あの夕日をみよう
遠実らい
● 一日目
その駐車場に到着した時には、五時半を少し過ぎていた。
夕日を見るには少し遅いな。
ウェザーサービスによると、今日の日の入りは一八時七分。急いでチェックインすれば間に合うかもしれない。
私は慌ててイイ加減に車を停めると、トランクから小さな銀のスーツケースを引っ張り出した。全財産が入った重いそれを乱暴に引っ張り、がたがた言わせながらゲートハウスへと向かう。
仕方ない、通勤渋滞にはまっちゃって、どうしようもなかったんだし、それを避けて高速を降りたら、迷子になっちゃって到着できなかったかもしれないし。
私はふっと思いついて、グランピングにやってきた。
さっき引き払った、あのワンルームから車で片道二時間ちょっと。海辺の町の片隅にこのグランピング場はある。
実家に帰る途中で寄ったサービスエリアに、大きなポスターが貼ってあった。
巨大な夕日を背景に、崖の上に建ったログハウスのシルエットが浮かぶ、ポスター。ありがちな煽り文句は何もなく、広告としては落第点だ。
その前でおしゃべりしている女子旅らしい三人組がいなかったら、私は見過ごしていた。
彼女達越しに見えたそれは、透明感のある藍色のグラデーションに赤珊瑚のような太陽がアンバランスに刷り込まれていた。
そのポスターを見たら、無性に夕日が見たくなった。
二度と走ることはないだろう高速道路で、そのポスターを見つけたのが運命のように感じた。
そして、どうしても自分の目でその美しい太陽を見たかった。
予約サイトを見ると、夏も終わりの平日なのに、どのテントも人気があった。私は、残っていた一張をようやく押さえたが、ポスターの前の彼女たちは間に合わなかったようだ。
ごめんね、一人で利用する私が押さえてしまって。
でも、私には今日が最後のチャンスだから、ホント、ごめんね。
ゲートハウスには、受付の中年男性以外、誰もいなかった。
いらっしゃいませ。お決まりの文句を言いながら、男の顔は笑顔がなかった。
「チェックインってここですか?」
無言でうなづいた男の前には宿泊カード。模様の入った綺麗な厚紙に、私は自分の名前を殴り書きした。
「お一人ですか?」
「予約するとき、そう入力したと思いますけど」
「あとから、誰か来る予定は?」
「ありません」
受付の男性は、眉根を顰めたまま、私を見つめ続ける。
「ダメなんですか? それとも、カード、通らなかったとか?」
つい、きつい言い方になってしまう。
自分でも不審だろうと分かっている。若い女の一人旅、しかもこんな時間、そして本人は疲れ切った顔をしている。
「別に、自殺したりしませんから」
「いや、そんな、そういう心配じゃなくて」
「……テストが終わったから、自分へのご褒美です。心配しなくても大丈夫ですよ」
男はそれ以上は何も言わず、でも不安そうな顔は変えずに、鍵と場内地図を渡してくれた。
「今夜は食事どうするの?」
立ち去る私に慌てて声をかけてくれる。
「大丈夫です、今日は……もう食べたんで」
「あ、そうなの、それは良かった」
ようやく、にこりと笑顔を見せてくれた。
私は無言のまま足早に自分のテントへ向かった。
場内の外れに、指定された番号のテントがあった。ゲートハウスからずいぶん歩いた気がする。
目の前のそれは、グランピングテントというより、コテージと呼ぶ方がふさわしいような気がする。見た目は遊牧民のゲルに近い。
扉を潜ると、中は思ったよりゆったり広く、清潔で綺麗だった。トイレとバスもついている。ベッドは壁側に大きめのものが二台置かれている。
確かに、若い女が一人で泊まるような部屋じゃないかも。
ここは、家族連れとか、友人同士とか、恋人同士とか、今の瞬間、幸せな人達が泊まる場所だ。少なくとも私みたいな一人ものが選ぶ場所じゃない。
ドアの正面に、縦横数メートルはあるかと思われる大窓があった。その向こうには、すぐ海が見える。
そのテントは海の際に建てられている。
「海……」
私はしばらく入り口に立ったまま、窓の向こうを眺めた。
部屋にトランクを置いて、私はテントを出た。もらった地図によると、敷地内に砂浜があり、海に入れるという。
そこまで行こうと、ふらっと歩きだした。
夕日が見たくて来たけれど、もう日はほとんど沈んでいる。
歩くその間にも、空はどんどん赤味を失い、青に置換えられていく。
「代わりに月でも眺めようかな」
砂浜に立つと海の上の空は青く明るかった。海の暗い青とくっきり水平線で分けられている。
私は波打ち際から少し離れたところに座り込んだ。膝を抱えて、月を待つ。
時間はたくさんある。もう、何にも追い立てられることはない。
空では、徐々に紺色が青を蝕んでいくのを、ぼんやりと眺める。海との境界線も曖昧になっていく。
そうしていると、私の中から全ての言葉が失われていくようで、とても心地よかった。
「おい、ここで何やってる」
いきなり、背後から声をかけられて、私は飛び上がった。声も出なくて、私はおそるおそる、その声の主を振り返った。
