第70話 再会の厨房

「おはようございます」


 次の日、あたしはカフェとして運営している、あたしは関わる事がない職場に入る。

 カウンターでは一人の従業員が作業していた。俯きがちで顔がよく見えない。けど、その人物が誰であるかは、あたしにはよくわかった。

 聞いていた通りだ。夕方、彼女はここにいる。その人物の名を呼ぶ事に少し恥じらいを覚え、


「先輩」


 と呼ぶに止めた。


「おはよう、大橋さん」


 その人物、すなわち先輩が顔を上げる。あたしはその横顔にしばし見惚れ、彼女は不思議そうに首を傾げる。


「どうかした?」


 その仕草は、ある種のギャップを演出して彼女を魅力的に見せる。クールなイメージの彼女から繰り出される、キュートな動作はそれだけで人を殺せるほどだ。


「あ、いえなんでも」


 その無意識のナイフに耐え、あたしはカウンターの奥、バックヤードの入り口に手をかけた。


「そういえば、昨日途中で返信こなくなりましたけど、何かありました?」


 それから、気になっていた事を訊いてみる。


「なにか……いえ、特に何もなかったわ。ちょっと急用思い出しただけよ。ごめんなさい、既読無視する形になって」


 申し訳なさそうに先輩が謝る。


「大丈夫ですよ。ちょっと心配しましたけど、無事なら」


 その言葉に嘘が混ぜ込まれている事をあたしは認める。その嘘は、ちょっと心配したの部分で、実際はちょっとがすごくに置き換えられるべきだ。

 それはさておいて。

 先輩の申し訳なさそうな顔は見たくない。前職のことを思い出すから。


「そうだ、コーヒー飲む? 深夜大変でしょ。奢るわよ」

「あー、じゃあ頂きます」


 先輩はカウンターに置かれている伝票にサラサラ、とメニューを書き込んでいく。それから、


「そこのカウンターに座ってて。すぐ出すわ」


 あたしは言われるままにカウンタから出て、カウンター席に座る。

 ここからだとカウンターの中がよく見える。カウンターの中にはいくつかのお酒のボトルがあり、スナックで提供するのだけれど、その全てを把握できる気がしない。

 先輩はバックヤードに行く。おそらくは後ろにある厨房──スナックの時は使わない──に伝票を渡しに行ったのだろう。

 先輩はすぐに戻ってきた。


「最近どう?」

「まぁ、ぼちぼちですよ」


 のんびりとした時の中で、あたしたちは会話する。


「深夜はちょっと大変ですけど、きっとすぐに慣れます。先輩は?」

「こっちは平穏無事ね。ここは居心地がいいわ」


 心なしか、先輩の表情も明るい。だいぶ回復したようで、一安心。


「繁盛しているみたいですね」


 横目で店内を観察する。一通り落ち着いてはいるらしいが、それなりに繁盛している。会社員が多いのは、上の会社から降りてきているからだろう。


「うーん、そうねぇ。繁盛しているかどうかで言えば、今は少し落ち着いているわ」

「そうなんですか?」

「昼時は入れ替わり立ち替わりだから。今いるのは、ここで仕事をしている人たちね。気分転換なのかも……と、コーヒー取ってくるわね」


 先輩がバックヤードに移動し、あたしはぼんやりと客層を観察する。テーブルに書類を広げていたり、ノートパソコンを開いていたりする。


「はい、お待たせ」


 コーヒーがあたしの前に置かれ、先輩が微笑む。先輩が淹れてくれたコーヒーじゃないのが残念だ。


「いただきます」


 けど、先輩が運んでくれたコーヒーだ。大切にいただかなければ。

 啜ると、口の中に苦味が広がる。それから、ふんわりとフルーティーな香り。


「うん、美味しい」


 いや、コーヒーの良し悪しは正味わからないのだけど。


「先輩は……あぁ、なんでもないです」


 ぼんやりとした質問を飲み込む。何を訊こうとしたのかも不明瞭で、それが何なのかを今のあたしにはわからない。

 まぁ、つまり。先輩のことを見つめていたら、頭がぼぅっとしてきたのだ。

 時間が緩やかに溶けて行く。あたしは先輩のことを見つめているだけで満足なのだった。




「よーっす。どう、みーたん上がる?」


 五時ちょっと前になって、乃亜ちゃんがカフェに入ってくる。


「っと、来てたんだ。早いね、かなちゃん」


 と、乃亜ちゃんがあたしに目を向ける。


「上がるわ、夕凪さん」


