第7話 -2
「このまま着陸する」
ダイオンの決断に誰も否という者はいなかった。
目の前で飛行機が墜落し、その場所の瘴気と次元の乱れを目にした瞬間、時間の猶予がないことは誰の目にも明らかであったからだ。神将たちはベティーをあの場所に連れて行くことが良いとは思っていないようであったが、すぐにあの場所に降り立ち、瘴気を防ぐための結界の強化と魔物が出てくる前に道を閉じる必要があった。
「ベティーくん、私たちは直接あの場所に降り、すぐに処置をしなければならない。飛行機から降りたら、この二人と一緒に後方にいる第三部隊と合流してほしい」
ホレスは操縦席にいる二人の神将を示し、ベティーに指示をした。
黒い瘴気の中をゆっくりと降りていくと、飛行機は傾き、着陸する前にエンジンが止まった。この場は異界とつながろうとしており、空間の乱れと瘴気により電子機器が使えなくなったのだ。しかし、すでに地面に近かったため墜落することもなく、ベティーたちを乗せた小型飛行機は瘴気の中に着陸した。
先に特将たちとホレスが降りてから、ベティーも緊張しながら飛行機から降りた。
ベティーは目の前の光景に寒気がした。少し離れた大地には頭から突き刺さった小型飛行機があった。不思議なことに煙も炎もなく、機体が破損した様子も見えなかった。まるで黒い地面に飲み込まれたかのように、機体の半分が埋もれた状態になっていた。
最初に落ちた飛行機の残骸が残っていたはずであったが、どこを見渡してもない。すでに地の底に飲み込まれたことを、ベティーたちは知らなかった。
地に飲み込まれた飛行機を中心に半径五十メートルほどの広さで、大地が真っ黒に変色していた。
ベティーはホレスの指示通りに二人の神将とともにこの場から動こうとしたとき、瘴気の濃さが変わる。そして地の底から突き上げてくるように、地面が揺れた。
「ホレス隊長」
ちりちりになっていた特将の五人がベティーの側に集まると、アレスがホレスを呼んだ。
「ベティーを逃がす時間がない。ベティーを後ろにいる第三部隊まで連れていけても、彼らが安全な場所まで連れて行くことはできないだろう」
「そのようだな。もう道は開き始めている。おぞましいほどの数の魔物の気配がする。それならベティーくんは、このまま私たちといた方が生き残れる確率があるのかもしれない」
特将たち全員が頷くのを見て、ホレスは飛行機を操縦していた二人の神将に振り返った。二人の神将はジークフリートを見ると、すぐにホレスに向き合った。
「第二、第三部隊と合流し、副隊長ヨハンとジョンの指示に従え。二人に後方は任せると伝えろ。一体たりともウィチタへ向かわせるな」
そして、ホレスはベティーが持っていた絵葉書を渡した。一人が絵葉書を受け取るのと同時に、二人が走り出した。
「ベティー、神気を体の中で巡らせらせますか?」
「レイスター様、神気ですか?」
レイスターが安心させるようにベティーの肩に手を置いた。
「ここは瘴気が強いので、内にある神気を体の中で巡らせてください。学校で習いましたね?」
「はい」
女神の力を使えるのは神将だけであるが、女神たちは神気をまとうことや体中に巡らすことができる。瘴気は人にとって害であり、これだけの濃い瘴気であればこの場の空気を吸うだけで死に至るであろう。それを神気をまとい、体中に巡らすことで瘴気を防ぐということだ。
今、ベティーがこの瘴気の濃い中で立っていられるのは、ホレスがすぐにベティーの周りに結界を敷いてくれたからだ。ベティー自身でも瘴気から身を守ることをするように、レイスターは言っていた。
ベティーは、学校で習ったとおりに体の中で神気を巡らせた。重かった体は楽になったが、神経は敏感になり、この場所から感じる圧力に息苦しくなった。
