第7話 屋上で


 老夫婦のパン屋『ここあ』で、私たちはそれぞれの隣の席に座る。


 私はクロワッサンとコーヒーをいただいた。城後くんは十種類のパンとオレンジジュースと野菜スープ、牛乳プリンを平らげて、満足そうにしていた。


 お昼の時間だったので、老夫婦は二人ともすごく忙しそうであった。それなのにも関わらず、終始ニヤニヤしていたように見えたのは、私の気のせいだったと思いたい。



 ******



 食事を終え、私たちは研究室に戻ってきていた。


「やっぱり美味しいね。あそこのパンは」


「そうね。とりあえずこれとこれ、それからこっちも」


 そう言って、私は城後くんに紙の束を手渡す。


「なにこれ」


「『感情不全』に関する論文や資料よ」


「こんなにあるんだね」


「マイナーな病気にしては、患者数がそれなりにいるのよ」


「なるほど」


 城後くんの質問に、私は簡単な理屈を語る。


「とりあえず全部読んでおいてくれるかしら」


 そう言って、私は席を立つ。


「熊谷さんは?」


「調合。一カ月分を終わらせてくるわ」


「了解。頑張ってね」


「ええ」


 城後くんの応援の言葉を、私は素直に受けとめる。そして、少し離れたところにある作業机に移動したのだった。


 ******


 時計を見ると、時刻は午後五時をまわっていた。だいたい四分の一程度の薬を作り終え、私は背筋を伸ばす。


 ふと横を見ると、城後くんがこちらを見つめている。


「……あなた、資料は?」


「読み終わったよ」


「えっ……」


 私は城後くんが言ったその発言にとても驚いた。読み終わるのに少なくとも一週間はかかると想定していたからだ。


「全部読み終わったの?」


「うん。読み終わったよ。台本とかでたくさん文字を読むのには慣れてるんだ」


 私の問いかけに城後くんは笑顔で即答する。


 正直なところ、信じられなかった。なので、すこし意地の悪い質問をする。


「『感情不全症候群かんじょうふぜんしょうこうぐん』の名付け親は?」


長谷部慎司はせべしんじ先生だね。彼が三十八歳の時に名付けしたんだよね」


「……正解」


 私は質問を続ける。


「『感情不全』の主な原因は?」


「特定の感情の値が異常な数値になる、ぞくに言う感情のオーバーヒート。それから、特定の感情を自ら封じ込めてしまう、禁忌きんきだと考えてしまう、俗に言うコンクリート思考の二つかな」


「……その通りよ」


 最後に、私は尋ねる。


「『感情不全』の治療例は?」


「いくつかあるね」


 「喪失そうしつした感情以外の感情が強い数値を記録した結果、喪失した感情が戻ってきたパターン。他には、とても穏やかな精神状態を続けて、感情の起伏が少ない生活を送ったことで回復したパターン。逆に、患者さんの好きなことだけやらせて、感情の起伏が激しい生活を送らせたことで治療の成功したパターンもあるよね。要するに、治療法が確立されてないってことかな」


「そうね。すぐに治る人もいれば、一生治らない人もいる」


 城後くんの完璧な回答を聞いて、やっと私は把握する。


「あなた、元から知っていたのね」


「全部じゃないけどね。この島に行け、って言われてから、けっこう調べたんだ」


 それを聞いて、私は納得する。


 城後くんは一人でこの都市に来たのにも関わらず、積極的に病院に行く様子が見受けられなかった。少なくとも私は、城後くんが病院に向かうところを一度も見たことがない。


 城後くんは、『感情不全』が原因不明の奇病で、治る確率は決して高くないことを知っていたのだろう。


 それはそれとして、城後くんの発言の中に、私はひとつ疑問を覚えた。


「自分から望んで来たわけじゃないのね」


「うん。親父さんが、調子の上がらない俺を見かねて、ここに行ってみろ、って。それで、しばらく休みをもらったんだ」


 私の質問に城後くんが答えをくれる。


「でも、いまいち分からなったんだ。この病気を治したいのかどうか。それでもこれが解消できたら、また楽しく動けるかなって思っていた。だから熊谷さんの名前を聞いて興味を持ったんだ」


「……読んだのね」


「うん。分かりやすかったよ。熊谷さんの論文」


 少しだけ恥ずかしい。城後くんには渡さなかった論文の中のひとつに、私が執筆したものがある。『感情不全症候群』の詳細や歴史、治療法などをまとめたものである。


 実際に『感情不全症候群』にかかったことで分かったことや、この病気によって精神状態がどう変わったか、失った感情を思い出せるかどうか、など様々なことを丁寧に記したつもりだ。


