09話 夢の続きの荒野
1
よく見る夢の中に、シグリオはいた。
遠い日の夢だ。
今よりもずっと背丈が小さかった。目に映る腕は短く、握った剣は信じられないほどに太く見える。ボロボロの袖についた血は自分のもののようには思えない量で、もしもそれが本当のことだとしたらあまり長くは生きていられないのではないか、と漠然とした不安を覚える。
冷たい土の上。初めて〈影獣〉を斬った日。
明けない夜の夢。
夢の中ではいつも、誰を助けたのかを覚えていない。どうして戦い始めたのかも。代わりにいつも、永遠のような時間を過ごしている間に遠くから足音が聞こえてくる。
生まれてこの方見たことがないような、立派な服を着た人。
手を伸ばせば空に届いてしまうのではないか、というくらいに背が大きい。彼はその足で不毛の大地を踏みしめる。血の跡に目を落とすことだってしないまま歩みを進めて、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
いつもシグリオは、そこから動かずにいる。
だから彼はいつも、目の前までやってくる。
何かを話している。音のない夢だから、何を言っているかはわからない。けれど必ず最後の言葉だけははっきりと、音でも文字でもない何かとして、頭の中に流れ込んでくる。
――――ああ、君にしよう。
2
もう一度目を覚ますことがあるなんて思っていなかったから、瞼の動きに自分で驚いた。
異様に明るい。眉間に皺が寄る。屋敷の天井だ、と思う。けれど自室のものでもなければ、仮眠室のものでもない。一体自分はどうしてここにいるのか。ずっと昔のことは夢の続きとして思い出せるのに、ここに眠る直前のことは上手く記憶として繋がってくれない。
起き上がって周囲を見れば、思い出すだろうか。
けれどこういうときに動くと痛い目を見ることは経験則でわかっている。気が進まない――なんて、思っていると。
先に、匂いがした。
「お目覚めのようですね。少年」
次に声がしたから、そこに誰がいるのかを確信した。
身体を起こさないまま、横目だけで顔を窺う。視線の動きには痛みが生じなかったことに安心しつつ、視界に映った顔はまさに確信したとおりの人だから、身体が無暗に強張りそうになる。
夢の続きの人だった。
直前の記憶が、ようやくそこで繋がった。
「聖女様は、」
「では、先に良い報せから。三の従基に対する儀式はひとまず完了し、聖女様はご無事です」
安堵の息を吐いた。
肺にもとりあえずのところ問題はないらしい。そのこともついでに、確認できる。
「中庭にいた面々もかなりの怪我人が出ましたが、今のところ死者はありません。教会の尽力のおかげですね」
これはその教会の皆さんから預かったお手紙です、と。
枕元、視界の外に何かが置かれる。そこに置かれても、とシグリオは思うが、目、肺と来て段々と自分の身体の状態もわかってきた。少しくらいなら動かしても問題ない。『教会の尽力』。
死ぬかと思ったが、死ななかった。
まだ、戦える。
「実際に話しての感触から、多くは応援と感謝の内容だとは思いますが、当然私の方で勝手に中身を見たりはしていません。中にはお叱りの言葉もあると思いますが、読むも読まないも、お好きなようにどうぞ」
「あれから、どのくらい経ちましたか」
「二週間。さらに良い報せを伝えて安心させてあげましょう。君の部下は皆優秀で、次の儀式に向けての準備も当初の計画通りに進んでいます。ひとまず、そのことに関して問題はありません」
二ヶ月、と言われなかったことに心の底からほっとした。
無為に床に伏して二週間を過ごしたのは間違いなく痛手ではあるが、まだ取り返せる。ベッドに手を突く。ふ、と力を入れて、痛みを抑え込んで、上体を起こす。問題ない、と思った。この程度であれば、今日からでも動き出せる。
「君は年々、たわけた頑丈さになりますね。内臓も破裂していたとのことですから、もう少し傷を刺激しないように寝ていた方がいいと思いますが」
「いえ。どうせすぐに動き出さなければなりませんから。明らかに状況は悪化しています。最後の儀式に向けて、万全の体制を――」
「次は悪い報せですよ」
びた、と。
血液が凍るような思いがした。
この人は――フランタール辺境伯は、決して弱音を吐かない人だから。少なくとも彼の下に就いて十年、そんな場面をシグリオは見たことがない。けれどそんな彼がじっと、あの優しげな、けれど威厳のある瞳で、こちらを見定めるようにして、
「〈光玉・エルニマ〉の解析結果が出ました。今回の〈光継式〉で我々は、短期的には『非常に良くなる』か『非常に悪くなる』かの二択を迫られた形になります」
残念ながら、と言う。
どちらの選択にも多大なるリスクが伴うのですが、と。
3
もう一度同じことをすれば命はないものと思え、と言われた。
こんなに人から怒られるのも悲しまれるのも初めてだ、という剣幕で。
