思いの石が輝くとき
野木しげる
永遠に口づけを
第1話
おれ、リューグはいますぐ大声で叫びたい、イリスっていう女の子が大好きだって。
おれがいまいる調理場からでも叫びたいぐらいだ。だけどおれはこらえた。いとしのイリスがおれのことばで悲しそうな顔をするかもしれないから。
イリスの顔を見るなら、笑顔がいいな。早くイリスに会いに行って、笑わせたい。
だけど、おれは調理場から出られない。おれは夕食を調理中。二人の健康を任されているようなもんなんだから、しっかりしないと。
おれは二人の姿を思い出す。ひとりはいとしのイリスだ。黒くて長い髪がきれいで、黒い目は大きくて優しげ。褐色の肌も魅力的だ。
もうひとりは、ティマト農場の農場主で、ティマトっていうじいさんの姿。茶色の目がいつも怒ってるみたいで怖いんだ。頭には白い髪を蓄えて、黄色い肌にはいくつもしわがあった。
姿を思い出してたのに、ティマトの声をおれは思い出しちゃった。声が低いから、怖く感じちゃう。
嘆くついでに息を吸ったら、急におれの鼻は香辛料や野菜の甘くて辛い香りでいっぱいになる。
おれはティマトのことでもっと嘆きたいのに、おれの鼻は違うらしい。まるで鼻が気持ちを整えろっていってるみたいだ。
わかったよ、おれの鼻。おれは気持ちを整えて、料理に集中しなくちゃな。
おれは鍋のなかを大きな匙でかき混ぜる。おれの着てる、上下の白い服が汚れないように力加減を考えつつ。
鍋のなかをかき混ぜてると、根菜の、砂糖を煮詰めたような甘い香りがおれの胃を優しくなでた。おれは
料理はいいもんだ。作れば人を喜ばせ、食べればおれの茶色い髪をつやめかせ、灰色の目を輝かせ、白い肌を際立たせてくれる。
おれは料理を眺める。葉野菜のいためものに、鳥肉を焼いたのや、根菜の汁物。それから麦粥だ。どれもこれもうまくできた。味見をしてみて、いい味に仕上がってる、とおれはひとりで笑った。誰に出しても恥ずかしくない味だぞ。
おれは笑顔でいるのをやめて、食器棚から三人分の突き匙と匙、皿や器を出す。調理場を出ると、食器を食卓に並べようとする。
おれはちょっとだけ部屋を見渡した。部屋の東側にある食卓が西日を受けて輝いている。三脚のいすも食卓の近くにあった。
西日がおれたちの住む国、エスペルトに秋が来たのを教えてくれてる。エスペルトの中央にあって、おれたちが住んでる片田舎、マイスでも秋は深まろうとしてる。
おれは再び部屋を見つめた。部屋の中央には暖炉が静かに冬を待っていて、暖炉の近くには長いすが置いてある。長いすが日の光に照らされて優しく輝いてた。
おれは長いすをいとおしく眺める。食事の後に待っている時間がいまから楽しみだ。
おっと、楽しみは後だ。早く食事を並べなくちゃ。
おれは食器を食卓に丁寧に並べると、調理場に引き返して、かまどの火を消し、鍋や調理具を持って、再び食卓の前に現れる。鍋を鍋敷きに置き、調理具を使って、皿や器に食事を盛り付けた。よし、完成だ。
おれは食卓にある鈴を取って、鳴らす。
この世すべてを祝ってるみたいな音が鳴る。何度も聞いてるけど、おれは鈴の音がたまらなく好きだ。調理し終えたおれを称えてくれてるみたいだから。まあ、本当は二階にいる二人を呼び出すための鈴なんだけど。
鈴の音が終わると、今度は足音が聞こえてくる。足音もおれを料理人としてほめてくれているような気がしてくる。
「二人とも、食事だぞ」
とおれは胸を張って二人を出迎えることにした。最初に降りてきたのはティマトだった。不機嫌そうな顔をして、おれを見る。
「手際が悪いな。遅くまでかかりすぎだ」
とティマトが機嫌悪くいった。上下黒い服が少しだけ揺れてる。
「丁寧だといってくれよな」
とおれは慣れた口調でいう。ティマトが何かいうたびに怒るのは健康上よくないからな。
「いい香りね、リューグ」
と優しい声でいとしのイリスがいう。裾がくるぶしぐらいまである、長くてうすい黄色の服をイリスが着てる。とってもよく似合ってる、とおれは思う。
「期待していいよ、イリス。きょうの料理は出来がいいんだ」
とおれは笑顔でイリスに返した。
それぞれいすに座ると、大地母神ティタに祈りを捧げて食事が始まる。
汁物に挑戦したのはイリスだ。
「おいしい。魚醤と根菜が仲良くしてるみたい」
とイリスが素晴らしい感想をくれた。
「気に入ってくれたみたいでよかった」