 一定の評価を得たため、小さな賞をいただいた。その結果、起こった出来事はまた別の話である。


 論文の中の私のプロフィールに、薬の調合が趣味だ、と書いた気がする。城後くんが私の名前を知っていたのはそのためだろう。


「言ってくれれば他の資料も渡したのに」


「邪魔したく無くて」


「気にしなくていいのに」


「すごく集中していたから。それにかっこよかったよ」


「……ありがとう」


 不意な城後くんの一言に、私は照れながらも小さな感謝の言葉を告げた。



 ******



『感情不全症候群』に薬での治療成功例は存在しない。


 精神安定剤なども効果がないのは、立証済みである。


 そのため、私たちはとにかく治療成功例の再現をしようと、『バイクルヤンナ』

 の屋上へと来ていた。


「ありがとう、宏太。助かるよ」


「困った時はお互いさまっすよ! いつでも頼ってほしいっす!」


 屋上の使用許可を取ってきてくれた宏太さんに城後くんが感謝の言葉を告げる。


「ありがとうございます」


「いやいや! 本当に気にしないでほしいっす! あねさん!」


「姉さん……?」


 宏太さんの発言に私は疑問を呈す。


「寿人さんは、自分の兄貴みたいな人っすから! 熊谷さんはもう姉さんみたいな人っすよ!」


「はあ……」


 これ以上の会話はやぶ蛇になりかねない。だから、私は軽く流しておいた。


「じゃあ、自分二階の野菜売り場にいるんで、終わったら声かけてくださいっす!」


 そう言い残した宏太さんは、手を振りながら階段を下って行った。エレベーターを使わない理由は謎である。


「こほん。それじゃあ始めましょうか。まずは——」


「感情を爆発させることだね」


 小さな咳払せきばらいをした私に、城後くんが言葉を続ける。


 ——城後くんに残っている喜怒哀楽は、喜びと哀しみである。そのため、まずは喜びの爆発を試そうと私たちは考えた。


「今までで、あなたが一番喜びを感じたことは何?」


 私は質問する。


「……やっぱり、はじめてレッドのスーツを着た時かな」


 少し考えた後、城後くんが答えてくれた。


 ——そんなやりとりが昨日あって、私たちは今この屋上にいる。


 赤いヒーローの衣装いしょうを借りて、城後くんがそれに着替える。その間、私はベンチに座って大人しくしていた。


「おまたせ」


 赤いスーツを身にまとった城後くんが現れた。


「気分はどう?」


「うーん。特に変わらないかな」


「まあ。そうでしょうね」


 城後くんの感想に、私は特に落胆することはなかった。こんなことで大きく感情が揺れるなら、あの日に揺れてないとおかしい。


「その格好のままであなたの好きなように動いて見せて」


「うん。分かった」


 城後くんは返事をして、走り出す。そのまま、城後くんは地面を蹴って飛び上がり、ステージに着地した。


 ステージの上で、赤いヒーローが躍動する。ヒーローは、体操選手のようにバク転やハンドスプリングを繰り返し、宙で遊ぶ。


 ピンとした背筋で繰り返される彼の動作に、私は機械のような正確さを感じながらも蝶のような優雅さを感じた。


 それから、彼は、ボクサーのように拳を突き出す。右手と左手でリズムを刻んだ後、彼は、相手の攻撃を避ける。


 現実のその場所には、敵は存在しない。しかし、私の目にははっきりと、敵の激しい攻撃を受け流す彼の姿が映っていた。


 一呼吸おいた後、彼は、腰のベルトの中央にたずさえられたボタンを回転させる。ボタンは変形し、サッカーボールを吐き出す。


 彼は、そのボールを足で受け止め、そのままリフティングを始める。まるでボールにひもでも付いているかのようだった。ボールは必ず彼の足へと戻ってくる。


 突然、彼は、ボールを大きく空へと蹴り上げた。


 かなりの速度で落ちてきたボールを、彼は、直接蹴る。ステージ上の看板の上部に当たったボールは、彼の元に帰ってくる。


 空中に浮いたボールに、彼は、背を向けて、後ろに倒れる。


 彼の体は逆さまになって足が上がる。その足がボールを捉え、再び看板へと放たれる。


 ボールは看板の中央に衝突し、大きな音を奏でた。


「……凄い」


 私の口から感嘆の言葉がこぼれる。


「……はっ」


 感動している場合ではないことを私は思い出す。気をとりなおして、私は城後くんに近づいて尋ねた。


「楽しいって思えた?」


「ごめん! 久しぶりに全力で体動かして気持ちいい、ってのはあるんだけど」


 城後くんは満面の笑みで答える。


「仕方ないわ。次の方法を考えましょう」


「そうだね。ありがとう」


 私たちは次のこころみに希望を託す。


 今日、楽しいと思えたのは私だけだったようだ。


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