第四章 旅路7

「お呼びしました?」


 と扉を開けて、髪の長い女がひょっこり顔を出した。


「聞いてたの?」


「あ、いえ、盗み聞きしてたわけじゃなくて、たまたま――」


「いいわ、別に。クニークルスの聴力ならわたしたちの会話なんて筒抜けでしょうし」


 え、えっと……と髪の長い女は困った様子で首をかしげた。


「朝食は、パンとライスとどっちがいいですか? って聞きに来ただけなんですが――それとも両方にします? 昨日はどっちも平らげてましたよね?」


「僕は両方でいいよ」


「わたしはパンだけにしようかしら? 朝はそこまで大食らいじゃないのよ」


「わかりました。じゃ、そうしますね」


「台所に戻る前に、こっちの疑問に答えてほしいわ」


 シュゼットがそう言って引き止めると、髪の長い女は微苦笑を浮かべた。


「一般論ですけれど、フェーレースなら一日の移動距離は五〇〇ウィア(四三三キロ)くらいだと思いますよ。一日に疲労せず移動できる距離がそれくらいだと聞いたことがあります。もちろん個人差はあるでしょうけれど」


「人間の足なら十日以上はかかる距離ね……。ちなみにカニスだと?」


「やろうと思えば二五〇〇ウィア(二一六五キロ)は行けるとか。まぁ彼らの場合は一晩中獲物を追い回すことも多いですから、休み無しで一日中ずっと移動し続けられるんです。そりゃ桁違いの移動距離になりますよ」


「え、本当に一晩中……というか一日中ずっと動き回れるの?」


 リックは驚いた様子で眉根を寄せた。髪の長い女はほほえんだ。


「やろうと思ったら、飲まず食わずで睡眠もとらずに、ずっと走っていられるんです。一日でも二日でも。だから、もしカニスが長距離を移動しようと思ったら、きっと睡眠と休息を二日に一回にして、あとはずっと走ってるでしょうね。だからこそ圧倒的な移動距離を誇るんですよ」


「二日に一回ってそんなことできるの!?」


「あ! でもでも! 最高速度はそれほどでもないんですよ! フェーレースの最高速はカニスの三倍以上ですからね!」


 慌てたように髪の長い女はそう付け加えた。そうなの? と不思議そうに首をかしげるリックを見て、彼女は意外そうな顔をする。


「あれ……? あんまり興味なさそうですね?」


「え? うん……というか、なんで急に最高速度の話になったの?」


「いえ、その――」


 髪の長い女は困った顔でシュゼットを見た。


「カニスとフェーレースって、何かと張り合ってるらしいのよ。表立って敵対しているわけではないんだけど、対抗意識はかなり強いと聞くわ」


「なんで?」


「どちらも同じ狩猟民族だからじゃないかしら? 戦い方も正反対だし」


「フェーレースは自分の肉体のみで戦っている感じなんですよねー。武器とかもいっさい使いませんし。防具も身につけないか、動きやすい革鎧くらいで」


 髪の長い女の言葉に、シュゼットもうなずいた。


「カニスは逆に重武装なのよね。全身を分厚い金属の甲冑で包んで、ごつい剣やら槍やら振りまわして戦う。フェーレースは単独で戦うことを好み、カニスは集団で戦うことを好む――どう、見事に正反対でしょ?」


 シュゼットが笑って問いかけた。リックは目をぱちくりさせる。


「確かにそうみたいだけど――でも、狩りの獲物はかぶってないんだよね?」


「そっちはかぶってないわ。でも変異種……特に呪言種に関してはそうでもないのよ」


 シュゼットは人差し指を立てた。


「フェーレースもカニスも、狩りの邪魔になるって理由で、よく変異種退治をしているの。で、呪術を使う変異種――つまり強大な力を持つ呪言種を仕留めたものは、栄誉ある戦士として讃えられるのよ。フェーレースなら豪腕の戦士、カニスなら練達の戦士隊、だったかしら?」