とおれはちょっとだけ涙ぐみそうになった。苦労したときが報われるって幸せだ。
「魚醤がひと匙多い」
と細かい文句をつけつつ、ティマトが根菜を噛み砕く。
さっき、怒ってたら健康に悪いと思ったけど、怒るときは怒るぞ。かわいくない、ティマト。イリスを見習え。でも、かわいいティマトってどんな感じだろう、と考えようとして、おれは怖くなってやめちゃった。
「あら、怒るなんてとんでもないことよ、ティマト。お肉もおいしいのに」
と優しく諭すようにイリスがいった。すごいな、とおれは思う。イリスは気難しいティマトに毎度優しくできるんだ。ティマトの介護が仕事とはいえ、なかなかできないことだよな。おれなら口ききたくないけど。
「イリスは優しすぎる」
とティマトが肉を口にした。
「辛い」
とティマトが眉根を寄せた。
「文句をいいつつ、すべて食べるものね」
とイリスが楽しそうに笑う。ティマトが居心地の悪そうに汁物を口にした。
「まあいいか、食べてくれるなら」
とおれは笑ってみせた。
「早く食べろ。食べ終わったらきょうも民話を聞かせてやる」
ティマトが照れ隠しみたいにいった。
素直じゃないんだからなぁ、とおれは呆れたくなった。
きょうの料理の感想を言い合いながら、おれたちは食事を終える。
おれは食器を片付けようとしたんだけど、
「後にしろ」
と、長いすに向けてあごをしゃくり、ティマトがおれたちに座るようにいう。
「わかったよ」
とおれは淡い期待をして、気恥ずかしくなりながら、長いすの東側に座る。イリスはどうするんだろう、と思うと心が弾む。
ティマトが真ん中に座ると、大きく息を吐く。座るのも大変そうで、イリスが慌てて長いすまでやってきて、ティマトを気遣いながら西側に座る。
おれは安心したのと同時に悔しくもあった。
もし、おれのそばにイリスが来てくれたらと期待した。もしかしたら、おれとイリスの指先が触れる機会だって、あったかもしれないんだ。おれが清らかじゃないことを思っていると、おれの胸が針で刺されたみたいに痛くなる。
思わずおれは胸を押さえたくなったけど、二人を心配させちゃいけないとこらえる。
それにイリスの前では痛みは隠しておきたかった。痛みは、恋の痛みだから。
前に胸が痛んでるとき、ティマトにいわれた、これは恋の痛みだって。おれもそう信じてる。イリスにふれたいと思うとき、胸は痛むんだから。ティマト相手では痛くならない、当然だよな。
「もう大丈夫だ。話を始めよう」
とティマト。
ティマトが話し始める。さらわれた姫を助けるために旅立った王子が苦しい旅をする。旅の終わりには姫を助け出し、二人は優しい口づけをして話は終わる。
ティマトが話す民話は登場人物が最後に優しい口づけをして終わるんだよな。
エスペルトでは、口づけすることによって永遠の愛を誓いあうんだって、ティマトがいってたっけ。
話の最後のくだりになると、おれは暖炉だけを見つめるようにした。イリスの顔なんて見られない。恥ずかしくてたまらないから。
暖炉を見ながらおれは想像する。誰よりも強い騎士になって、さらわれたイリスを敵の手から救うんだ。最後には優しい口づけをイリスとする。
考えたらおれの胸は痛む。痛んでも想像することがやめられない。
今度は王子になって、おれは美しい宝石を探してあちこちを放浪する。宝石をイリスに手渡して、二人は口づけを交わす。おれの胸は痛むけど、心は温かくなるんだ。
おれの心のなかなんて知らないみたいに、ティマトが別の民話を語り出した。
まだ話すのかよ、といいたのをおれはこらえた。
今度は放浪の剣士が想い人に出会い、想い人の故郷に住む話。途中、魔法士っていう変わり者とけんかをしたりする。魔法士ってほんとに変なやつらだ。洞窟で薬を作ったりするし。
おれが考えているうちに、剣士は想い人と口づけして話は終わる。幸せそうで何よりだ。
おれはイリスの顔が見られないまま、イリスの笑顔を思い浮かべる。
イリスの優しい笑顔でおれの頭はいっぱいになった。微笑む唇さえも鮮やかに思い出す。
思わずおれは自分の指で自分のくちびるに触れる。
おれのくちびるは柔らかい。柔らかいよな、誰のくちびるだって。もし触れ合ったら、と清らかじゃないことを考えたら、おれの胸は痛くなる。やましいこと考えて悪かったよ、おれの胸。
恋の痛みってこんなに痛いものなんだな。