あの写真の場所であることは、間違いなかった。
ここが、アビスと呼ばれた地だ。
すでに地獄への道は閉じることなく、開こうとしていた。今、この場所にいることが遅かったと思うべきか、それとも間に合ったと思うべきか。機体の半分ほど地に埋まっていた飛行機が少しずつ黒い大地へと飲み込まれていき、地獄へと落ちていく。
「くる」
誰の声だったのだろうか、その声と同時に特将五人とホレスが身構えた。
今、地獄の穴が開こうとしていた。
地面に黒い穴が開いたかのように、小型機が跡形もなく消えた。そして、大きな黒い穴から煙のように黒いもやが立ち上り、大量の黒い煙は広がっていく。
どんどん、辺りは暗くなっていく。なぜ、これほど暗いのか。
ベティーは、空を見上げた時、信じられない光景に体が震えた。
黒い煙は小さな黒い大群の塊であり、乗ってきた飛行機を覆い隠し、地を覆い、空を覆い、太陽を覆い隠した。
黒い穴から続々と無限に湧き出し、広がっていく。黒い隙間から漏れる光でかろうじて周りが見え、その明かりが現実を知るには十分であった。
この辺一帯は、すでに魔物に囲まれていた。
「ああ、神よ、お助けください」
ベティーは恐怖と絶望のあまり体が痙攣したように震え、大量の羽音に両手で耳を塞ぎ、その場にへたり込んだ。大量の蝗のような形をした魔物が、何百万、何百億、いや何兆と世界を食らいつくすために地獄から湧き出てきた。
神将たちの戦いが始まった。
黒い大群は炎に囲まれ、辺り一面に焦げた匂いがし、塵となって消えていった。水の柱が上がると、まるで生き物のように動き、魔物を取り囲んだ。魔物たちは水の中に沈み、動かなくなった。
巨大な炎を操り、何万トンもの水を操り、大きな竜巻が周りを薙ぎ払い、黒い世界に穴を開けていく。
自然を操る神将たちの力は、神のごとく強く、恐ろしかった。
ベティーは初めて神将たちの力を見て、こんなにすごいものなのかと感嘆した。そして、震える足に力をこめ、何とか立ち上がった。
特将たちとホレスの力で黒い大群が消滅していく。圧倒的な力で魔物は消えていくが、数の暴挙には勝てないのか、蝗の群生が特将たちを通り過ぎ、次々と後方へと向かっていった。
その先には都市ウィチタがある。
「魔物が」
「大丈夫だ。この先には、第三部隊と第二部隊の神将たちがいる」
いつのまにかベティーを守るように特将たちとホレスで囲み、その中心にベティーがいた。
魔物の数は減ることなく、無限のように黒い穴から沸き上がった。
長い闘いの始まりであった。
この日、都市ウィチタではこれまでにない規模の魔物を観測された。都市は恐怖でパニック状態になった。
正午を過ぎたころ、波打つような大地の揺れがウィチタ全土を襲った。そして、西の空に黒い点が浮かび上がり、恐ろしい勢いでその点がどんどん空を侵し、太陽を飲み込もうとしているのが見えた。
あれは魔物が起こしていることだと、誰もがすぐに気が付いた。
いち早く西の空に気が付いた者たちは恐怖で悲鳴を上げ、悲鳴は連鎖し、恐怖をあおり立てていく。かつてこの都市で起こった悲劇を思い出した者や、話に聞いていた者たちは異常なほど魔物を恐れた。
都市の道という道はクラクションと怒声が響き、車で逃げようとしている人々で渋滞を起こしている。
ウィチタ行政は世界機関コロラドからの情報により、すぐに速報として、ここまでは魔物が来ないと何度もテレビで放送し、ラジオで流し、外でもアナウンスを流した。しかし、ウィチタから離れようとする車は後を絶たなかった。
そして、時間の経過とともに西の空は真っ黒になった。