辺りはすでに薄闇で、この距離ではその人物の顔がはっきりと判別できない。声と口調から、若い男であることが何となく分かるくらいだ。
私を見下ろすその若い男が、また、口を開いた。
「こんな時間にここで何やってるんだ」
その言い方に、恐怖より苛立ちが勝った。
「……別に。私の勝手でしょ」
「勝手じゃない。ウチの敷地内で、下らない事件を起こさせるな」
「は?」
「若い女が一人でこんなところに座っていて、事故が起こらないはずがない」
「……意味が分かんないけど」
分かっているけど、分からない。……分かりたくない。
「バカなんだな、オマエ」
あからさまな侮蔑を含んで、男はさらに言い重ねた。
「それとも、金持ちのお嬢さんは自分の身を守るって常識もないのか」
「な……失礼でしょ、初対面でその言い」
「頭悪い女がどんな目に遭おうと、こっちは知ったコトじゃないが、やるんなら敷地外でやれ」
「……!」
こっちがまだ話しているのに聞きもしないで、最低なことをベラベラと。なんてヤツだろう。
私は怒りに震え、何か反論しようと思い、……急にアホらしくなった。
無視することにしよう。こんな人間にかける言葉は存在しない。
男は苛々と一歩近づいた。
「早く、テントに戻れよ」
「……」
「これだからバカな大学生は嫌いだ」
「……」
「しかもどうせ親の金なんだろ、こんな贅沢し」
「アンタに何の関係があるの?」
「ただ、お客サマには常識的な行動をお願いしているだけですよ」
「……」
「オレは、このグランピング場のスタッフとして場内の保安」
「なんでそんなに突っかかってくるの?」
「……」
「こんな開けた何にもないところで、何か起こる可能性低いよね?」
「……」
「あ、もしかして、アンタが犯人?」
「は?」
「私を襲うつもりでここに来た?」
「……こっちにだって選ぶ権利があるだろ」
「じゃあ、大丈夫じゃない、アンタが選ばないような私なんかを心配してくれなくてケッコウです」
「……」
ちょっときつく言い過ぎたかな。
「……アンタの言いたいことは分かるけど。心配してくれなくても、私、めちゃくちゃ強いから、大丈夫」
「そうは全然見えないけど」
「……」
「……めんどくせぇヤツだな」
男は近づいてきたかと思うと隣に座り込んだ。
「ちょ、何?」
「オマエがテントに戻るまで、見張っとく」
「何を?」
予想外の答えに驚いて、私は隣の男の顔をまじまじと見た。
距離が近づいて初めて男がよく見える。
……息をするのを忘れるくらい、綺麗な顔だった。そう言えば、ゲームのキャラにこんな顔、いなかったっけ。
虚構の世界だから許される、そんな整い方をしている。
私は自分の反応を相手に気取られないようにそっと顔を背けた。
「……私は一人でいたいの」
「だったらテントに戻れば」
あの空間にいるのが辛いから出てきた、などと言えるはずがない。
「だいたい、何しにココに来たんだよ」
「…………」
目が合うと、男はハッとした表情を浮かべうつむいた。
「……いや、ごめん……詮索するべきじゃないと思うけど、そんな暗い顔してる客も珍しいから」
「……別に暗い顔なんかしてるつもりない。……疲れてはいるけど」
「……」
「大学で退学する手続きして、一人暮らしの部屋を引き払って……たった三日でやったんだから、そりゃ疲れもするよ」
「何、いきなり」
「アンタが聞いたんでしょ。私はココに、心身の疲れを癒すために来たの。……ここに座ってれば、少しは楽になる気がして」
「……」
「アンタこそ、ここでサボってていいの?」
「今は勤務時間外だ」
じゃあ、帰りなさいよ。そう思ったけれど、口には出さなかった。
「……なんで、退学とかすんのか、聞いても?」
「大したことじゃないの。……父親ががんで死んで、学費も生活費も出してもらえなくなったから、辞めるだけ」
「……」
「自分でなんとかしようと思うほどには、こだわりがなかった……ま、いっか、って思って」
砂を掬っては零し、掬っては零していると、本当に全てを諦められる気がした。
「まあいいか、って風には見えないけど」
「……どっちにしろ無理なんだ、私立の医学部だから。父の開業の時の借金もまだずいぶん残ってたし」
ふっと見ると、男は無防備に驚いた顔をしている。
「全然、頭良さそうに見えない」
「失礼ねぇ、これでもかなり成績良かったんだから。……今さらそんなことどうでもいいけどね」
もちろん、どうにかして大学に残ることは出来たかもしれない。ただ、もう足掻く気力がなかった。
「で、辞めてどうすんの」
「まだ何も考えてない。……ただ、自由になっただけ」
男は海の方を見て、何か考えているようにも、そうでないようにも見えた。
「大学に行くのは、親の敷いたレールで、私の希望じゃなかったから。レールを維持する人がいなくなったら、あとは脱線するだけでしょう」
そう、大したことじゃない。……死ぬわけじゃないし。
男は全く身動きしないで波打ち際の先を眺めている。話を聞いているのかいないのか、私には分からない。