おれが痛みに耐えていると、急にティマトが立ち上がって、
「話は終わりだ」
と二階に昇るための階段まで歩いていく。
「後は好きに過ごせ」
何だか言い捨てるみたいだった。
かわいくないなティマト、と何度も思っちゃうよな。
おれは怒りを頭のなかから消したくて、窓を見た。
いまは暗くて見えにくいけど、麦畑が広がってるのがわかる。
マイスって町は、目には追えないほどに麦畑が広がってるって、ティマトがいってた。
「リューグ」
とおれの耳に優しい声が聞こえた。イリスが話しかけてくる。
「外が気になるのね。町にも行ってみたい?」
おれはイリスの顔を見る。イリスはさびしそうな、それから心配そうな顔をしていた。
「また、ティマトが倒れちゃうから行かないよ」
とおれはイリスを安心させるように微笑んだ。
いまからちょうど二年半前に、おれが退屈を紛らわせようと、家の外に出ようとした。
そしたら、ティマトが青い顔をしておれのそばまで来て、外へ出るなと怒鳴りつけた。
おれは理由を聞こうとした。どうして外に出ちゃいけないんだって。
ティマトは何もいわずに、その場でうずくまって動けなくなった。怒りすぎて体調が悪くなったらしい。
イリスまで慌てて二階からやってきて、介抱したりして、大変だった。
それからおれは外に出ないし、ティマトにも外に出ちゃいけない理由を聞いてない。理由を聞けば、三人で暮らしているこの小さな場所が壊れてしまいそうで、おれは怖かった。
「行かないのね」
とおれのことばに安心したのか、イリスがいった。
「イリスをここに残していくなんて、おれにはできないよ」
おれは照れくさくなりながらいった。
町の様子は詳しくわからないけど、たくさんのものに溢れているらしい。三日に一回、家に野菜や肉、調味料なんかを届けてくれる使用人がいるから、品物がいつも決まりきったものが届く。足りなくなるってことはないんだ。
使用人は朝早く来る。おれ、その人の顔は見たことがないし、名前も知らない。いつか話をしてみたいな、とも思う。
使用人に話しかけたら、ティマトにまた怒られるのかな?
話しかけたら、おれたち三人の場所は簡単に壊れてしまうのかな。
「リューグ、どうかしたの?」
イリスの心配そうな声に、おれは考え事をやめた。
「大丈夫。心配しなくていいよ、イリス」
いまイリスの手を握ったら安心させられるのかな、と考えたとき、心が温かくなるのと同じく、胸が手で握られたみたいに激しく痛んだ。
痛みが出ると、イリスに手を伸ばすことさえできなくなる。
どうして、胸の痛みぐらいで、心はなえてしまうんだろう。
情けなさすぎやしないか、おれ。
傷みが引いて、動けるようになった。もう一度イリスの手に自分の手を重ねたい、と思うと、また胸が痛くなった。
イリスを心配させないようにと、おれは痛くないふりをする。
恋の痛みって、つらいなぁ。
つらいけど、痛みの分だけイリスを好きなんだってことだって、おれは自分に言い聞かせる。
それにしても、好きな女の子の心を安心させられるのはことばだけなんだろうか。
いや、ことばだけじゃないぞ、とおれは思い直す。
おれはイリスの前で、片手で逆立ちしてみせた。
「ほら、こんなに元気だ」
とおれは歯を見せて笑った。
「もう、リューグったら。おどろいちゃうわ、私」
と優しくイリスがいう。
「おどろいた? 日常に彩りがほしいと思ってさ」
おれはまた、歯を出して笑った。逆立ちするのを、おれはやめる。
「リューグは運動が得意ね」
とイリスがほめてくれる。
「料理も好きだけど、運動も好きだよ」
イリス、君のことも、というのをおれはやめた。
「きょうはもう寝よう。おれは食事の後始末もするから」
とおれは心を隠して、食卓にある食器を片付けて、調理場に向かう。
「おやすみなさい」
とイリスの優しい声がおれの耳に届いた。
おれは調理場で洗い物と格闘し、見事片付け終わると、調理場にある、地下の階段に向かって歩いていく。地下にはおれの部屋がある。
地下室に入ろうとすると、涼しい風がそっとおれの全身を覆った。
地下に着くと、おれは寝台に体を投げ出す。
明日も小さなおれたちの世界が変わらず続いていくことを願いながら、おれは眠った。
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