コロラド機関は前日のニューヨーク機関からの話を受け、緊急事態ととり、神将、準将を含め動かせる部隊をすべて使い、ウィチタとデンバーに配置していた。正午に起こった事態を受け、ウィチタに配置された神将と準将の部隊は最前線になるであろう都市の西側に陣取った。その遥か後方には一般の軍や警察などがバリケードを作っていた。
コロラド機関の神将たちはこの都市を守るためのぎりぎりの防衛ラインで、西の空を見ていた。
「羽音が聞こえる」
誰かの声を誰もが呆然と聞いていた。あの場所から何百キロと距離があるというのに、ここまで魔物の音が聞こえていた。それだけの数の魔物が、今、あの場所にいる。何百万、何百憶もの数の暴挙ともいうべき、魔物の群れだった。
あの空や大地を覆う黒いものがすべて魔物であることを知り、絶望とともにコロラド機関の神将たちは見ているしかできなかった。そして、ここにいる神将たちの誰もが思った。
今、あの黒い地にはニューヨークの神将たちがいる。
ニューヨークの神将たちが全滅すれば、あれはここに来る。自分たちにできることは他の機関の援軍が来るまで、ここで持ちこたえることだけだ。
大都市ニューヨークの神団は、世界の中でもトップの実力を持つ。神団には十神将以上しかいない。ここにいるコロラド機関の神将たちのほとんどが十神将以下だった。十神将以上の高位の神将など数えるほどであった。それにニューヨークには、階級を超えた存在である特将たちがいる。その彼らが負けるのであれば、自分たちが勝てる気がしなかった。
それでも、ここから動くことも、逃げることもできない。魔物を滅ぼすまで、ここから動くことはない。
コロラド機関の神将たちは仁王立ちで前方を見据えた。
前方から来た二人の神将から隊長の指示を受け取ると、副隊長のジョンとヨハンを中心に扇形の陣形を取り、第三部隊十九名が配置についた。第三部隊の左右には広がるように、それぞれ第二部隊の神将十人と前方から来た二人が分かれて身構えた。
前方で見えていた飛行機の残骸はすぐに見えなくなり、黒い靄が空と大地を侵食していく光景を見ていた。あの黒い霧の中にいる特将たちや隊長を心配する者など、誰一人としていなかった。時折見える炎や水で、数千単位で魔物たちが消滅していくのが見えていたからだ。
「僕たちの役目は、ここから一体たりとも魔物を後ろへ向かわせないことだよ!」
いつものように明るい声でジョンが全員に告げる。
「僕たちのミッションは単純!あれをすべて滅ぼすことだ。大元は特将たちがやるから、僕たちはこちらに来るアレをひたすら、やって、やって、やりまくるのみ!簡単だろう、おまえら!」
力強くyesと声が返ってくる。
「圧巻だよね。ああ、すごいね。神話伝承の光景だ」
ジョンの声はどこか楽しそうに弾んでいた。
空も大地も覆いつくす数百億、いや兆の数の蝗の大群がこちらに向かってきていた。黒い塊がもう目と鼻の先の距離にある。生ぬるい無風状態の中、耳を塞ぎたくなるほどの羽音だけが聞こえてきた。
ヨハンは無表情のまま、うむと唸る。
「悪魔の粛清がはじまったか」
ヨハンは黒い大群が顔の前まで迫っているのを、軽く虫を払うような動作をした。一瞬で黒い大群に穴が開くが、すぐに穴は埋め尽くされる。そのまま黒い大群は、第三部隊の陣形に突入し、その先にある食い物へと向かおうとした。
「滅せよ」
ヨハンの声が響き渡ると、一斉に神将たちが動き出した。
神将の力は肉体の強靭さだけではなく、火、風、水、地、雷、次元を操る。大きな炎が魔物を燃やし、風の刃が魔物を切り刻む。この濃い瘴気の中で動けることが奇跡であり、これこそニューヨーク神団の実力であった。
総勢三十一名は、一体たりとも魔物を逃がすことを許さず、黒い塊を消し去った。
「ああ、しかし、今回は手ごわいね」