 と先輩が呼ぶと、乃亜ちゃんは露骨に不満げな表情をして、


「乃亜って呼んでって言ってんじゃん」


 大橋さんはそれを無視し、


「エリナちゃんとはちょっと時間ずらしたいから、先上がっていい?」

「それはいいけど、どうかした?」

「ちょっとね」


 という会話が目の前で繰り広げられる。

 エリナ、が例のえっちゃんだろうか。そういえば、会ったことないなぁと思う。挨拶をするべきか。

 そう思っていると、


「ほら、かなちゃんの好きな先輩ってあの人でしょ? 一緒に行ってきなよ」


 と乃亜ちゃんに耳打ちされた。あたしは立ち上がって、先輩について行く。


「あら、もういいの? せっかくだしもっとゆっくりしていればいいのに」


 と、こっちの気を知らない先輩はそう問いかける。


「いいんです。あとは事務所でのんびりしてますから」

「そう、ならいいけど……っと、私着替えるから」


 事務所に入ると、先輩は一人で更衣室に入って行く。その瞬間、何かとてつもなく大きな感情を抱いた目をしていたような気がして、だけどあたしにはそれが何かはわからなかった。

 着替えにどれほどの時間がかかるのかはわからない。が、手持ち無沙汰ではある。なので──。


「じゃあ、先輩。キッチンの子に挨拶してきますね」


 とだけ伝えて事務所を出る。


「失礼しまーす」

「あら、大橋さん。おはよう」

「おはようございます、店長」


 キッチンでは店長が洗い物をしていた。


「どうしたの?」

「その、キッチンの人にも挨拶しておこうと思って」

「なるほど、ちょっと待ってて。エリナちゃん。大橋さんが挨拶したいって」


 キッチンの奥の方で、何やら作業をしているらしい少女に、店長が声をかける。

 ……見覚えのある後ろ姿だな、とぼんやり思う。少女が振り返り、あたしはその瞬間に既視感の正体を知る。


「大橋さん? あー、と。スナックの。はじめまして、松本エリナで──」

「嘘、なんで……」


 あたしの顔から表情が抜け落ちていく錯覚。想像していなかった再会に、理性のタガが外れそう。


「なんでアンタがここにいんのよ」


 思考より先に、口が動く。肺から声帯に空気が移動し、声帯が空気を振動させる。口の中で音の振動は形を変えて、あたしの意思を伝えようとした。


!」

「大橋、さん……同じだとは思っていたけど、まさかかな子おねーさんだったなんて」


 あたしの言葉に、エリーはたじろぐ。

 まさか、エリーが先輩の同居人なのか。彼女は先輩を誑かして、いいように利用しているのだろう。

 この女を排斥しなければ。あたしは感情のままに言葉を叫ぶ。


「聞いたよ。先輩と一緒に暮らしているんでしょ、言ったよね、先輩に粉かけるなって。やめてよ、今すぐ先輩から離れてよ!」


 ちょっと、大橋さん! と店長が止めに入る。そこであたしは、初めて自分が腕を振りかぶっていることに気がついた。腕が掴まれ、エリーを殴れない事を認める。


「えっ、と……」


 エリーは、自分が置かれた立ち位置を理解していないのか、間抜けな声を出す。


「今すぐ先輩のところから出て行ってよ!」

「……そんな事言われても……住んでいいって言ったのは澪おねーさんだし……」


 弱々しい声で、エリーが呟く。

 どうして彼女なんだろう。どうして先輩の隣に、同じ家にいるのがあたしじゃないんだろう。

 肩で息をする。どうすればいいのかがわかんなくなって、それでもエリーに先輩を取られたくないという感情があたしの全てになる。

 エリーから引き離される。感情のままに色々叫んで、あたしは自分が何を言ったのかもわからない。

 そうする間にも、冷静な部分は一つの選択を導き出す。


「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」


 あたしはフラフラとホールに戻り、


「ちょ、どうしたのかなちゃん。大きな声を出して」


 心配そうな顔の乃亜ちゃんが出迎える。あぁ、ちょうどいい。

 あたしは乃亜ちゃんに対峙する。そして、


「あたしは先輩が欲しい。乃亜ちゃんはエリー……えっちゃんが欲しい。協力して、乃亜ちゃん」


 そう告げたのだった。

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