第2話 パン屋『ここあ』
私、熊谷沙月がこの都市に移住してきたのは三年前である。思い出したくもない、とても嫌なことがあって、この都市にやって来た。
一年は何も手がつかずにいた。それでも、私には薬をつくること以外、趣味も特技もないことに気がついた。
それからは、簡単な薬をつくることを
そして、三年も住めば顔
あれよあれよとパンを勧められるうちに、私はいつの間にか常連になっていたのだった。朝ごはんにあの店の焼きたてのクロワッサンとコーヒーをいただくことは、私の午前の習慣となっており、この島での数少ない至福のひと時である。
しかし、今日は、珍しく良く眠れたため、というか、寝すぎたためにお昼の時間になってしまっていた。
「おなか空いた……」
焼きたては諦めるとしても、クロワッサンを手に入れるためにパン屋へ向かうことにした私は、急いで支度をする。
「行ってきます」
今日もまた、私は誰もいない部屋に向かって出発の挨拶をした。
******
「ふまがいさん! ほんにちは!」
フランスパンを口いっぱいに頬張っている城後くんがいた。
「……こんにちは」
パン屋のイートインで偶然出会った彼のテーブルには、大小さまざまなパンが数多く並んでいた。
「相席でいいのに」
フランスパンを食べ終えた城後くんが、近くに座った私にそうつぶやく。
「トレーを置く場所がないじゃない」
「それもそうか」
「よく食べるわね」
私は見たままの感想を伝える。
「スタントマンは体が命だからね」
それにしたって限度がありそうなものだが。
「昨日の痛みはないの?」
心配しすぎだろうか。それでも気になるものは気になる。
「全然問題ないよ! それより、お昼それだけ?」
クロワッサン二つとコーヒー一杯しか乗ってない私のトレーを、寿人は不思議に思ったようだ。
私からすれば、それだけ大量のパンを食べられる方が不思議だけど。
「ええ、あまり多くは食べられないの」
事実、クロワッサン一つとコーヒーだけで半日は通常通りの生活が可能だ。しかし、今日は歩き回る予定があるので、クロワッサンを二つにしている。
「そっかあ。ここのパンはおいしいね。すごく気に入ったよ」
心の底からそう思っているのだろう。城後くんの表情はすごく幸せそうである。
「そうね」
私は短く同意の言葉を返す。
「いただきます」
会話が一区切りついた後、私も食事を始めたのだった。
******
「沙月ちゃん、お知り合い?」
エプロン姿の
「ええ、昨日ちょっと」
詳細を話すには労力がかかりすぎるため、かなり曖昧な返事をする。
「そうなの。よかったわ〜」
急に老婆が安心したような表情になる。
「……?」
「沙月ちゃんったら、若い人と全然しゃべらないんだから」
「そんなんじゃないです」
朗らかに笑う老婆はこの店の店員、菊子さんだ。
仕事が一段落ついたのだろう。私たちの近くの席に座って話しかけてくる。
「お兄さん。お名前は?」
「城後
満面の笑みで答える城後くん。
「あら〜、お上手ねえ」
「でも、あたしのことはパン屋のおばちゃんでいいわよ〜」
「では、パン屋のマダムとお呼びしますね」
「あら〜、いい子ねえ」
ふざけているのか、本気なのか、いまいち分からない城後くんと菊子さんの会話を聞きながら、私はコーヒーを飲み終えた。
とりあえず、今日の用事を終えよう。そう思った私は、菊子さんに話しかける。
「おじいちゃん、腰の様子はどうですか?」
「今日はだいぶよさそうよ〜。昨日ちゃんとお薬飲んでたもの」
「良かった、じゃあこれ今週の分です」
「いつもありがとう。助かるわ〜」
私の取り出した紙袋を、菊子さんが受け取る。ここ二年間、毎週のように繰り返されてきた
「ごちそうさまでした。それじゃあまた来ますね」
「おとーさん! 沙月ちゃん帰っちゃうわよ!」
菊子さんが厨房に向かって声をかける。
「何だい! もう帰っちゃうのか! もっとゆっくりしてっていいんだぜ!」
厨房から元気でしゃがれた声が聞こえてくる。
「ありがとうございます。でも、今日はちょっと寝坊しちゃったので」
「そうかい! 確かに今日はちょっとすっきりした顔してるねえ!」
「そうねえ、いつも可愛いけど今日はもっと素敵だわ〜」
「今日もおいしかったです! また明日!」
何だか恥ずかしい会話が繰り広げられ始めたので、私は強引に会話を切り上げる、店を出ようとする。
「ちょっと待って! 俺も行くよ!」
いつの間にか大量のパンたちを食べ終えていた城後くんが、私を呼び止める。
「あら〜、沙月ちゃんをよろしくねえ。寿人くん」
菊子さんが優しくほほ笑む。
「はい! 頑張ります!」
快活に答える城後くん。
「いい返事じゃねえか! 兄ちゃん!」
おじいちゃんは豪快に笑っていた。
「ありがとうございます!」