ジョンは多くの虫を風を使って消し去りながら、近くにいる相棒に笑いかけた。
戦闘が始まってから、第三部隊の神将たちの動きが止まることはない。しかし、二時間以上経過しても魔物の数が減っているようには見えなかった。
「どれだけ出てくるんだか」
一匹、一匹はそれほど強いわけではない。だが、この魔物の特徴は暴挙とも言える数で捕食することだ。こちらが気を抜けば、虫は大量に体にまとわりつき、生気を奪っていく。一匹に張り付かれるぐらいならかすかに気力がなくなる程度だが、数万にまとわりつかれれば体が動かなくなる。魔物は体が動かなくなった対象物に、それ以上の数がまとわりつき、最終的には対象物の生気が奪われる。
神将たちは持久戦の体力勝負であった。
「この瘴気の濃さもやばいよね。ぐいぐい体力を奪っていくよ」
「ジョン、この数の多さが一番まずい。カルサス! おまえの部下がまずいことになっているぞ」
ヨハンは数万単位で魔物を相手にしながら、後方にいるカルサスに声をかけた。カルサスは金の長い髪をなびかせ、麗しいほほ笑みを浮かべながら、部下へと厳しい言葉を放つ。
「ゼル、このぐらいでへたばっているようでしたら修行が足りないようですね。帰ったら、私が直々に稽古をつけてあげましょう。今の方が楽だと思えるでしょうね」
魔物に群がられていたゼルが、うがっと訳の分からない雄たけびを上げると、今まで以上に必死に闘う。
「やれば、できるではありませんか」
カルサスはつまらなそうに呟いた後、氷で数千の刃を自分の周りに作った。彼はそれを一斉に回転させ、魔物を粉々にした。
「あれまあ、下の奴ら苦しそうだよね」
まだまだ上の階級の神将たちは余裕だが、一番下の十神将、九神将あたりが苦しくなってきている。ジョンは仕方がないと、上の階級の者たちに指示を出した。
「プランBにするよ~!」
「Yes」
神将たちの陣形が変わり、単独で戦っていたのがペアとなって四方に広がった。
ジョンは下の階級の神将とペアになると、力の弱い者をフォローしながら戦いに明け暮れた。
「早く、特将様~!大元つぶしてくれ~!」
ジョンの雄たけびが隅々まで響き渡った。
「いや、まだあれが出てきていないから‥‥」
ヨハンは目を見開き言葉を飲み込むと、前方を見据えた。尋常ではないほどの強い瘴気が前の方から押し寄せてきたからだ。そして異常な気配に武者震いをした。
「うお、きた、きた、きた!」
ジョンは狂喜乱舞して叫ぶ。
「くるぞ!」
ヨハンが声を荒立てることは滅多にない。寡黙で無表情の副隊長の顔が好戦的に笑っていた。
「全員注目、現れたよ!」
ジョンの嬉々とした声に、この場にいる全員が前を向いた。
「奈落の王だ!」
神話の悪魔がこの世に姿を見せようとしていた。
どのぐらいの時間がたったのだろうか。
ベティーは群がってくる数体の魔物を必死に手で払いのけながら、特将たちの闘いを見ていた。特将たちとホレスもベティーを守ってくれているが、それでも魔物はベティーにまとわりついてくる。ベティーは小さな虫の魔物に少しずつ生気を奪われていた。今という時間が永遠とも思えるほど、とても長く感じられた。
減ることのない蝗の魔物の姿と、耳を塞いでも聞こえてくる羽音に、気が狂いそうになる。ベティーはとうとう立っていられずに、地面に座り込んだ。特将たちが口々にベティーを心配するように声をかけるが、その声に応えることができずに地面にへたり込んだ。
ベティーは必死に地面に手をつき、立とうとしたが、足が言うことを聞かなかった。恐怖で手が震えながらも、自分の足を撫でたりさすったりした。
「ベティー、大丈夫です。落ち着いて、ゆっくり呼吸をしてください」
