第30話 大漁

「陛下、ついでに伝染病調査の許可をください」


小月は盥を片手に、女官たちを模倣した優雅な礼をした。我ながら上手くできたと思ったのだが。


「ついでに許可できるものではない! まったく……」秀英は溜息をついた。


 何故か『手伝ってやれ』と言った秀英までもが、燈明を片手に小月についてきた。正悟殿を出て、他にいくつかの御殿を抜け、小月と秀英が再会した水晶宮を通り過ぎ、池に到着した。三人は池端を覗き込んだ。池といっても人工物だ。秀英の説明では、池は大海を模したもので、自然の万物は皇帝の掌上にあることを表現しているらしい。

 小月は水面に顔を近づけた。


「あ、やっぱり。ぼうふらがいない」


「鯨が食べるのだろう」秀英はまじめな顔で言う。


「陛下、鯨とは金魚のことですか?」張包がさらにまじめな顔で訊いた。


 宮廷に到着した日、黄太監の案内された宮廷のあまりの広大さに驚き、歩いても歩いても建物が近づかないことに痺れを切らして、駆けだした。石造りの橋上から池を見下ろしたとき、華やいだ金魚の群れは強く印象に残っていた。


「張包さん、金魚を捕まえられる? 藩貴妃のところの貯水桶に入れたいの」


 張包は「なるほど」と頷くと、盥で池を掬った。だが金魚はすいと逃げてしまう。「むむ」


 異変に気付いた金魚が四方に散っていく。数百匹はいそうだ。だが池は大きく、広い。張包は空振りを数度重ねたあと、一匹ずつ手で掬う作戦に変更した。が一匹捕獲すると他の金魚はその隙に遠くに泳いでいってしまう。効率が悪い。


「隅に追い込んだらどうだ?」秀英が助言した。


 隅に追い込むためには池の中に入らねばならない。


「では、武威を示しましょう」張包が池に入った。水深は浅く、張包のふくらはぎ程度だ。


「私も手伝う」小月は裙の裾を捲り上げて帯に差し込むや、池に飛び込んだ。ちょうど膝の高さに水面がある。バシャバシャと水音を立てて金魚を一か所に向かわせる。


「な、なんて格好を」膝下が露わになった小月に驚き、張包は慌てて目を背けた。


「冷たいけど気持ちいい。故郷の川で遊んだことを思い出すわ」


「では私も加わろう」秀英までもが同じように裾をからげて池に入った。「三人で追い込もう」


 月明かりの中、遠巻きに見守る衛士や宦官の姿が見える。皇帝と禁軍副統領と少女の三人が水遊びに興じている姿は奇妙に映るだろう。

 追い込み作戦は功を奏し、一掬いで沢山の金魚が獲れた。


「やった! う、わ」


 ばしゃん、と派手な水音を立てて、秀英が水面に沈んだ。足を滑らせたのだ。

 張包が秀英を池端に抱え上げた。宦官が大慌てで駆け寄って「陛下を早く宮中へ」と囲んだ。秀英は「大騒ぎするな。濡れただけだ」と宦官を退けようとしたが、皇帝がずぶ濡れでいることは彼らには耐えがたいことのようだ。


 小月と張包が呆気に取られている間に、数人の宦官に抱え上げられて、秀英は「お、おい、ちょっと待て。待てと言ってるだろう!」必死の抗議も虚しく運ばれていった。


「では我々も行きましょうか」張包が促し、小月は笑いを噛み殺しながら池から上がった。


「張包! 小月に手を貸してやれ──」遠くなっていく秀英の声。


 返事を返す間を張包に与えられないまま、秀英の姿は見えなくなってしまった。

 張包は小月に向き直ると、


「では、これを灯華宮に持っていけばいいですね、小月様」


「ありがとう。陛下のお心遣いはありがたいけれど、あとは自分でどうにかします」


 小月は盥を持ち上げようとした。だが地面に貼りついたようにびくともしない。


「お、思っていたより重いわね……」


 盥の中に五十匹近い金魚と相応の水が満たされている。よくよく考えれば重いのは当たり前だった。

 張包は無言で盥の両耳に手をかけ、軽々と持ち上げた。


「え?」


「私は鍛えていますので、腕力には自信があります」


「言葉遣いを戻さなくていいわよ。陛下もいないことだし」


「いえ、まあ、……そうさせてください」


「張包さんはやはり軍人なんですねえ。でも禁軍は戦場に行かないんでしょう」


「侮らないでください。いつ前線に送られても構わないように常に心掛けていますから。というよりは前線で活躍したいとさえ願っています。今しばらくは戦はなさそうですけどね」


「わからないわ。張包さんの気持ち。戦はないほうがいいのに」


 地を這うように暮らしている貧乏な人間には、戦争がもたらすものは不幸しかない。為政者が変わったところで底辺の暮らしは変わりようがない。どころか、戦費のために税金が増える。働き盛りが徴兵に取られる。運悪く戦場になれば農地も住む場所も失う。

 村の長老の話で、百年ほど前に、銅鉱山の所有をめぐって戦争があったと聞いたことがある。今は大毅国の領土が拡がり、国境線も山のずっとずっと向こうになった。


「もちろん戦争はないにこしたことはありません。陛下は戦争を避けるべく近隣諸国と和議を結んでいます。 我が国は国力がありますから脆弱な近隣諸国が戦を仕掛けてくることは考えにくいことです。だがどこにでも愚か者はいるものです。もし愚か者が現れたら容赦はしない。そういう意味です」

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