にやにやしながらこちらを見ている夫婦、そして、無駄に元気のいい城後くんから逃げるように私は店を出たのだった。
******
「今日はどんな予定?」
城後くんが尋ねてくる。
「いろいろな人に薬を届けるの」
今日は配達の日だ。
「ついていってもいい?」
「そんなに面白いものじゃないわよ」
私は、ひねくれた言い方をする。実際に見ていてそんなに楽しいものではないと思うからだ。
「それでも興味があるから」
城後くんは嫌な顔一つしない。
「……別に構わないけど、あなた今日仕事とかは?」
私は少しだけ踏み込んだ質問をする。
「……しばらく休みなんだ」
迷ったような表情の城後くん。踏み込みすぎただろうか。
「……そう、まあいいわよ。ついてきても」
「ありがとう!」
特に断る理由もなかった私は、城後くんの申し出を了承した。
******
私はいつものようにさまざまな場所に
赤い屋根のうちにたどり着く。
「お姉ちゃん! ありがとう!」
「朝ごはんとお昼ご飯の後に飲んでもらってね」
頭痛に悩む母親のために、薬を頼んだ男の子に。
とあるマンションの二階の一部屋にたどり着く。
「ありがとう。熊谷さんのお薬はよく効く気がするのよ」
「暖かくして寝てくださいね」
鼻づまりに悩み、時々薬を求める主婦に。
大きなビルの受付にたどり着く。
「ありがとう! これで明日の心配がなくなった!」
「お酒はほどほどにしてくださいね」
二日酔いを恐れ、酔い覚ましを欲しがった大酒飲みのサラリーマンに。
落ち着いた雰囲気のカフェにたどり着く。
「いつもありがとうございます」
「お姉ちゃん。ありがとー」
「あまりにもひどかったら病院に行ってくださいね」
花粉症に苦しみ、マスクが手放せない男性と女の子の親子に。
******
病院嫌いなパン屋のおじいちゃんを
そんな人たちのために薬をつくるのが、今の私の生きがいであるである。
多くの場所を訪れ、薬を届け終わった後、私と城後くんは公園のベンチで休んでいた。
「やっぱりすごいよ。熊谷さんは」
突然、城後くんが恥ずかしいことを言い出す。
「無理に褒めなくてもいいわよ」
「本心だよ」
「……ありがとう」
城後くんの賞賛を、私は素直に受け取る。
「そういえば報酬とかはもらってないの?」
「一応、薬を売る資格は持っているけど、実際に販売するとなると、いろいろ手続きが面倒なの。今日——というか、いつも配っているのは栄養剤みたいなものだけだし……」
「そうなんだ」
「それに、この島で暮らす患者は補助金で十分暮らせるから」
私はつい口にしてしまった。
「……」
城後くんが口を閉じる。
「私、『
とまらない。
「それって……」
「『感情不全
言ってしまった。だけど、私の中に不思議と後悔は存在しない。
「……ごめん……」
城後くんが申し訳なそうな顔をしながら謝罪してくる。
「気にしなくていいわ、そんなに困ることもないし」
「でも」
「隠す必要もないし」
「分かった、気にしない」
「え……」
予想外の返事に私は戸惑う。
「熊谷さんは魅力的だよ」
「何言って——」
「誰かのために頑張れる人は、素敵な人だよ」
「……ありがとう」
まっすぐこちらを見てくる城後くんは、嘘をついているようには見えない。
私は、この人は綺麗な瞳をしているな、としか考えられなくなっていた。
******
とても長く感じた
私はアパートの狭い部屋に戻り、ベッドの上で今日の出来事を考えていたのだった。
(離れてくれると思ったのに)
——誰かに期待するのは怖いから。
(自分から手放そうと思った)
——裏切られることが、分かっているから。
(つかむ努力はしたくなかった)
——努力は無駄になると知っているから。
あの出来事がきっかけで、私は心の病気を患った。治療法はまだ確立されていない。
『感情不全症候群』
人によって異なるが喜怒哀楽の一部を失ってしまう。喜怒哀楽の喜と哀は、私の中に存在しない。
だから、今日の私に残っているのは、恥ずかしさと驚きだけだ。
(薬を作り続けているのは、他にやることがないからで)
——他に出来ることがないだけ。
(後悔しているのだろうか)
——あの時、何か違う行動をしていれば。
(諦めずに抗っていれば、何か変わっていたのだろうか)
——だめだ、よく分からない。
(というかしゃべりすぎたのではなかろうか)
(痛い女と思われてないだろうか)
(もう今更遅い気もする)
思考がぐちゃぐちゃになっていることに気づき、深呼吸する。
(今日はもう寝よう)
照明のリモコンを手に取り、消灯する。
「おやすみなさい」
精神的に疲れているのだろうか、今日は、目を閉じてすぐに眠気が
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