第11話 真実を解き明かす

 広大な後宮を駆け、芳林ほうりん殿に辿り着いた碧燿へきようは、乱れた息を整えながら宮女きゅうじょげじょの出入りを慎重に窺った。殿舎の主であるきょう充媛じゅうえんへの取次は、まったく頭にない。それどころか、彼女はかの佳人に気取られる前に桃児と接触しなければならないと考えていた。


「──桃児とうじさんはどこですか!?」

「あ、貴女……?」

巫馬ふば碧燿へきようです。彤史とうしの!」


 どこかへの遣いの帰りだろうか、折よく、ひとりで通りすがった宮女を捕まえて、碧燿は息せき切って尋ねた。相手が戸惑う表情を見て、もどかしい思いで名乗ると、その宮女は目を丸くして彼女の頭のてっぺんからつま先までをしげしげと凝視した。


彤史とうし……え、……?」


 不審もあらわな視線に、ようやく自分の格好を思い出す。先日、綬帯じゅたいの返却にこの殿舎を訪ねた時は、碧燿はいつもの男装姿だった。貴妃の殿舎に詰めるために、歴とした侍女さながらにした今だと、同一人物だと結びつかないのも無理はない。しかもその瀟洒しょうしゃな格好で、髪を乱し額に汗を浮かべているのだから、怪しさは倍増だろう。


事情がありまして、姿が変わっておりますが。私のことはどうでも良い、桃児さんに急用なんです」

「え、ええ──良く分からないけど、それなら……?」


 言葉に納得した訳ではなく、単に碧燿の勢いに気圧されただけではあるだろう。それでも、首を傾げながらもその侍女は頷き、彼女を殿舎の中に通してくれた。


      * * *


 後宮の殿舎は、ひとつひとつが塀や庭園でほかの建物と隔てられている。主である妃嬪ひひんが治める、小さな国とでも呼ぶべき閉ざされた空間で、それぞれに異なった雰囲気があるものだ。そんな、きょう充媛じゅうえんの領域に踏み込むことへの不安はあったけれど、小国の住人を、その境界の外に呼び出すことこそ不審極まりないからしかたない。


 芳林ほうりん殿の建物の陰に入る裏庭の片隅にて、息苦しい緊張の中で待つことしばし──先の宮女きゅうじょに言付けを託した人の姿がようやく現れた時、碧燿はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


桃児とうじさん──


 最初にかける言葉は、走りながら考え抜いたものだった。多くは語らず、けれど碧燿へきようが思いついてしまった仮説が当たっているかの、手掛かりが得られるように。怪訝な顔をしてくれれば、まだ良い。それなら彼女の思い付きは的外れなものだったことになる。でも──


「あ──」


 ただでさえ不安げに、辺りを見渡しながらやってきた桃児は、明らかに青褪めて絶句し、あまつさえがくがくと震え始めた。事態に心当たりがあると、察するには十分だった。


(やっぱり……)


 まさか、で見過ごさなかったのは正解だったのだろう。でも、厄介なことが起きていると確定してしまったのを喜ぶ気にはなれなかった。緊張が重く腹の底にこごるのを感じながら、碧燿は唇に人差し指をあて、声を潜めた。


「お静かに。何があったか──想像はしておりますが、確証はございませんし、ここで語ることもできません」


 言われるがまま、桃児は無言でこくこくと首を頷かせた。大声を出して人に──きょう充媛じゅうえんに気付かれることの危険は、彼女が誰より恐れていることだろう。獄を出たところで改めて見れば、女主人にも似た整った顔立ちをしているというのに、それが怯え引き攣っているのが痛々しい。


「詳しくお話を伺いたいです。私……今は紫霓しげい殿におりますので。ええと……そう、書簡の整理の手伝いとでもいうことにしましょう。充媛じゅうえん様には、後で私からご連絡します」

「た、助けて……くれるのですか……? あの、私、とんでもないことを──」


(静かにって言ってるのに……!)


 桃児は、決して声を高めた訳ではない。でも、今言わなくても良いことだった。問答を長引かせるより、早くここを出たいというのに。


(……ダメ。言うだけ話が長くなる)


 相手を怯えさせては、余計にややこしいことになる。危険も増える。焦りも苛立ちも押し隠すべく、碧燿は深く息を吸って、吐き、努めて笑顔を保とうとした。


「……貴女が望んでしたことではないのだろうと思います。事情をしかるべき筋に申し述べるためにも、一刻も──」


 早く、と言いながら、碧燿は桃児の手を取った。──取ろうと、した。けれど叶わなかった。


(──え?)


 ただでさえ陰に入ってほの暗い視界に、一段と濃い影が落ちた。それを訝しんだのも一瞬のこと、後頭部に強い衝撃を感じて、碧燿はその場に崩れ落ちた。薄れ行く意識の中、桃児がぽつり、と漏らした呟きが耳に届く。


「……ごめんなさい」


 碧燿はああ、と嘆息した。あるいは、そのつもりになっただけかもしれないけれど。


 彼女が思っていた以上に、桃児は女主人を恐れていた。危険を承知していてなお、隠し事をするなど思いもよらないほどに。この宮女は、碧燿からの呼び出しを姜充媛じゅうえんに言いつけてから現れたのだ。


      * * *


 覚醒した瞬間に、目眩と吐き気に見舞われて、碧燿へきようは低く呻いた。最悪の気分は、頭の内外から響く痛みと、手足に施されたいましめに気付くと、さらに加速する。どうやら彼女は、縛られて床に転がされているらしい。


