第15話 私には無理

 その日の夕方、小月は筆に触れてみた。墨を擦るのが得意だという黄太監に師事してもらいながら、文房四宝に初めて臨んだ。


「ああー」


 ぽたりと墨汁が紙に落ちて、じわと滲む。手が震えてまっすぐに線を引くのさえ難しい。憧れの胡貴妃に近づくのは容易ではなさそうだ。


「小月様、墨をつけすぎです。もっと、こう加減して。……ところで、お心は決まりましたか?」


「ああー」ぽたり。「会心の梅の花が……」


「梅? 饅頭かと思ってました」


 小月は筆を置いて、黄太監に向き直る。


「黄太監、あなたは私が皇后になるのは反対でしょう」


「はい」


「私も賢明だとは思えない。秀英を哀しませたら申し訳ないけど」


「断る気ですか?」黄太監は意外だと顔で語った。


「読み書きのできない下層民だもの。私が皇后になんかなったら、秀英が笑われる」


「天子の寵に頼るのかと思っていましたよ」


「ずっと悩んでいるの、知恵を貸して。下手に断ったら傷つけてしまいそうなんだもん」


「……見直しました、小月様は意外と……」


「意外と?」


「身の程を知っていらっしゃる。ただの馬鹿ではないようだ」


「それ、褒めてない」


「いえ、褒めております。ただし、まずは字の読み書きを練習すべきでしょう。絵を描くのではなく。故郷に戻られても、ご自身の名前を書けるようになっておいて、損はありませんよ」


 黄太監はすらすらとお手本を書いてくれた。


「明小月。私の名前には月が二つあるのね」


 手や顔を汚しながらも、小月は一晩の修練で完璧に名を書けるようになった。そうなると他の字も覚えたくなる。翌日は朝から筆を握った。

 集中していると余計なことを考えなくてすむ。


「黄欣、黄太監の名前ね。安梅、韓桜、と。画数が多くなると難しいわ」


 黄太監と侍女たちはそんな小月を微笑ましく見守った。ときどき「筆をもっと立てて!」「棒が足りない!」と声援を送りながら。




「ほう、それで書けるようになったのか。すごいじゃないか」昼餐の席で、秀英は小月の成長ぶりを褒めた。「私の名前がないようだが……」


「あ、それは、黄太監が秀英と書くのは畏れ多いからって手本を書いてくれなくて」


「そうか」


「それから、見て、見て。胡貴妃の絵手本。才能の塊」


「ほほう。これは素晴らしい」


 胡貴妃の手本の間に、小月は自分が描いた秀英の似顔絵を紛れ込ませていた。案の定、秀英は手をとめ、しばらく眺めた後、爆笑した。


「これは傑作だ。黄太監だな。ひしゃげた鼻、細い目、満月のような顔、よく似ている!」


「……秀英は胡貴妃の絵を見たことなかったの? あ、そういえば藩貴妃は舞が得意なんでしょ。見たことはあるの?」


「いや、ないよ」


「どうして?」


「……むやみに近づくのは……うん、まだ早いし……」


「でも一か月も前に入宮してるんでしょ。同衾は……別としても、もう少し親しんでもいいんじゃないの?」小月は口ごもりながら訊ねた。


「小月、きみは……」秀英は眉を寄せた。「もし私が呼び寄せていなかったら、いずれ別長郷の男と結婚する気だったんだろう?」


「……おそらく、そうなると思う」


 結婚なんてまだ先のことだと思っていたから、考えたことはないけど。結婚して子供を産んで、両親のように畑を耕して、祖母のように老衰で死ぬだろう。祖父のように酔って川に落ちて死ぬのは避けたい。想像できるのはその程度だ。貧相な想像力は我ながら侘しい。


「秀英が皇帝陛下だなんて、すごく驚いた。いい土産話になるわ」


 秀英は突然立ち上がった。皿が落ちて砕けた。


「駄目だ。村には帰さない!」


 秀英は小月の肩を掴んだ。小月は秀英を見上げ、叫ぶ。


「でも、私には自分が皇后になる姿なんて想像できない!」


 小月が断った最大の理由がそれだった。


 自分には皇后になる資格も器も能力もない。秀英の足手まといになる。いつか必ず、秀英の汚点になってしまう。

 秀英のことは好きだ。その気持ちに偽りはない。だが大切な人だからこそ離れることを選ぶのだ。


「それなら、私が皇帝になるなんて想像できたか、小月!」


「それは……」


「……陛下」黄太監が秀英のそばによって耳打ちをする。「解決策がひとつだけございます」


「申せ」


「小月様を皇后ではなく嬪または貴人……うーん、才人か……つまり低い位階で入宮させるのです。皇后には藩貴妃か胡貴妃のどちらかが繰り上がればよろしいかと」


「う……む。しかし……」


 秀英は腰を下ろした。侍女が素早く割れた皿を片づける。


「私は、小月に対する愛情を、皇后に冊封するという形で表したいのだ」

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