第一章・発端 #3
橋の上から落ちた男の身元は意外と早く割れた。
川の近くのマンションに住む35歳の会社員で、妻と2歳になる子供が一人いた。
騒ぎがあった日、男は体調を崩し欠勤していることが分かった。夫婦共働き。夫の様子は少し前から変だった…と妻は話した。
「仕事のストレスなのか…眠れないと話していて」
異変を感じた時から遡って、彼女は淡々と語った。
「夜中に突然、誰かが部屋にいるって騒いで。最初は寝ぼけているのかと思ったけど、昼間に職場でも常に誰かに見られてるって…」
「以前からそいうことは?」
野崎の質問に「いいえ」と妻は答えた。
「結婚する前も、した後も…そんなことは一度も」
そう答えて、疲れたように俯いた。
「ストレスが疑われるから、職場の産業医と面談したようですが…ストレスで幻覚や幻聴が聞こえるものでしょうか?」
「医療機関への受診は?」
あの日行くはずでした…と言って妻は顔を覆った。
「私も付き添えばよかった——」
野崎と白石は、「辛いな…」と呟いて部屋を出た。
「遺体からは薬もアルコールも出ていない。素面の状態で発狂して飛び降りた…原因はストレス?」
「ストレスで幻覚見るなら、俺たち全員見てる」
それは言えてる…と白石は苦笑した。
「でも極度のストレスを抱えてて、自殺願望を抱くようになっていた…って考えれば、無理な話じゃない」
廊下を歩きながら野崎は続けた。
「自分で自分を追い詰めた。傍から見れば異様な光景だけど、そもそも追い詰められて死を選ぶ人間はまともな思考状態じゃない」
「錯乱して転落…ってことはやっぱり自殺か?」
「残された人は辛いだろうけどね…」
あの動画を見て彼女はどう思っただろう。2歳の子を抱えて、これから生きていかなければいけないのに。
せめてそっとしておいてやりたい、と野崎は思った。
「そういえば、駅の被害者の身元がようやく割れたな」
野崎はそう言うと、刑事課の部屋に戻って机の資料を手に取った。
「
防犯カメラの感じでは、もう少し高齢の雰囲気だったが。
身元捜査が難航したのは、男がホームレス状態で住まいを転々としていたからだった。
もしかしたら中本では?という問い合わせがあったのが、騒ぎから一か月以上経ってから。市内ではなく、別の市のホームレス支援団体からの問い合わせだ。
「去年の11月に勤めていた派遣先を切られ、市内のアパートを出てる。そこから職に就けず河川敷や公園を転々。支援団体の炊き出しに顔を見せたりしてたけど、顔見知りができるほどじゃなくて孤立してた」
「アパートの大家に確認したら中本に間違いないって確認が取れた。人身事故の事は知ってたけど、それが中本だとは思わなかったらしい。よっぽど印象の薄い男だったのかな?」
白石は男の顔写真を見た。確かに、これといった特徴はない。瘦せていて、やや前髪が薄くなった感じはあるものの、どこにでもいそうな普通の中年男性だ。
家賃を滞納したり、問題を起こしたりしていれば記憶にも残るだろうが、中本はそういうタイプではなく、非常に真面目で大人しい男だったようだ。
「仕事を失くして、住む場所も失って…自暴自棄にでもなってたのかな?」
「薬物やアルコールも検出されず…確かに今回の橋の被害者と似てるな」
こんな短いスパンで、ストレスによる幻覚で自殺——なんてこと、あるだろうか?
それに…
野崎にはどうしても気になる点があった。
それは、二人とも何かに追われて逃げるような素振りをしている事だ。
(彼らには、何か見えていたのでは?)
でも…何が?
カメラには何も映っていない。男が一人、錯乱して飛び込んでいるだけだ。被害者二人が知り合いだという事実もない。
「結局、自殺ってことで片づけるのかな?」
「それ以外に何かあるなら知りたいよ」
野崎はそう言うと自分のスマホを取り出して、チラリと画面を見た。
メッセージが一件入っている。
「どうした?」
白石に聞かれてスマホの画面を見せる。
「例の先生が会いたいって」
「ははぁ」
白石も意味ありげに頷くと、「レイの先生ね」と笑った。
「いいんじゃない。何か参考になる話、聞かせてくれるかもしれないぜ」
翌日。
駅近くのファミレスで、野崎は人を待っていた。
彼と会うのは、実に一年ぶりだ。
そういえば…前回は何の件で会っていたんだっけ?