砂に三角を落書きしながら、私は続ける言葉を失ってしまった。
「……自分は、大学、楽しかったからなあ……楽し過ぎて、院まで行かせてもらって、それで今、これじゃあ、まあ、行っても意味なかったってことだろうけど」
「は?」
男の顔を見る。また目があった。
男は真面目な微笑みを浮かべて、話を続ける。
「どっちを選んだって、結局、後悔はするよ。後悔しない選択肢なんかそもそもあるわけないと思ってる。……自分も二択だった。研究室に残るか、残らないか。残れば困る人がいて、残らなければ自分自身が苦しい。どっちもどっちだな、と思ったから、その時進むのに楽な方を選んだ。それで、後悔する時もあるし、こっちで良かったと思う時も……ちゃんとある」
一気に喋って、唐突に終わった。まるで私にじゃなく自分自身に話しているようだ。
砂の上にいつの間にか三角が丸になって並んでいた。
「……ありがと、気を遣わせたね」
「……いや……」
砂の落書きを雑に消して手を払った。
私にとって楽な方はどっちだったんだろう。分からない。
このまま実家に戻って、学歴は高卒になって、それが果たして楽な選択肢なのか、全然分からない。
ふと周囲が明るいことに気付いた。
目の前に大きな月が上っている。
「満月?」
「いや、明日。……十五夜だろ」
「……ふーん」
「明日はここにも人がいっぱい来ると思うぞ、望遠鏡を持った親子とか、写真撮りに来た連中とか」
「……じゃあ、今日で良かったわ」
「どうせもう一泊するだろ、明日も来れば」
「……考えておく」
「…………」
「ねえ、アンタ、名前」
「え? オレの?」
「そっちは一方的に知ってて、フェアじゃない」
男は少し迷うように考え、ぽつりと言った。
「……ユーマ」
ユーマは砂に、
「私はハナだよ」
ゆっくり丁寧に、
「いかにも、欲張りになりそうな名前だな」
「なっ……」
何か反撃しようとして、ユーマの顔を見たら何も言えなくなった。
「何だよ」
「……別に何でもない」
ふと思う。これだけ見目の良い人ですら、普通に悩むことあるんだな。
月の光を受けて、無機質にすら見える美しい顔を、私はぼんやり眺め続けた。
「……何?」
「ところで、ユーマって何歳なの」
「……。……少なくともハナよりかはだいぶ上だよ……」
「まあそうでしょうねぇ」
かなりイヤそうな顔をしているユーマを見て、可愛いな、と思い、はっとした。
……いや……。
「ハナ、そろそろ戻れ、風邪引くぞ」
言って、ユーマは立ち上がる。砂が私の方に降りかからないように気を使って少し離れて払っている。
「……先に帰れば?」
「そんなわけにいかないだろ、ほら、帰るぞ」
ユーマが私の腕を引っ張って立ち上がらせた。
勢いがつきすぎて、身体が倒れ込みそうになるのを何とか堪え、距離をとった。
「あ、ごめん、……つい」
ユーマが慌てたように腕を離す。
「……」
つい、何だって言うんだろう。……つい、誰かと間違えた、とか?
なんでこんなにイラつくのか、自分でも分かっている。……分かりたくないけど。
ユーマの気まずげな顔を見るのも腹が立つ。
「……長い間付き合ってくれてありがとう」
不必要に付いていた砂を叩いて、不機嫌な顔を隠した。
「……」
ユーマが私の棒読みのセリフに何を思ったのかは分からない。
「……大人しく戻るわ」
「……うん」
何となく流れでテントまで送ってもらいながら、私は上の空だった。自分がこの後何をしたいのかすら分からなくなっている。
「……ハナ」
ユーマが立ち止まる。
「何」
「……明日は何するつもり?」
「一日、ぼんやりする」
「……昼間はちょっとアレだけど、夕方以降なら」
「?」
「……夜、まかない食べに来ないか?」
「……」
ユーマの物慣れない様子に、むしろ不安になる。つい、何か裏があるのでは、と考えてしまう。
「知らない人がたくさんいるところは……ちょっと」
私の言い訳にもユーマは気付かないらしかった。
「……やっぱ、嫌かな……」
「考えておきます」
ユーマはホっと息を吐いた。
「……良かった、じゃあ明日な」
「……」
「……じゃあ、また……」
「ポスター」
「? 何」
「ここのポスターを見たの」
「ああ……」
「すごくキレイだった」
「あー姉さんが撮ったやつ……」
「……とてもキレイで驚いた」
「……うん」
「あの夕日を見よう、って思った」
「?」
「ココに来た、本当の目的」
なぜかユーマは痛いような苦いような変な顔をしている。
「……見慣れると、大したことねーよ」
「……ふーん」
歩き出したユーマの横顔を見ながら、私も苦しいような顔をしているだろうと思いながら歩いた。
「……おやすみ、ハナ」
「……おやすみなさい、ありがとう」
私はテントで別れるとドアの向こうに素早く滑り込んだ。そのまま風呂場の鏡を見に行く。
その日は、長い間忘れていた嫌な夢を見た。
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