9 怖
「あの、事情がわからないんですけど」
わたしが再び口を挟むのと芹沢館長の言葉に岡田笙が口を閉ざすのが同時。
「そうじゃな」
芹沢館長から、その言葉が出るまで数秒かかる。
「早水さんも無関係なわけじゃなし……」
続けてそう言うが、わたしには意味がわからない。
「笙も、そのつもりだったのだろう」
「オレは自分の心に正直に従ったまでです」
「そうか」
また沈黙が訪れる。
けれどもそれは長く続かず、
「早水さんは鈴に会ってみたいかな……」
芹沢館長がわたしに問う。
「はい、喜んで……」
わたしは即答したが、親に連れられていった居酒屋の店員みたいだと言い終わってから思う。
「では、こちらへ」
芹沢館長が一つ先の展示室に進む。
わたしと岡田笙が無言で従う。
だが、そこに鈴さんはいない。
最初の展示室と同じで四枚の絵が飾られているだけだ。
当然のように、わたしは絵に興味を惹かれるが我慢する。
そういった雰囲気ではなかったからだ。
芹沢館長が二番目の展示室を通り抜け、次の展示室に向かう。
三つ目の展示室の向かって右側の壁にドアがあり、閉ざされている。
ドアの中央に『彫刻』の文字が見える。
芹沢館長には四つ目の展示室に至る向かう仕草がない。
彫刻と記されたドアの前に立ち、瞬時躊躇う。
だが次の瞬間ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。
彫刻展示室から漏れた照明の色は青で緑。
そこに時折白色が混じる。
照明は静止せず、たゆとうている。
つまり常にユラユラと動き、定まらない。
芹沢館長がさらに広くドアを開け、展示室内に入る。
わたしと岡田笙が後に続く。
青くて緑の照明の中心に彫刻がある。
実際の肌は白いのだろうが、照明で青く緑の肌となり揺れる。
時に白色光に浮き上がる小さな顔が吃驚するほどきれい。
まるで、この世のものではないようだ。
「何これ、凄い……」
思わず、わたしが口にする。
もちろん自分では気づいていない。
「凄くきれい……でも、怖い」
それがわたしの正直な感想。
他の言葉が思いつかない。
いや、好きで且つ怖いと咄嗟に浮かぶ。
わたしの脳裡をその言葉が流れて行く。
展示室にあった彫刻は人型で、縮尺もパーツ比率も人型で誇張はない。
人種は日本人だろうが、どこか外国の血が混じっているようにも思える。
表現されたのはマーメイドだが、海に棲む海水魚(鹹水魚)ではなく川や湖または池に棲む淡水魚にしか思えない。
ひたすら美しいのだが、どうしたわけか、それがわたしには怖い。
迫力に気圧されたといえば、それまでだが、得体の知れない尋常ならざるパワーがわたしの心を絶え間なく不安定領域に誘うのだ。
「どうじゃな、早水さんの作品に対する見解は……」
思わず彫刻に見蕩れ、作品に一歩近づいた、わたしの背後から芹沢館長が問う。
「美しいか、それとも正気の沙汰ではないか……」
「正気の沙汰ではなくても、これだけ完成されていれば美しいのではないでしょうか」
「早水さんも疑問形のようじゃな」
「凄すぎて、わたしレベルでは批評ができません」
「うむ、それでは質問の仕方を変えよう」
芹沢館長が口調を変える。
僅かに苛立っているようだ。
「早水さんはこれが好きか、あるいはそうではないか」
「好きです。それだけは間違いありません。わたしにできるのならば作りたい」
「なるほど、作りたいか……。早水さんは創作系なんじゃな」
「他人の評価は知りません。ですが自分ではいつでも素晴らしいモノを、と心がけています」
「鈴の仲間じゃよ。わしとは違う」
「でも怖いです」
「ほう、どういう意味じゃ」
「わたしに、これ――もちろんこれと同じ手法で同じモノを作るという意味ではありませんが――に匹敵するような何かが作れたとして、完成した時点で作品に魂を奪われそうで……」
「何故、そう思う」
「済みません。ご説明できません」
けれども、その本質がわたしの喉元まで出かかっている。
だが、それを表す言葉がない。
もちろんわたしが知らないだけだろうが、それに当て嵌まる概念さえ思いつけない。
「言葉は無力というわけか」
すると芹沢館長がわたしの心の中を垣間見たように呟く。
芹沢館長の言葉を、わたしが反芻していると、
「言葉が無力なのではないでしょう」
岡田笙が唐突に割って入る。
「まだ発明されていないだけ、まだそう呼ばれていないだけ、ということかもしれません」
「あるいは同じ言葉でも場や口調などによって意味が変わるか」
芹沢館長が岡田笙に問うと、
「そういうこともあるかもしれません」
岡田笙が淀まずに答える。
そのときわたしは気づくが、ずっとドアの近くに立っていたらしい。
その岡田笙が彫刻近づく気配がする。
わたしの横を通り過ぎ、直前まで辿り着くと動きを止める。
……と不意にその腕に軽く触れる。
すると彫刻の方がビクリとする。
「約束通り、オレの好きな人を連れてきたよ。だから目覚めてくれ、姉さん」
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