そんなことを取り留めもなく考えていると、「やぁ、元気そうだね」と背後から声をかけられて、野崎は振り返った。
「先生、お久しぶりです」
野崎は笑顔で立ち上がると、神原に軽く会釈をした。
そんなにかしこまらなくていいよ、というように神原は笑って手を振ると、「忙しいのに呼び出してすまないね」と詫びた。
「いえ、こちらこそ…すっかりご無沙汰してしまって」
向かいの席に神原をいざなって、二人は腰を下ろした。
平日の昼下がり。店内は比較的空いていた。
二人は飲み物を注文すると、改めて挨拶を交わした。
「先生は相変わらず忙しそうですね」
「ジッとしてるとボケてしまうからね。女房から、動け動けと命じられているのさ」
その台詞に野崎は笑った。
「お陰でボケてはないよ、今のところね」
「あはは」
「君はどうだ?相変わらず忙しいのかな」
「まぁ…そうですね。暇になることはないですよ」
「そうか。忙しいのは良い事だ」
——と言いたいところだが、と神原は言って野崎を見た。
「君の場合、忙しくない方が世の中が平和な証拠だ。なんとも皮肉だな」
野崎は苦笑した。
注文したコーヒーがテーブルに置かれる。それを一口飲んでから、野崎は言った。
「でも、お元気そうで何よりです」
「いやいやいや」と、神原は首を振った。
「そう見えるだけさ。私も年を取ったよ」
そう言うと、ふぅ…と大きなため息をついた。そして目の前にいる野崎を眩しそうに見つめる。
神原には一つの思惑があった。
「私も今年で70になるよ。古希ってやつだな」
「もうそんなになりますか?早いですね…ついこの間、還暦祝いをしたような気が」
「光陰矢の如し。そういう君は幾つになった?」
「俺ですか?もう45ですよ」
そう言って野崎は頭をかいた。
「そうか…」
出会った頃は大学生だったが、今はもう40代半ばか。
あの頃のような若さゆえの勢いはないが、その落ち着いた風貌は、積み重ねてきた経験が作ったものだろう。
世間一般では中間管理職世代。それなりの役職も付いて、部下もいる。
気力も体力も——おそらく今が一番脂が乗っている時だ。
(そう。今の彼なら…)
神原はなんとなく嬉しくなり、かつての教え子の精悍な顔を眺めて言った。
「前回、君とこうして会ったのはいつだったかな?」
「あぁ…ええっと——確か去年」
「ビルから飛び降りた男がいたね」
あ…と野崎は思い出した。
男が、建屋の5階から落ちて死んだ事案があった。あれも確か自殺と判断したと思ったが——
その時に、なにか引っかかるものがあった事を、野崎は同時に思い出した。
それを神原に指摘された事も。
『もう少し詳しく調べた方がいい』と助言された。
結局、事件性はないと判断され、遺族も自殺と納得したのでそれ以上深掘りすることはなかったが。
「思い出した…今思えば、あれも不思議な事件だった」
「男の直前の様子を見ていた目撃証言を覚えているかい?」
野崎は当時の目撃証言を思い出していた。
『何か混乱して、慌てているようだった』
男と同じ職場で働いていた同僚たちの証言だった。
『怯えて逃げるように窓から飛び降りた』
「逃げるように…飛び降りた———」
そう呟いてじっと考え込む。
その様子を、神原は黙って見つめた。
野崎は、なぜ今指摘されるまでそれを忘れていたのだろう、と眉間を寄せた。
あの時も感じた違和感。
野崎は神原に言った。
「先生には、なにか分かってるんですか?」
そう聞かれ、神原は思わず声を出して笑った。
「おいおい、私に分かるわけないだろう」
「でもあの時指摘されました。もっと詳しく調べろって…まさか、今回の件と何か繋がりが——?」
「それは判断できないよ。ただなんとなくそう感じるだけさ」
そう言うと、少し寂しげに微笑んだ。
「野崎…私ももう年だ。昔のような力はないよ」
「——」
「以前ならハッキリと感じられたことも、最近では曖昧だ。まぁ…これでようやく人並みに穏やかな生活をすることができるんだがね」
「…先生」
「仕方がないさ。老いていくことは誰にも止められない」
そう言うと、徐に身を乗り出して言った。
「実は君に紹介したい男がいる」
神原は鞄の中からノートパソコンを取り出すと、慣れた手つきで立ち上げて、画面を野崎の方へ向けた。
「最近では紙媒体ではなくて、こういう電子版としても出しているんだ。時代の流れだな。私は紙の方が好きなんだがね」
「俺もですよ」
そう言って、神原の出版社サイトに掲載されているオカルト雑誌の一部に目をやった。
「彼はもう7,8年前から、うちの雑誌にコラムを書いている。いつか君に紹介したいと思っていたが、どうもタイミングが分からなくてね」
「タイミング?」
コラム欄の隅に、ライターの近影が載っている。その顔を見て「学生ですか?」と野崎は聞いた。
「これは少し前の写真だが、今もあまり変わらないな。年は確か…39って言ってたかな?」
「39?!」
野崎は驚いた。学生みたいな顔をしている。
「なかなか男前だろう?」
その台詞には思わず苦笑した。
「見合い写真なら第一印象は合格でしょうけど…まさか目的はそれですか?」
「あはは、まさか」
神原は笑うと、「まぁ…宇佐美君は独身だから、誰か良い人がいたら紹介してやってくれ」と冗談交じりに言った後、少し声のトーンを落とした。
「彼には不思議な力がある」
「…」
野崎はじっと神原を見た。その目を見て神原は頷きながら、「分かっているよ」と言った。
「君がそういう力を信じていないことは」
「先生…俺は」
「でも君は私を否定せず、信頼してくれた」
「…」
「
野崎は黙っていた。
「否定はするが、相手の意見も尊重する。もしかしたら…と思えば、それを納得するまで調べる」
「…」
「君と議論するのが一番楽しかったよ」
野崎は嬉しそうに笑った。当時の自分はまだ血気盛んで、相手に食ってかかることも多かったが、神原との対話はとても理性的で知性に溢れていて楽しかった。
それでも、神原の持つ第六感的な能力を完全には肯定できなかった。
刑事として捜査に当たるようになっても、神原とは接点を持っていたが、その力に100%頼ることはなかった。
「不思議な力っていうのは…先生と同じような力ってことですか?」
神原は静かに微笑んで言った。
「野崎…彼は本物だよ——」
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