レイスターはベティーにまとわりついていた虫の魔物をすべて払いのけてくれた。
「レイスター様」
「かなり大元の魔物の力を減らしましたから、もうすぐですね」
美しい顔がにっこりとほほ笑み、優しく肩を撫でて慰められる。どこか余裕を感じさせる言葉に、ベティーは思わず、恐怖も忘れて呆然とした。
「え? 減らす?」
「ベティー、この魔物の大群の源は何でしょうか?」
そうレイスターは質問だけを残し、ベティーから離れた。
ベティーは呼吸を整えながら、少し冷静になってレイスターの言葉の意味を考えた。無限に沸き上がるかのように見える蝗の魔物の群れであるが、しかし無限などあり得ない。レイスターはこれだけの軍勢の魔物を生み出している魔物がいるということを言いたのだろうか。
魔物とは別世界に存在する異形のものである。強大な魔物によっては、己のエネルギーを使い、魔物を生み出すことができると研究で発表されていた。強大な魔物はその大きさによりこの世界に出ることが困難である。そのため自分の分身を生み出して、この世界に送り出し、この世界に己のテリトリーを広げようとしていると言われている。
世界は常に魔物をはじき出そうとしている。体に合わない異物を吐き気とともに吐き出すように、強大であればあるほどこの世界は異物として認識し、自分の中から排除しようとする。強大な魔物は蝗のような形をした魔物を使って、この世界に出てくるための地ならしをしていると言うことだ。
「これがあの強大な魔物の一部であるならば、これを消滅させることはあの魔物の力も削いでいるということですか?」
ベティーの声が聞こえたのだろうか、アレスはこちらを見て、正解だというようにかすかに笑った。ベティーはアレスの笑みを見て、かっと顔が赤くなった。少し心が落ち着いてくると、周りを見ることができるようになった。全員が淡々と戦い、魔物の力を削いでいた。彼らは異界とつながっている黒い穴を完全に塞ぐために、この地とつながっている魔物との縁を断ち切る瞬間を狙っているのだ。
蝗の姿をした魔物がベティーに向かってきた。ベティーは両腕で己を守るために、頭を抱えてうずくまった。空を飛んでいた魔物がベティーに触れる前に、次々と落ちていく。いつのまにかベティーの後ろにはアレスがいた。アレスはすぐにベティーを後ろから抱きしめるように引き寄せ、魔物から遠ざけた。
「あ、あの」
美声が耳元で囁いた。
「魔物から守ると約束しただろう」
近い、近いです、アレス様。
心の中で叫んだだけだ。もちろん色々な意味で声が出なかった。力強い腕に抱えられながら、これほど安心できる場所はなかった。アレスは約束通りに守ってくれているだけで、それ以上のことはないことはわかっていた。でも、好きだから嬉しいと思う。
そこまで考え、ベティーは自分の気持ちに気が付いてしまった。
今、大変な時で強大な魔物が出現しそうな一大事である。そんなときにアレスを好きだという自分の気持ちが、恋だと自覚してしまった。
ベティーはとまどいながらも、わかってしまった。
好きという気持ちがわかるのは、時間も場所も、そして現在進行形で起こっている現状も関係なく、突然にわかってしまうものなのだ。
私はアレス様に恋している。
ベティーは綺麗なアメジストの瞳を見上げると、その瞳は後方へと注がれていた。
「後方にいる者たちも、かなりの数の魔物を葬っている」
アレスの言葉に後ろを振り返ると、遥か先で稲妻や炎が見えた。第二部隊と第三部隊の神将たちがあの場所で闘っているのだとわかると、ベティーは勇気が出た。ベティーは足に力を込めて立ち上がろうとすると、力強い手が上へと引き上げてくれた。
「アレス様」