こんなに頑張ったのにとか、じゃあどうすればよかったんだろうとか、そういうことを抜きにしてアルセアは素直に頷いた。あのとき自分がしたことが、それがもたらす結果がどういうものなのか、それに怒りや悲しみを覚えることがどういうことなのか、もうわかっていたから。
包帯を巻いた指に、そっと手を添える。
考えることは山ほどあるようで、本当のところたったひとつしかないような気がした。
まだ、中央聖堂への移動はしていなかった。最後の儀式はあの場所――〈聖女選定の儀〉が行われた始まりの塔で行われると知っていたけれど、あれから二週間が経って、いまだにアルセアは大陸の南、フランタール辺境伯の本邸に留まっている。
理由は三つ。ひとつは単純に、アルセアの体調が酷く、長距離の移動は控えるべきとされたから。もうひとつも同じく、先の儀式で瀕死の重傷を負った聖騎士が目覚めておらず、たとえアルセアの体調が万全だったとしても、中央聖堂付近での滞在先の調整が不十分だったから。
三つ目。
ここで旅を終わりにする選択肢が、あったから。
「はい」
すぐにノックの音に立ち上がったのは、実のところ何か、自分を動かすだけの理由を欲しがっていたからなのかもしれない。
内鍵のある部屋だ。扉の前に立って、スコープから外を覗く。護衛の横に、知っている顔。焦っているような、慌てているような様子。少し躊躇ってから、鍵を開ける。
「どうされましたか」
「若が――聖騎士シグリオ・フランタールが、目を覚ましました」
一息に、アルセアは。
自分の心が格段に軽くなったのを感じた。
「そうですか! よかった……」
「ええ、聖女様のおかげです! それで、どうもすでに会話にも問題ないようですから。よろしければご面会の手筈を整えさせていただければと思うのですが、いかがでしょうか」
それは、と戸惑いが先に出る。
「大丈夫でしょうか。起きたばかりということなら、まだもう少し休まれていた方が良いのでは」
「それはそうなんですが、」
ちらり、と目の前の彼――筆頭付き人のニカは、周囲を窺った。護衛は何も言わないで自分の両耳を手で塞ぐ。内緒の話だろうか。そう思ったからアルセアが少し近付けば、彼は口元に手を当てて、小さな声で、
「気絶される直前まで、聖女様のことを気にされていたんです。だから聖女様のお顔を早く見た方が、かえって気が休まるかな、と……」
「お前いくらなんでもその言いぐさは聖女様に失礼だろ」
「うわあ! 何聞き耳立ててんだ君!」
勢いよく護衛と揉め始めるニカを見て、アルセアは呆気に取られる。それから、ふ、と自然に笑いが洩れた。
「そういうことでしたら、ぜひ。連れて行ってください、ニカさん」
「は、はい! ……すみません。さっきのは決して聖女様を軽んじるとか、そういうことではなくてですね……」
先を行く彼の後を、わかっていますよ、と応えながら追う。誤解するところはひとつもなかった。彼がシグリオを気遣っていること。そして同じく、自分にもその気遣いを分けてくれていること。その両方がわかったから。
病み上がりの自分のために、ゆっくりと歩いてくれているのがわかる。
けれど本当のところアルセアは、もっと早く歩きたかった。早く顔を見たかった。
儀式を中止するか、一か八かで続けるかの決断なんて、きっと決まっていて。
ただそれを分かち合える人に、会いたかった。
3
「……儀式は、続行します」
全てを聞いて、まず最初にシグリオが口にしたのはその言葉だった。
どれだけ長い時間が経っただろう。そう思うけれど、まとめてみれば辺境伯が話した内容はほんの短い、ごく簡潔なものだったようにも感じる。
この〈光継式〉に現れている異常は、〈光玉・エルニマ〉の経年劣化によるものではない。むしろ経年『発達』とすら呼ぶべき現象によって引き起こされている。
〈光玉・エルニマ〉は、千年の間〈魔法層〉からの魔力供給を受け続けたことで、賢者ロディエスが設計した当初より遥かに強大な出力を持つようになった。
光が眩ければ、影も濃くなる。
人類の盾となる光の結界が皮肉にも、その調律の隙間を食い破るほどに強靭な影の獣を生み出した、と。
「中止によって得られるメリットがありません」
きっぱりと、シグリオは言った。
「これ以上儀式を進めなければ大きな破綻は避けられると言いますが、それは現状維持ですらない。衰退の容認です。〈光継式〉を完遂しない限り、時間は常に〈影獣〉の味方をします。百年か、ひょっとすると十年で我々の住むこの大陸は、」
「君の言うことはもっともです」
遮るように、辺境伯は言う。
けれど口を噤んだシグリオは思う。初めに相手の意見を遮ったのは、どちらだったか。
「ですが、それを言うのであればデメリットに目を向けることもしなければ。一か八かで〈光継式〉を完遂させる。それによって〈光玉・エルニマ〉が『完成』し、出力量は非常に高い値で安定。今後は調律すらも不要になり、〈影獣〉の恐怖から人々は大いに解放される――では、その一か八かが失敗すれば?」
「…………」
「よくわかっているようですね」
