第十輪 ❁落花流水❁

「あの牛にも、人を気絶させる作用があるってのかい……?」

「いいえ、ジョン・ブルの鳴き声は、向こう側・・・・の思想に染められた人々の精神をこちら側・・・・」に呼び戻すものです」

「じゃあ、なんであんなに多くの人間が気を失ってる?」

「思想の急激な教化は、精神に多大な負荷を与えます。それに耐えきれなかった人間は、ああなってしまうのです」

「耐えきれなかった人……」

 その時、それまで自分とフィサリスのことで精一杯だった頭が、やっと大切なことを思い出した。


「そうだ、バンシャ!!」

「アニスくん、いけません!」

 俺は、フィサリスが制止するのにも耳を貸さずに路地から飛び出していった。にわかに、ぽつりぽつりと水滴が鼻の頭に跳ねる。



「バンシャ……バンシャ! どこだ!?」

 まるでクジラの背の上でフィサリスを探していたときと同じように、名前を呼びながらバンシャを探す。


 キュウキュウー、キャウ、キャウ。


 今度は、空だった。茨の向こうの空から、大量のカモメが飛び出してくる。おまけに、茨の向こうからもまるで密林のような虫や鳥や野獣の声。

 どうせアレらもロクでもないものなんだろうということだけは想像がついたが、今は一刻も早くバンシャを探し出さなければならなかった。


「バンシャ! バン――」

 いた! 数十歩程離れた場所に見えたバンシャは、その小さな小さな体をぐったりと横たえて、虚ろな瞳をカモメの群れに向けていた。だが、それに対して衝撃を受ける以上に、周りの様子がおかしかった。先ほど目にしたバンシャの母親が、男の脚に泣きながらしがみついている。

 しがみつかれている男の隣には、髭を蓄えた紳士と、その紳士に抱えられた少女。少女は少女でぐったりこそしていないものの、顔を赤くして苦しそうにうめいていた。


 頭に花を頂いたバンシャの母親に対して、三人とも頭に花はなかった。


「待って、待ってください! 娘はまだ――」

 泣きつくバンシャの母親を顧みることなく、少女を抱えた紳士は、バンシャの身体に向かって無数の植物のツルのようなものを伸ばした。

「時間がない、はじめるぞ」


「やめろ――」

 訳もわからない俺が駆けだして制止に入る間もなく、何かが始まる・・・・・・。無数のツルが伸びたり縮んだりウネウネ動いたかと思うと、それはすぐに茶色に変色して枯れ果てた。


 ほんの少しの間の後、先ほどまでの様子が嘘のようにバンシャがはっきりと目を開けて、むくりとその場から起き上がったのだ。

「ダフォリル!」

 少女を抱えていた男は、全く違う名を呼びながらバンシャの頬に手を添える。男が抱えていた少女の身体は、まるで飽きられた人形のようにその場に投げ出され、ピクリとも動かなくなっていた。


「うわ、サイアク。樹液臭い半妖精の身体だなんて……」

 バンシャ・・・・が目を覚ますなり、最初に発した言葉がそれだった。

「我慢するんだダフォリル。すぐまたいい身体が手に入るさ」

「次は金髪で鳶色とびいろの目にしてよね~、パパも好きでしょ?」

「ああ、ああ、いいとも」


 何か、全身の力が抜けて、その光景にただ吸い寄せられるように足を踏み出した俺の肩が、しっかりと掴まれる。

「フィサリス……」

 朱色の宝石のような瞳をきりりと引き締め、こちらを真っすぐに見据えるフィサリス。

「あれはもう、あの子・・・ではありません。それに、手を出せば罪に問われるのはアニスさんです」

「あれは、あれは何が……」

「今、説明している余裕はありません。『チャイカ』が迫ってきます。早く、ここから逃げなければ」


 キューキュー、クゥキュウクゥー。


 頭上をぼうっと見上げた後に再び視線を落とすと、バンシャたちの姿は群衆にかき消されていた。


~✾*。✿:゜❀*❁。✾*。✿:゜❀*❁。~


「ここなら、当面は大丈夫でしょう」

「……」

 フィサリスに手を引かれるまま逃げ込んできたのは、どこかの小屋のような場所だった。どれだけ走ったか、ここがどこなのかは知らないが、今はなんだかどうでもよかった。


「あのハーフフェアリーの子のことは残念でしたが……あの子は、プロパガンダケモドキとジョン・ブルの教化を受けた時点で廃人化していたはずです」

「……なぜ、そんなことが分かる?」

「精神が未熟な者、精神が衰弱している者というのは、ことさらに教化の影響を受けやすいのですよ。大人ならば精神崩壊には至らないような教化でも、子どもにとっては致命的です」

「なんで……」

「はい?」

「なんで、子どもが大人より割りを食わなきゃならないんだ!? 今回のことだって、大人が勝手に始めたことだろうに……!」

 俺は拳を握りしめたまま、あろうことかフィサリスの前でボロボロと涙を流し始めてしまった。


「移植を受けたあのピオニー族の少女――ダフォリルと呼ばれていたの方も、精神的危篤きとく状態のように見えましたね。それで、ハーフフェアリーの少女の身体の方に精神を移植したというわけです」

「精神が崩壊しちまった身体になら、自由に移植していいってのかよ……?」

「優性人種法第三条第二項『ピオニー族は、その生命の危機において国内における他人種の身体に精神移植を行う権利を有する』」

「……!」

「今度は、嘘の法律ではありませんよ。ピオニー族であるあの三人には、その権利があったのです」

「……ピオニー族とマンド族とが手を取り合って――なんてのたまっておきながら、実態がこれか」

「いえ、実態はアニスくんが思っているものとも、おそらく違っています」

「どういうこと?」


 フィサリスは立ち上がって窓を開け、外を指さす。外の広場には、巨大なソメレオンとパトリロットの姿があった。

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