嬉しさのあまりベティーの心臓が高鳴った。アレスの視線が上を向く。ベティーも見上げると、真っ黒だった空に少し青空が見えた。確実に減っているのだ。
恋の気持ちは後で考えれば良いことだ。本当に今ではないと、あまりにも能天気な自分の思考が恨めしかった。今考えることは、何かできることはないかである。ベティーは戦うことはできない。女神の力を神将に渡すこともできない。
できないことばかりだった。今、ここで自分はどうしたらいいのか、何をしたら良いのかを必死に考える。
ベティーはふっと考えることが違うことに気がついた。何かできることはないかと考えているから、何もできないと思ってしまう。そうではなく、今、自分はどうしたいのか、何をしたいのかを考えるべきだ。
ベティーの視点が切り替わると、黒い穴が目に入った。この黒い穴が異界とこの世界をつなぐ通路であり、あれを塞ぐ必要がある。強大な魔物の力は蝗の軍勢を減らすことで削がれていくのであれば、確実に力が弱まっているうちに早くあの黒い穴を塞ぎたい。
あの穴を塞ぐには何をしたらよい?
あの道は本来の道ではない。ただ魔物と縁がある土地に、強引に横から開けたようなものだ。
なぜ、これほどの魔物の軍勢が出現しているにも関わらず、強大な魔物が出てこないのか。それはこの世界に出てくるには不完全な穴だからだ。かつて起こったような隕石の衝突に比べれば、飛行機の衝突など小さすぎると言える。そして、時間も不完全であったに違いない。今日という日では時も近いだけでベストな時間ではなかった。
この世界に出てくるには、すべてが不完全であるということだ。あの穴はこの世界と異界をつなぐにはもろい穴かもしれない。
ベティーはアレスの服の袖を引っ張り、注意を自分に向けさせた。アレスが訝し気にベティーを見ると、ベティーは興奮した顔でアレスの服を握りしめた。
「アレス様。黒い穴の周りを集中して壊せますか?」
「異界との道を塞ぐなら、穴を壊すだけでは足りない。あの穴は強大な魔物とつながっている。今は強引に穴を閉じても、つながりを断ち切ることはできない。つながりを断ち切るには、あの虫が穴から出てこなくなるまで待つしかない。あちらにいる魔物の力を削ぎ落してから穴を閉じないと、あれはすぐにまたここを見つけだすだろう」
ベティーはまだ穴から出てくる虫の魔物と、この辺り一帯を覆うほどの黒い塊を見て、不利なのは神将たちの方だと思った。長引けば長引くほど神将たちの方が苦しくなっていく。
「アレス様、おそらくあの穴は、私たちが思っている以上にもろいのかもしれません。天から落ちたといっても小さいものなので、つなげる力としては弱いような気がします。この世界とのつながりを作るために手順を踏んだのかもしれませんが、どれも中途半端だと思います」
あの写真でわかるように、魔物は少し前からこの世界をのぞいていた。神話に登場するほどの強大な魔物でも、小さなひとかけらほどの己しか、この世界に出ることができなかった。ただ、あの場所からこの世界をのぞくことしかできなかったのだ。それが意味することは何か。
「奈落の王はかなり前からこの世界をのぞいていました。でも、のぞくことだけしかできませんでした。私たちが考えている以上に、こことのつながりが弱いのかもしれません。異界とつながりを断ち切る力を穴の淵に使ってください。今よりもつながりを弱めれば、あの魔物はもうこちらに出てこれなくなります」
アレスは静かにベティーの話を聞き、そして形の良い唇が美しく持ち上がり、楽しそうに笑った。
「Yes、ベティー」
その言葉にベティーは嬉しくて、恥ずかしくもあって、いろいろな気持ちでいっぱいになった。アレスはベティーを抱き上げると走り出し、レイスターの側に行くとベティーを降ろした。まるで瞬間移動したかのように、ベティーにとって一瞬のことであった。
