第23話 助けて
『助けて』
その三文字を見た瞬間、思考が凍結した。
誰かが、私に助けを求めている。それはいい、問題はその誰かが、エリナだという事。
「先輩?」
「ごめん急用ができた!」
財布から一万円札を数枚取り出して、半ば叩きつけるように机に置く。
それから靴を履き、
「それだけあったら足りるでしょう? いきなりでゴメンだけど、取り返しがつかなくなるから」
それと同時に早口で捲し立てる。呼び止める声を無視して、狭い店内を走って──。
「すみません、あの個室なんですけど、会計は連れにお願いしてます」
店員にそう告げてお店を出る。
走りながらチャットを飛ばす。
『今どこ?』
既読はつくけど、返答はない。
痛む脇腹を無視して、駅まで全力。不安で、チラチラとチャットを見る。
肩に衝撃。誰かにぶつかったらしい。
「おい、危ねえぞ!」
「すみません、急いでいるので!」
振り向かず、言葉だけを返す。
ICカードを改札にかざして、ホームに。目の前で電車が発車し、次は十五分後。
「──っ」
もどかしい。一分一秒が、それこそ無限に等しい時間に感じられる。
チラリとチャットを見る。返信はまだない。
「エリナちゃん……早まらないでよ……」
アナウンスも、喧騒も、全ての音が遠くになっていく。心臓は壊れて、結界したダムのように血流を送り続けている。
いつか取り返しがつかない事になる。それはわかっていた。わかっていたけど、まさかこんなにも早いとは。
ピコン、とチャットが来る。
『橋』
とだけ送られてきた。
橋、まさか。嫌な予感がする。
『すぐ行くから』
慌てて返信を返す。既読はついたけど、彼女からの返信は来なかった。
スマホ上部の時計を見る。あれからまだ五分と経っていない。
他のホームに来る電車の、甲高い停車音が耳に障る。その度にイライラして、私は柱に頭を打ちつける。
なにもできない。今の私には、なにも。電車は来ない。電車が来なければ、私はエリナの所に行けない。
ギリ、と歯の奥がなる。あまりに無力な私自身に、やり場のない怒りを覚えていた。
「早くしてよ……」
一瞬、橋から落ちるエリナを想像する。アルコールで緩んだ思考が、その最悪を作り出してしまって、吐き気がする。
「早く、早く……」
この時間が、早く終わればいいのに。そう願いながら、他ホームの残響を聞く。
そうして、どれほどの時が経ったのか。
『まもなく、二番線に列車が参ります──』
その言葉が唐突に響く。待っていた、この時を。
まるでずっと待っていたかのような錯覚。時間にしてわずか十五分。その十五分は、あまりにも長かった──。
ホームに滑り込む電車。最寄駅に着いた車両の、無機質な扉から飛び出す。階段を駆け上がり、改札にICカードをタッチして出る。駅舎を駆け抜けて、階段を降りる。
駅前はロータリーになっている。その先はわずかな下り坂。繁華街に続くため、それなりの人通り。その隙間を縫うように走る。
「は、ぁ。はぁ、は」
足がもつれる。転ぶ。打ちつけた腕が痛い。
立ち上がる。痛みは無視できる。足首を痛めたらしいが、このぐらいなら許容範囲だ。
思考は冷静に、感情は荒ぶっている。自分の体は思考と切り離され、動くなと警告する思考を無視して、感情が体を前に進ませる。
橋まではせいぜい二百メートルとかそこら。そこを全力で駆ければ、三分とかからない。
「は、あ。はぁ、はぁ」
肩で息をしながら、私は橋までたどり着く。
「エリナ、ちゃん……」
暗くて見つけられない。そこまで横幅のない橋の歩道は、人でごった返していた。
「く……エリナちゃん!」
人混みに向かって叫ぶ。ピクリ、と橋に寄りかかっていた人影が反応する。
いつもの学生服は破かれ、首には手形が残っている。目は焦点が合わず、泣き腫らしたように赤い。化粧が涙で落とされ、線になっていた。
