4. 八月旧盆、チェイサーグラス(6)


 「行かないで……」

 樹が、唇どうしが触れるか触れないかという位置で、小さな声で言う。心臓に刺さるような切実な声だった。

 (先生は、誰に言ってるんだ……)

 その切実さに応えてあげたい気持ちで、樹の顔を間近で見つめる。樹の軽く眉根を寄せてわずかに伏し目がちで揺れる瞳が、切なかった。慶は樹の唇を軽く舐めた。樹は安心したように、目を閉じて、口を少し開けた。小鳥が親鳥から餌をもらうのを待つみたいだな、と慶は思いながら、もう一度、舌で樹の唇を舐めた。

 樹は、目を閉じたまま慶の舌を追うように口を開けて、舌の先を吸った。

 ちゅ、と小さな水音がした瞬間に、慶は下半身に激しく血が流れ込むのを感じた。樹の表情と仕草から目が離せなかった。

 慶が樹の唇の間に舌を差し込むと、樹は一心に舌を吸い、自分の舌を絡めてきた。樹の震える睫毛、上気する肌、切実な腕、微かな息遣い、身じろぎといったものに、慶は正気を失いそうだった。下半身が痛いほど張り詰める。

 「先生……」

 慶は喘ぐように唇を離して、息をついた。

 「先生、オレ」

 樹の腕は、今度はゆるやかに解かれて、落ちていく。前のめりになった慶の心臓の拍動を無視して。樹は完全に寝落ちしていた。

「先生……」

 はああ、と慶は、詰めていた息を深く吐いて、くず折れそうになった。

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