「レイスター、ベティーを頼む」
レイスターが返事をする前に、アレスは風のように走り、黒い穴の上へと飛んだ。アレスの周りにいた魔物がすべて押し潰され跡形もなく消えていく。レイスターはベティーを庇うように肩を抱き寄せ、ベティーの近くにいた魔物を一掃した。
神将はそれぞれ持つ力が違っていた。ガイが炎を操る力に長けているように、レイスターが水、ダイオンが風、ジークフリートは光と、それぞれ魔物を滅ぼす力が違っていた。そして、アレスの力はとても珍しかった。
「アレス様の力は重力操作です」
ベティーは小さく呟いた。神将の中でも重量を操る力はとても珍しいと聞いたことがあった。ベティーもアレス以外にこの力を使っている神将を知らなかった。
神将たちが使う力で多いのが、火、風、水、地、空の五大要素である。それ以外の力では結界や浄化に特化した力を持つ者も多いが、重力操作は聞いたことがなかった。
そして神団の神将たちが必ず持っている力が異世界とのつながりを断ち切り、開いた穴を塞ぐ力だという。
ベティーの目には、アレスの体から陽炎のように紫の光が揺らめき、力が膨れ上がるのが見えた。そして轟音とともに一気に黒い穴の縁へ何万トンもの重力がかかった。
穴の縁がミシミシと音を立てると、物理的に土も崩れ落ちていき、周辺の次元が大きく揺らいだ。アレスは異界とのつながりを断ち切るように重力をかけたのだ。
「やはりです!」
ベティーは嬉しさのあまり声を上げていた。ベティーの目には黒い穴が大きく揺らぎ、異界とのつながりが弱まっていくのが見えた。ようやく黒い穴から無限に噴出していた蝗の魔物が途絶える。そして、これまで執拗にまとわりつくように動いていた蝗の魔物たちの動きが止まった。
「やったか!」
ダイオンの大きな声が聞こえ、特将たちは穴に向かって身構えた。一瞬の静寂の後、地獄の穴の底から轟音が響き渡り、ギチギチと不愉快な音がした。
ギチギチ
ギチギチ
人を不愉快にさせる音が、次第に大きくなっていく。
「何の音?」
ベティーは頭がおかしくなりそうになり、両手で耳を塞いだが、力づくで何かをねじ込むときに起きる擦れた音は消えなかった。壊れかけの穴の底から強引に何かがやってくる。
闇のように黒い瘴気が穴から噴き出すと、この世界を汚染した。
「うう」
ベティーは口元を抑え、吐き気と体の痛み、そして気が狂いそうな気持ちを抑え、自分の中の神の力に縋った。それは、ベティーが初めて体験する本物の恐怖だった。
怖い、怖い、怖い。
心臓が激しく波打つ。
怖くて、この場から逃げ出したい。
でも、足も手も体も動かない。
崩れ落ちそうな穴の中央に大きな黒い物が見えた。それは穴の半分ほどあり、かなり大きかった。ベティーはその異物から目をそらすことができなかった。
ギチギチ、ギチギチ、ギチギチ、ギチギチと絶え間なく聞こえてくる音。
穴の中央から出てくるものは何か。
ああ、あれは人の髪だ。それならあれは何かの頭なのか。ベティーは呆然と思った。
あれが穴から出てくるたびに縁が崩れていく。穴の縁が大きく崩れると、それがゆっくりと暗い穴から顔を覗かせた。
穴から出てきた者は黒髪で金の冠のようなものをつけていた。
美しい女性の容姿であったが、頭部だけが体の三倍近くの大きさがあり、あまりにも歪で醜悪であった。女の首から下は馬の体に羽を持ち、サソリの尾も持っていた。それは神話伝承で語られていた姿そのものであった。
古の悪魔が、この世界に姿を現した。
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