(私……殴られて──)


 桃児とうじは、彼女の注意を引き付ける役だったのだ。あの宮女きゅうじょと話している間に、背後から忍び寄ったに、思い切り頭を殴られた。

 その犯人は──と、そこまで考えたところで、碧燿は目の前に揺れる、見事な捺染なっせんを施したスカートにやっと気付いた。ずきずきとする頭の傷の痛みに耐えながら顔を上げると、見覚えのある美しいおもてが、憎々しげな嘲笑を浮かべて見下ろしていた。


きょう充媛じゅうえん様……」

「余計な真似はしないでちょうだいと、言ったでしょうに」


 以前は玉を触れ合わせるよう、と思った玲瓏たる声も、今はひたすら碧燿の頭痛をいや増すだけだった。傷に響くというよりも、声に込められた悪意の強さと鋭さが、彼女の心を抉るようだった。


「罪ある者を追及するのが、余計な真似だとは思いませんでしたので」

「盗まれてなどのよ。……ねえ、どうして、どこまで気付いたの?」


 辛うじて憎まれ口めいたことを返すと、さやかな衣擦れが響いて、充媛じゅうえんが碧燿の顔の傍に膝を突いた。


(惚けたほうが良い……?)


 何も気付いていない、と──でも、言ったところで信じられないだろう、とすぐに考え直す。卑賎の役職とはいえ、巫馬ふば家の養女を殴ったのが露見すればただでは済まないのは、この女も分かっているはず。この質問は口封じの前にできるだけ情報を引き出そう、という意図だろう。ならば、碧燿には時間稼ぎしながら活路を探ることしかできない。


(ここは──芳林ほうりん殿の中? 私が走っていたのを、誰か不審に思ってくれないかな。貴妃様は──私が消えたほうが嬉しいかもしれないけど)


 妃嬪ひひんの住まいに相応しい豪奢な調度を見れば、敵の手中に捕らわれたことを思い知らされてしまう。暗澹とした気分に落とされながら、それでも碧燿は口を開いた。


「……芳林ほうりん殿の記録を調べたところ、貴女様が召された夜から鳳凰ほうおう騒ぎがあった日──綬帯じゅたいが盗まれるまでに、来客は


 そもそもの切っ掛けは、そこだった。綬帯を盗むことができた者が、いないことになってしまうから。とはいえ、本当にで高価な綬帯がカラスに攫われた、なんて信じられない。だから、動機と犯人が別に存在するのだろう、と考えたのだ。


「後宮においては、誰かのお召しは大きな話題ですのに、不審だと思いました。それで──次は、尚薬司しょうやくしの、調薬の履歴に当たったのです。客を受け入れられない理由があったのだろうか、使用人に伝染すうつる病の者でも出たのか、と」


 後宮では、あらゆる部署がそれぞれに記録をつけているものだ。付き合わせて検証しようという変わり者が滅多に出ないだけで、記録は──真実は、常に淡々と積み上げられている。

 碧燿が告げようとしている内容に、もう心当たりがあるのだろう。姜充媛じゅうえんの滑らかな頬が、軽く引き攣った。美しいけれど色褪せているのは、思えば白鷺はくろ貴妃と同じ、後ろめたさによるものだったのだろうか。


「夜伽にはべったはずの日に、貴女様に当帰とうき芍薬しゃくやくさんが処方されていました」


 当帰とうき芍薬しゃくやくさんは、月経痛に広く使われるごく一般的な薬だ。それ自体は何ということもない。ただ、処方された患者と時機が、決定的に不可解だった。何がどう、というのは──もはや口にする必要はないだろう。


「あちこち調べ回ったものね。気持ち悪い」

、一度に調べられる状況だったのです。……まあ、そうでなくてもいずれ確かめようとしていたでしょうが」


 碧燿が疑問を検証することができたのは、同輩の彤史とうしたちが職務に忠実に記録を残してくれたからだ。けれど姜充媛じゅうえんにその矜持を説いても無駄なのは明らかだったから、碧燿は罵倒を軽く流して続けることにした。


「月の障りに当たっていたと申告すれば、夜伽の役はほかの方に移っていたことでしょう。不可抗力、自然の理であって、何も悪いことではございませんが──」

「そんなことができるはずないでしょう!? わたくしたちはなんて待っていられないのよ……!」


 考えていた通りの内容の絶叫に、碧燿は顔を顰めた。痛む頭が揺さぶられる苦しみもあったし、巡り合わせの悪さを、その悲痛や絶望を黙って受け入れたであろう数多の妃嬪を思い遣ってのことでもあった。


「……だから、貴女様は桃児さんを身代わりに仕立てた。背丈や顔が、少しでも似ている人を選んだのでしょう。夜の閨で、白紗はくしゃ越しでは細かな姿が陛下の御目に入ることはないと、白鷺はくろ貴妃きひ様のもとに出入りしていた貴女様ならご存知だったはず」


 獄の中で桃児は言っていた。姜充媛じゅうえんを恨まない、と。あれは、真犯人を告発しない主人を、という意味ではなかった。口封じのために冤罪を着せられても、という意味だった。だから、黙っているから命だけは、という話になったのだ。


 綬帯を盗んだ犯人が、という姜充媛じゅうえんの発言も、そこだけは真実だ。なぜなら、彼女は桃児を罰する口実のために宝物を投げ捨てたのだろうから。

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