第52話 他にも方法が……
「い、いやだ……自力で……飲む」
「おお、良かった。意識が戻った」
李医師は南岩の介添えをうけて飲み干すと、「寝る」と言って、ぱたりと横になった。
何かあれば連絡を、と告げて退出しようとした時、南岩が周囲を憚るように話し出した。
「ついうっかり口を滑らせてしまったことをお許しください、小月様。回復された藩貴妃様に詰め寄られまして。意識が朦朧としていたのにどうやって水を飲ませてくれたのかと。どうやら漏斗を疑っておいででしたので、小月様が口移しで、と言わざるを得ず。衝撃だったようで顔を真っ赤にされておりました。なので、あれは正式な医療行為であると嘘をつきました。私以外誰も見ていないことを確認され、誰にも口外しないことを約束させられました。藩貴妃は自尊心の高い方ですので、もしや何かいやがらせをされるやも……」
「いやがらせ……」
視線が合った時にさっと目を逸らされているくらいしか、思い当たることがない。団扇で常に顔を隠しているので表情はわからなかった。今は藩貴妃と話し合う暇はないが、全てが落ちついたら謝罪したほうがいいだろう。
そしてその日の夕方、後宮に悲鳴が響き渡った。女官の一人が発症したのだ。後宮では胡貴妃と藩貴妃の二人が対策の指導していたが、それ以前に蚊に刺されていたのでは防ぎようがない。女官の間に恐慌が起こって、我先にと除虫草を毟り取っていったため、花苑は無残な状態になった。除虫草を手に入れられなかった者が小月のもとに殺到した。
小月は、まずは花苑を管理している女官の全宝を訪ねた。花苑を荒らされて落ち込んでいるかと思ったが、全宝はせっせと作業に励んでいた。
「虫除けの草が全部なくなってしまったと聞いたのだけど」
「ええ、まあ。酷い有様です」
「そのねっとりしたものは何?」
「少し前、雨が続いたことがあったでしょう。そのせいで土が腐って小蝿が大量発生したんです。だから……」全宝は作業の手を緩めることなく小月の問いに答えた。「このねばねばしてるのはもちの木の樹皮で作った粘液です。これを樹下や壁に塗っておくと虫がくっつくんですよ」
「虫がくっつく? これもそう?」
傍らの小鉢から酒の香りがする。
「実は私の実家は酒作りをしてまして。酒蔵には蚊がうようよいたんです。あいつら好きなんですよ、発酵の匂いが。これで誘き寄せましょう。小蝿も蚊も、一網打尽です」
「……はあ」
「どうかしましたか?」
「ううん、感心したのよ」
小月は心の底から感嘆していた。
思い浮かべたのは、胡貴妃の描いた絵、剣を握っていた皇帝。一閃のもとに疫鬼を成敗していた。現実ではこうはいかない。世の中にある知識や知恵は無尽蔵にあって、その一つ一つは小さな効果しか産まない。だが小さな砂鉄も、集めて鍛えれば立派な剣になる。
皇帝が振るう剣は、民の知恵であり、慈恵であり、恭順でもあるのだ。皇帝と民が同じ方向を向いているとき、剣は強度を増す。
「小月様、これを風呂の湯に混ぜると疲れが取れますよ」
ぼうっとしていた小月を案じたのだろう、全宝が果実を差し出してきた。小月は恭しく両手で押し戴いた。人の善意が嬉しかった。
宮廷は建物自体が大きく、水の溜まる箇所が多い。梯子を使って屋根に上り、崩れた壁を修復し、水が溜まらないように一つ一つを潰す仕事は宦官に割り振った。日が暮れても作業は続いた。
「思い出した!」進捗を確認していた小月が張包を呼んだ。「牢の中で蚊の翅音を聞いたわ。あそこは湿気がこもっていて排水が上手くいってない。牢内で繁殖しているのかも」
張包以下禁軍は血相を変えて牢獄に走った。
護摩祈願を明日に控えた夜、小月が特命長官になって初めての『流行り病対策会議』が開かれた。皇帝と左右の丞相、そして小月と張包、五人が政堂で膝を詰める。
張左丞相は南方の戦地での経験談を得々と語った。
「虫除けの草がないなら、このように、肌に泥を塗ればいいのです。その昔、南方の戦場で得た知恵です」
だから張親子は顔に土がついているのか。「汚れていますよ」と指摘しなくて良かった、と小月は思った。これで禁軍と張左丞相配下の兵は全員泥塗れになるな、と思いながらも採用した。
「除虫草の不足を埋め合わせる有用な知恵ですね」
すると藩右丞相が「さすがに泥がよく似合う。こちらにも妙計があるぞ」と、にやりと笑んだ。従者に運ばせた食器や祭具を卓に載せる。どれも黄金色に輝いていた。
「ほほう、相当溜めこんでいたな。私財を投じて国を救うとは感心しきり」
張左丞相は手を叩いた。乾いた泥が飛び散る。
「銅製品が買い占められて市場から消えたと聞きましたので、持参しました。飲み水用の水瓶を清水に保つには、小月殿が提案したように、銅製品を入れておくのが一番でしょう。後宮でお使いください」
秀英は食器を手に取った。「見事な装飾だ。さすが藩右丞相。しかし、どれも金製品に見えるが」
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