彼女は虚な表情のまま、こちらに振り返る。
「……良かった」
それでも、生きてる。それでもここにいるという事実は、ひとまずの安心を私にくれた。だから小声でつぶやいた。
だが、しかし。この状態は酷い。明らかに、襲われた後の状態だ。
周囲の人々は彼女を一瞥するだけで、誰も助けようとはしなかった。そりゃあ、明らかに面倒ごとを抱え込んでいるから。
「澪、おねーさん?」
エリナはこちらを見ていない。虚な目は向けられているけれど、その心は死んでいた。
「エリナ、ちゃん……」
彼女の素顔を見たいと、作っていない表情を見たいとは思っていた。けど、私はこんなに辛そうな彼女の素顔が見たかったわけじゃない。
エリナはゆっくりと目を閉じて、それから切り替えるように笑顔を作った。
「どうしたの、澪おねーさん」
本当に、なんでもないかのように彼女は笑い、いつものようにそう訊いてくる。
なんて、歪な笑顔なんだろう。営業用の笑顔の、一割だって笑えていない。明らかに無理して笑っているのがわかる。
「ちょっと、本当にどうしたの、そんな怖い顔して。あ、もしかして怒ってる?」
怒っているか、だって? そりゃあ怒っている。彼女を襲った奴を今すぐ殺したいぐらいには。
「もー、あれぐらい軽い悪戯じゃん。そんなに怒らないで──」
「笑わないで」
一歩、踏み出す。
「無理に、笑わないで」
彼女の前に。
「そんな笑顔、私は見たくない」
優しく、その頭を抱き寄せる。
「──え?」
「無理に笑うのはやめて」
エリナの頭に手を添える。
「それは、あなたの苦しみを癒してはくれないわ」
彼女は少しの間沈黙する。その間、私は彼女を抱きしめたままだった。
いつかの再現。それは、立場を入れ替えた初日の再現だった。
「……なかった」
不意に、エリナが言った。
「こんな事してまで、生き続けたくなかった!」
呟きは叫びに、慟哭に変わっていく。
それは初めて触れた、彼女のむき出しの心。彼女の本心。
こんな形で、彼女の本心に触れたくはなかった。心底そう思う。
「生きている意味もないのに生き続けて、誰にも頼れない、こんな人生なら生まれてこなければよかった!」
彼女はまだ子供だ。そんな彼女からこんな言葉が出てくるなんて。
私はどれほど愚かだったのだろう。こんな彼女に支えを求めて、彼女の心はまるっきり無視していたのだ。
「……話したいことがあるのなら聞くし、そばにいて欲しいのならそうする。頼る相手がいないなら、私を頼って。だからお願い……そんなこと言わないで」
だから今度は、私が支えになる番だ。
「……いいの、本当に?」
「いいわよ、もちろん」
「……ありがと」
「とりあえず、場所変えない? ここだと寒いし」
「……うん。じゃあ橋の下に……テントがあるから……」
「わかったわ」
エリナの手を取る。震えていて、小さい手だった。
橋のすぐ横に階段があり、そこから河川敷に移動できる。そこにはいつか見た小さいテントが張ってあった。
……まさか、ここに住んでいるとか言わないわよね?
そう思いながら、テントに近づいていく。エリナは手慣れた様子でテントの扉を開けた。どうやら本当にここが住処らしい。
「……ちょっと長い話になるけど、いい?」
「いいわよ。時間はたっぷりあるもの」
それに、ずっともたれ掛かってばかりじゃどっちが大人かわからないもの。
私はテントの中に入る。
今度は私が助ける番だ。
──Memory one【The Beginning】 END
──Next memory preview
明かされるエリナの過去。
支払わされた売春の代償。
澪の提案。
そして、二人の今が動き出す。
「私と、一緒に──」
──Next Memory【The Second】
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