 確認するようにシュゼットは髪の長い女を見た。


「はい、そのとおりです。呪言石を持ち帰ったフェーレースやカニスは、どちらもそういうふうに呼ばれて英雄視されますね」


「呪言石?」


「ああ、言ってなかったかしら? 呪言種を倒すと、呪言石っていうのが手に入るのよ」


 銀色をした丸い石で、大きさは鶏の卵くらいだ。


 特定の言葉を唱えると、呪術を使用できる。効果は仕留めた呪言種と同じものだ。迂闊に濫用するとすぐに壊れてしまうので、たいていの場合は大切に保管される。


 フェーレースやカニスは頑丈な宝物庫を作って、後生大事にしまい込んでいるという。


「そんなのがあるんだ。じゃあ、ひょっとしてロゼールを眠らせた――」


 言いかけてから、リックは慌てて自分の口を両手でふさいだ。シュゼットににらまれたからだ。


「ロゼール?」


 と髪の長い女は首をかしげた。


「なんでもないわ。ところで朝食はまだかしら?」


 髪の長い女は微笑を浮かべた。


「誰にでも、話したくないことはありますからね。朝食は少々お待ちください」


 彼女は笑顔で部屋から出て行った。シュゼットはほっと息をつく。


「あまり迂闊に情報を漏らすものじゃないわよ?」


「ごめんなさい……。僕らって魔女の夜会に――」


 リックはまた自分の口を両手でふさいだ。シュゼットににらまれたからだ。


「まぁこの里に本名のまま入ってしまったし、空挺手とフェーレースの組み合わせなんて目立つでしょうから、本気で警戒するなら変装して偽名を使うべきなんでしょうけれど」


「次からそうするの?」


「うーん、でも下手にそういう真似をしていると勘ぐられる危険が――というか、たぶん向こうの聴覚の鋭さを考えると、今も聞かれているでしょうし……」


 シュゼットはしばらく考えたあと、


「やっぱりこのまま行きましょうか」


「変装も偽名もなし?」


「クニークルスは争いを好まない。自分からごたごたに巻き込まれるような状況は避けるはずだわ。それにわたしたちが滞在するのは一晩だけよ。すぐに出て行くわけだから、なおのこと関わり合いにならないようにすると思う」


「なんかザルっぽい気が……。シュゼットは魔女の騎士を恐れてないの?」


「少なくとも魔術での戦闘なら勝つ自信はあるわ。向こうと違って、わたしは光石さえあれば無制限に戦い続けられるからね」


 魔女は光石なしで魔術を使える――ほかの種族にはない利点だ。


 だが、同時に重大な欠点でもある。光石が使えないということは、すなわち自前の魔力を消耗しなければ魔術が使えないことを意味する。


 魔女は長期戦に弱い。


 強力な魔術を連発したら、あっという間に魔力が枯渇してしまう。対してシュゼットたち人間は、光石さえあれば凶悪無比な魔術を遠慮なく放てるのだ。


 しかも人間なら威力の増幅までできる。


「それにリックもいるし、逃げきる自信はそれなりにあるわ」


「あんまり当てにされても……」


「自信を持ちなさい。自分の力に疑念を抱いていると、出せる実力も出せなくなるわ。それにさっきの話を鵜呑みにすれば、リックの移動距離は人間の十倍よ? 向こうはわたしたちの目的地を知らないわけだし、どこへ行ったかなんてわからないはず。加えて、こっちは移動する方向をずらしてもかまわないのだから」


 もっと言えば魔女の夜会がどの程度、躍起になっているかも現状では不明のままだ。


 リックの話を鵜呑みにすれば、単に重罪人の娘だから追っている、というだけの話になる。正直、本気になって捕らえようとしているとは思えない。


 フリーダ・ヴァノにしてもアンフィーサ・フリーダにしても、まだ存命で、大陸中を逃げまわっているはずだからだ。


 魔女はもともと数が少ない。実働部隊である魔女の騎士も人手不足と考えられる。


 何か知っているかもしれないから――という曖昧な理由だけで、わざわざ貴重な人員を割くとは思えない。


 そんなことをするくらいなら、最初から本命であるフリーダ本人やアンフィーサ本人の行方を追うだろう。


 なにせロゼールは居場所どころか連絡先すら知らないはずなのだ。


 シュゼットは当初、ロゼールがフリーダとアンフィーサの居場所を知っているのではないか、とも考えたのだが、すぐに理窟に合わないと打ち消した。


 仮にどこへ行けば会えるのか、連絡すればいいのか――これがわかっているなら、ロゼールが眠った時点でリックは助けを求めていただろう。


 魔女の夜会が一番欲しているのは、ふたりの居場所についての情報のはずだ。それを知らないロゼールたちを捕らえたところで、大した成果は得られない。


 そして、魔女の夜会がその点について思い至らないとは考えづらいのだ。


 そもそも追われた時点で、魔女の夜会は二人がフリーダかアンフィーサのどちらかと接触することを期待していたはずだ。


 ところが、実際は二人きりでの逃亡生活を開始している――魔女の夜会の目論見は外れてしまったのだ。


 となると、現在も二人を捕らえるべく人員を割いているかは……だいぶ疑問だった。


「ともかく、わたしたちはわたしたちの目的を果たしましょう」


 シュゼットは地図を片づけ始めた。


 そして、狙いすましたかのようなタイミングで髪の長い女が台車を押しながらやって来た。


「こちらで食べます? それとも地下のお部屋に?」


「朝食はランタンじゃなくて、太陽の光に照らされて食べたいわ」


「じゃ、ここに並べますね」


 ベーコンエッグにレタスとミニトマト、ヨーグルト、かぼちゃとたまねぎのポタージュ、それに焼きたてのパン……リックはこの朝食をぺろりと平らげ、さらにイカとキノコとピーマンをバターで炒めたもの、ゆでたソーセージ、アジの塩焼きまで食べていた。


 もちろん、パンだけでなくライスも頬張っている。


「今日はがんばってもらうから、できるだけ食べておいたほうがいいわ」


 シュゼットは食後のコーヒーを味わいながら言った。リックはオレンジジュースを飲みながらうなずいた。


 食事を終えたふたりは荷物をまとめると、挨拶もそこそこにクニークルスの里を出て行った。


 髪の長い女が、もう少しゆっくりしていってもいいんですよ? とさみしそうな顔をしていたが、シュゼットは先を急ぐと言って別れの挨拶を交わした。

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