第26話 脱水対策
「そんな……侍女も?」
「当番の者だけが一日三回、盥に水を汲んでくるだけだ。みな恐れているのだ、未知の病を」
「それでは治るものも治らないわ。……そういえば南岩医師もお疲れですね」
つきっきりで看病しているのだろう。目の下にくまができ、頬がこけている。
小月は隣室に盥を発見した。「手伝います」
「手伝う?」
「小月様?」
訝しげな胡貴妃に小月は頭を下げた。「胡貴妃、ありがとうございました。自分の宮にお戻りください。私は今夜藩貴妃のそばにおります」
「危険ですよ」
「万が一私と藩貴妃が死ねば陛下は悲しまれるでしょう。ですから胡貴妃が罹ってはなりません。お戻りください。……陛下のために」
「わかりました。小月様も無理をなさいませんように。あ、忘れておりましたが、うちのところでは体調を崩した者は一人もいませんでしたわ」胡貴妃は名残惜しさと安堵がないまぜになった表情を見せたあと、踵を返した。
意識のない藩貴妃は人形めいていた。額に浮かぶ汗が人間の証だ。拭いても拭いてもじわりと滲む。首筋もじっとりと汗ばんでいる。
「着替えさせたほうがいいのでは?」
「侍女がいない」
「でもこんなに汗をかいて……衾も湿っています」
「汗を掻くのは体温を下げるための体の反応だ。下がる兆候だろう」
「でも震えてる。まるで真冬の小鳥のよう」
「……お前は病が怖くはないのかね」南岩が小月に茶を勧めた。医師自ら淹れた滋養強壮茶だという。「せめてこれを飲みなさい。私も飲むから」
「南岩さんは休んでください。私は体力には自信がありますから」
「宦官のほうは死んだそうだな。貴妃よりも前から具合が悪かったらしい」
「南岩医師が診察を?」
「いや、誰も診ていないようだ。ずっと一人で官舎に籠っていたらしいぞ。蚕室の雑用係で藩貴妃との接触は一切なかったそうだ」
「ということは、その人から伝染ったのではない。じゃあどこから……」
「藩貴妃には一応訊いた。動物に噛まれたとか、珍しい物を食べたとか、病気の者に触れたとか、そういった覚えは全くないそうだ。運悪く偶然空から降ってきた疫病に侵されたとしか思えん」
小月は南岩医師をしげしげと眺めた。「雨に悪いものが混じっていたとか?」
「なに、ただの例え話だ」南岩はくしゃと顔を歪めた。「考えると腹が減る。良かったらこれでも食べなさい」
南岩は懐から胡麻の菓子を出した。徹夜に備えた携帯食料らしい。
「私の好物なんだ。滋養豊富だ。しかも美味い」
「では遠慮なく」小月は半分だけ食べると残りを返した。「あとは南岩医師の分です。美味しいけど水分がほしくなりますね。あ、水分といえば、排泄はありますか?」
「は、排泄?」
「藩貴妃です。おしっこ出てますか? あれだけ汗をかけば体中の水分がなくならないかしら」
「熱が上がる前、昼頃に一杯の茶を召し上がったが」
「それだけでは足りないでしょう」
小月は飲みかけの茶を持って枕もとで話しかけた。「体を少し起こしますね」もちろん返事はない。
茶碗のふちを貴妃の口元にあてる。歯があたってカチリと音がした。茶は溢れ、貴妃の胸元を濡らす。
「ああ……」
「意識がないのだ。難しいだろう。だがようやく汗が引いてきたみたいだな」
「でも体は凄く熱い」
「それは……まずいな。脱水症状だ」
南岩は皺深い顔をくしゃりと歪めた。
「口をこじ開けて流し込んでみます?」
「私は貴妃に触れるわけにはいかないのだ。それに肺腑に入ったら大変だ」
南岩は首を振った。宮廷医とはいえ、後宮の女性に触れてはいけないらしい。許されているのは脈を取るとき、手首に人差し指と中指の二本を軽く載せるだけだという。
「緊急事態なのに何を言ってるんですか!?」
「いや、しかし……」
南岩は目に見えておろおろし始めた。
小月は貴妃の口に指を入れて隙間を作ろうとした。僅か指一本分のそこに椀をあてがう。
「あ、喉が動いた。少しだけ飲めたみたい」
だが殆どはこぼれてしまう。喉が動くのなら嚥下出来るはずだ。小月は椀の水を自分の口に含んで藩貴妃の口に被せた。
「ひー--」南岩が笛のような声を出した。
こくり。藩貴妃の喉が上下した。小月は二口目を含ませた。
「わ、私は何も見ておりませんよ」南岩が面を伏せた。
「お茶がなくなったわ。また作ってください。出来上がるまでは水を飲ませましょう」
小月は灯華宮を探索して水瓶を見つけた。幸い綺麗な水だった。瓶に蓋を被せようとしたとき、蚊が飛び込んだ。
「あ、もう!」小月は過たず手のひらで蚊を仕留めた。
寝室に戻ると、南岩は茶を煎じに行ったらしく、藩貴妃が静かに寝台に横たわっているだけだった。その額に蚊がとまっている。ぺしり。
「ごめんなさい。蚊を叩いたのよ」
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