哀しみ鎮魂歌
紅藤あらん
序
ある建物の奥底に、それはあった。
黒い背表紙の本。元はちゃんと本棚に入っていたのだろう。しかし今、その場所は空き、書物は無残に床に落ちていた。
本はまるで何かを指し示すかのようにあるページを開いていた。その中身はこう綴られている。
昔この世とあの世で戦があった。
その争いは長い年月を要し、全ての者が疲れ切った最後、彼らはあの世とこの世を繋ぐ場所で血で血を洗った。
そこには、二神を祀る像があった。
争いの真っ只中、その像は崩れ落ちた。
「祈りを叶えぬ神など要らぬ」
誰が最初に手を伸ばしたのか。
戦に信仰心はなく、あるのは自身の欲望のみ。
崩壊は容易く、人々に愛された二神は現世の形を失う。
粉塵の舞う、血と死臭の中、人々は自らの行いに恐れ慄いた。
地を震わす、低い声。
祈りはもう届かない、懺悔は聴かない。
像から飛び出したのはこの世の全ての怨みを集めた禍々しい光。
地に轟く声に人間の魂は委縮した。
【……憎イ……醜イ……ニンゲン……殺シテヤル……殺シテヤル!!】
叫びに命を刈り取られる人々は、その瞳を閉じる時、もう一つの光を見た。
それは全てを赦し癒す光だった。
【私が再来する時、この世界は光に包まれるでしょう】
そう、それぞれは言い残し、天へと消えた……――
不自然な風がページを撫で、本は目次まで戻る。
と、誰かが落ちていることに気づき、その本を手に取った。パタンと背表紙が旋律を奏でる。
目線を宙に浮かせ、本棚の空白個所を見つけ本を埋めた。
本から指が離れ、その者は部屋を後にする。鍵の閉まる音が薄暗い部屋に反響する。
全てはここから始まっていたのかもしれない。
禍々しい光が天から降りてくる。
不気味とも綺麗ともとれる色合いは、それがここに存在してはいけないことを本能的に告げるものだった。
それは地に着く直前、霧となり霧散した。中から現れたのは人の形を模したモノ。
そのモノはぐるりと周りを見回し、口元に妖しい笑みを浮かべた。
「こんにちは」
モノの前には中年の男がいた。彼は何が起きたのか解らないという様に目を見開いている。
モノが近づく。男の耳元で優しく囁く……つもりだった。『さようなら』と。
しかしその言葉は音にならず、喉元で止まった。舌打ちが男の耳元で憎悪を孕ませながら響く。
(邪魔をするな)
顔を醜く歪ませ、服を翻しながら、今まさに降りてくるものを睨んだ。
モノと同じように、光が地に近づく。
違うのは本物の禍々しい光だった。
周囲に光の欠片をまき散らし、そしてそれは地表すれすれで破裂した。中からモノと同じように人が現れる。
「……アハハハハハハハハ」
モノはその姿を見た瞬間、不気味に笑い出した。
光から生まれた者はモノの姿に心を痛めたが、その感情を切り捨て、睨んだ。
「ハハハハハ……ハ」
モノは笑いを一瞬で止め、虚ろな瞳で者を睨む。口は怪しく歪んでいて不気味で、モノの姿を更に恐怖の塊としていた。
間近で見ていた男は悲鳴を上げ、人間とは思えぬ二体から逃げ出した。
モノはその姿を虚空の瞳で見つめ、聞こえよがしに舌打ちをする。刈り取るのは容易だった。赤をまき散らしたその姿はどれほど甘美で心満たされるだろう。人間などただ醜い者なのだ。せめて、散り際は派手に、美しく。
醜く、死ね。
憎悪に支配されたモノの脳裏にあの時の情景が蘇る。死体と死臭、血と肉。ひとつの哀しみ。
モノは操り人形の糸が切れたかのように、がっくりと項垂れた。髪の間から見える眼球の光は殺気溢れている。喉の奥から吐き出された言葉は、呪いと悲鳴を帯びていた。
「…………あぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!」
モノの喉から絶叫が迸った。
背後で黒い霧が噴き出し、それは凝縮して背に翼を生やす。ゆっくりと上がった指先が者を捉えた。
者は目を眇めると、手を前に突き出す。
人間が踏み込んではいけない領域の力が二人の間で渦巻き、ぶつかり合った。
後にはどちらも残らなかった……。
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