もちろん、想像できないわけがない。
自分とほとんど刺し違えるようにして倒れたあの巨大な〈影獣〉。もしも〈光継式〉が失敗し、今よりも〈光玉・エルニマ〉の力が悪い方向に作用することになれば、あんなものが平然と地上を闊歩するようになる可能性だってあるのだ。
「時間が常に〈影獣〉の味方をするとは限りませんよ。君の言う十年が、人類にとって最後の切り札になるかもしれない。あらゆる延命治療には、何の意味もないと思いますか?」
言葉に、シグリオは考え込む。本当に目の前の彼が言うとおりだろうか? あるいは、自分が考えているとおりだろうか。直感的には、全ての答えは決まっているように思える。
けれど、
「君は賢い人ですが、時にその鋭すぎる勇気が思慮を斬り捨ててしまう。そうすぐに決めるようなことではないと私は思いますが、君はどうですか」
「そう……ですね。それに、私の一存で決めることでもありません。国の意向も照会しなくては」
意見が合ったようで何よりです、と。
辺境伯は、見慣れた薄い笑みを浮かべて頷いた。
「さて、それでは私はこれで。いくら頑丈とは言っても、もう少し休んでいなさい。聖騎士の仕事も、今の状況ですから。多少私が代わっても文句は言われないでしょう」
それから彼は席を立つ。お忙しいところを、とシグリオは別れの挨拶を告げようとしたが、それより先に彼が続ける。
「次のお客様の方が、よほど私より重要な方ですからね」
ぐ、と辺境伯が戸を引くと、そこにいた。
「あ――」
「ど、どうも」
アルセア。
彼女が、そこに。
二、三。毒にも薬にもならないような言葉を入り口のふたりは交わした。すれ違う。扉が閉じる。ついさっきまで辺境伯が腰掛けていた椅子に、彼女が座る。
座ったままだから立って挨拶を、とか。
それができないならまずは一言断りを、とか。
そういう『辺境伯の跡継ぎ』として当たり前のことが、けれどそのとき、頭に浮かばなかった。
事前に話は聞いていたけれど、それでも。
「ご無事、でしたか」
いざ目の前にして、そのことに。
目が覚めてもまだ、彼女がそこにいてくれたことに、胸がいっぱいになってしまったから。
はい、と彼女は笑った。不思議なくらいに美しい笑みだった。まるで、何の心配事もないかのように。それからふと、出会った当初であれば決して見せなかったような気遣わしげな表情に変わって、
「そちらはあまり……まだ伏せていた方がいいんじゃありませんか。私は気にしませんから」
お気になさらず。反射的にその声はついて出て、けれど口に出すべき言葉はもっと多いように思えたから、付け加える。
「本当に、この姿勢でも辛くはないんです。むしろ身体を動かすときの方が。許していただけるなら、このまま話をさせてもらえませんか」
そういうことでしたら、と素直にアルセアは受け取ってくれる。それでも自分の今の姿は彼女の目にはどう映っているのだろう、心配は続いた。お加減は。痛みは。何かしてほしいことは。流石に最後の質問に素直に答えて聖女様に看護してもらうのも気が引ける。視線が泳ぐ。
気付いた。
「聖女様、その指は……」
え、とそれで気付いたかのようにアルセアが自分の手を見る。ああ、と頷いて胸の前に掲げる。
「折れました」
あのヴァイオリンを奏でていた手指を、あっさりと。
「痛みはもうないんです。あ、と言っても神経が死んでいるとか、そういうわけではなくて。単純にある程度くっついて、ぐらつかなくなって」
「そう、ですか」
「はい。綺麗に折れたから後遺症も残らないんじゃないかということで。あれだけ荒れた儀式ですから。大したことはなくてよかったです」
ええ、とはシグリオは頷けない。
儀式の直前まで演奏を続けていた彼女だ。本当にこうして目の前で語る通りに指の骨折が『大したことはなくてよかった』ことなのか、判断がつかない。
だからなのか。
その続きまで、彼女は容易く口にしてしまう。
「もしかしたら、最後の儀式の前には完治しているかもしれません」
わかっていたことではあった。
だからなおさら、シグリオはこうやって言葉を繋げるしかない。
「……確かに、」
いつもの笑顔を、貼り付けて。
「そうなれば良いですね。少しでも不安要素は取り除いておきたいですから」
「はい。痛みがなければ集中の妨げにはならないと思うんですが、もしものことがありますし。南の聖堂で治療に当たってくださった方が、すごく丁寧に処置してくださったおかげです」
「私も以前、左手の治療を南の聖堂でしてもらったことがありますよ」
「そうなんですか? 奇遇……と言っていいのか」
「あまり嬉しくない奇遇ではありますね」
はは、と彼女と一緒になって微笑みながら。
シグリオは、思っている。
初めから彼女に、選択肢などない。
儀式を中止したとして、彼女はそれからどうやってこの大陸で生きていけるというのだろう?
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