけることもまた、真実から目を背けることになる、だろうか。少なくとも、碧燿は今、犠牲に陶酔していた。真実を記すことではなく、その行いに殉じることをよろこんでいた。それが歪んだ考えなのは、分かる。藍熾の目には、さぞ異様に映ったであろうことも。


「諫言が耳に痛いことくらいは承知している。それをあえて述べる者が貴重なことも。殺すような無駄は犯すものか。惜しいからな」

「損得の問題なのですか……?」


 ようやく口が解放されたので尋ねてみると、藍熾は迷わず大きく頷いた。


「今の夏天かてんに余裕はないのだぞ。使えるものは、使う」

「さようでございますか」


 不遜な相槌に、藍熾がまた顔を顰めた。叱責される前に、碧燿は素早く口を開いた。


「では、御言葉に甘えてお耳に痛いことを申し上げます。白鷺はくろ貴妃様のことについて──何を言っても、殺されはしないと考えてよろしいでしょうか」


 皇帝に言質を強請ねだる図々しさにか、貴妃のの真実を知る不安にか、藍熾の腕に力がこもった。結果、鍛えた体躯に抱き寄せられることになって、碧燿の身体は火傷とはかかわりなく熱くなる。はしたない姿でずいぶん長く身体を触れ合わせていることを意識してしまうと、もう平静ではいられなかった。


「殺さぬ。……だが、何か分かったのか? もう?」

「恐らく、ですが。貴妃様にも伺いながら申し述べたいと思います」


 俯いて、身体に巻き付けた布を握りしめて、碧燿は疑わしげな下問に答えた。これは羞恥ゆえであって、自信のなさの表われではないのだけれど、果たして分かってもらえるかどうか。


(たぶん……。陛下にも貴妃様にもお辛いことになるけど)


 それでも、真実を覆い隠したままにしてはならない。碧燿はそのようにしか生きられない。彼女に追及を命じた以上、皇帝には付き合ってもらわなければ。


 碧燿ふぜいに案じられていることなど知らない藍熾が、頷く気配が身体に伝わった。


「良いだろう。お前の傷が少しは落ち着くまで待ってやる」

「恐れ入ります」


 呟くと、碧燿はそっと目を閉じた。休息と休養の時間を与えてもらえるのは願ってもない。全身がいまだ炎の中にいるかのように熱い。体力も気力も、限界に近づきつつあるのは明らかだった。

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