第13話 逡巡
小月が寝泊まりしている平寧宮は皇帝が政務を行う正悟殿を正面にしたとき、右に曲がった位置にある。小月は正悟殿の階の前で足を止めた。閉じられた扉を見やる。扉の両脇には衛士が控えていた。
「この扉の向こうに秀英はいるのかしら」
「小月様、この扉は向こう側……陛下の側からしか開きません」
「え、そんなことはないでしょう?」
「物理的な意味ではありません」
安梅が説明する。ここは皇帝が後宮に出入りする正式な通路らしい。下位の女官や宦官などは東西の端にある回廊を使う。回廊といっても馬車が通るほどに広い。ただし、特別に許可がある者しか通ることは出来ない。通常は禁軍指揮下の衛士が門扉を閉めている。
後宮への出入りは極端に制限されている。
「へええ」
小月が関心していると、その扉が開いて、中から見知った顔が現れた。
「あら、張包さん!」
「あ……」
張包は小月を認めると、扉に隠れるように後ずさった。
「え? 張包さん?!」
小月は脱兎のごとく階段を駆け上がり、閉まりかけた扉を手で押さえた。侍女が仰天し、衛士も吃驚した。反対方向の力が拮抗して、扉がカタカタと揺れる。
「何してるんですか。ああ、危ない。手を挟みますよ!」
「なんで逃げようとするんですか。酷いわ!」
張包は溜息をついて、扉を開いた。渋々のていで姿をあらわす。
「逃げるなんてとんでもない」
「こんなところで会うなんて奇遇ですね」
「ここが職場です。後宮と陛下の身辺の警護が私の務めですから」
侍女達が小声で小月に囁く。「小月様、相手が禁軍であっても妃嬪や女官が男性に話しかけるのは御法度です」
「どうして? 黄太監はいいのに?」
「宦官は男性ではありませんから」
安梅の言葉に、韓桜も左右の衛士も、張包も、首を縦に振る。
「でも私は妃嬪ではないわ」
「……入宮されたのでは?」張包は訝しげに小月を見た。
「やっぱり私が秀英に呼ばれた理由を知っていたのね、張包さん」
「しまった、つい余計なことを。もう小月様とは話をしません。金輪際、私に近づかないように」
まるで迷惑だと言わんばかりの表情が腹立たしい。
「そんなこと言うわけ、命の恩人に」
「命の恩人?」
「そう。張包さんの首が今も胴体とくっついているのは私のおかげでしょ」
「……なるほど。借りがあるな」
「でしょ?」
「おい、なんでこんなに渋滞しているのだ」
「陛下!」
小月以外の全員が一歩下がって一礼した。
動線には小月と秀英が残された。磁石のようにぴたりと視線が合う。呼吸が止まりそうになって眼を伏せた。
今になって急に意識するなんて。意識すればするほど恥ずかしさが募る。
秀英はまっすぐに小月に向かって歩く。小月の胸は高鳴った。
「昼餐を共に、と言っただろう。今から平寧宮に行く。小月、一緒に歩こう」
春の陽射しを連想させる秀英の笑顔。小月の頬はほわんと温かくなった。
卓を二つ並べ、豪華で盛りだくさんの昼餉をいただく。傍らには侍女と黄太監が給仕のために侍る。揚げ鶏の甘酢和えのあまりの美味しさになかば恍惚となりながら、小月は窓際の二鉢を指さした。
「その草、覚えてる? 故郷の草原にたくさん生えていたでしょう」
「覚えている。小月はよく寝転んでいたな」
「ひと鉢は秀英用よ。寝台のそばに置いておくと虫よけになるから」
「虫よけの草か。それは重宝。といっても宮城には虫はあまりいないけれどな。あ、これを食べてみろ、私の好物だ」
秀英がすすめたのは羊肉を葡萄酒で煮込んだ料理だ。
小月は初めて食べる滋味に頬をおさえた。
「ほっぺたが落ちそう。お肉、柔らかい」
小月の素直な反応に、秀英は満足げに微笑んだ。
「皇后になる覚悟はできたかい、小月。私を長く待たせないでおくれ」
「承諾する前提の話し方はおかしいんじゃないかしら。昨日の今日でしょ」
ときめきを抑えながら小月は、もう一口頬張った。
「毎日こうやって美味い飯が食えるんだぞ。贅沢のし放題だ。何を迷う」
「……それは、幸せなことだけど。でも、相応の値を支払わねばならないといけないし」
「相応の値?」秀英は不思議そうな顔した。
「与えられて当然だとは思えないの」
「小月。気にしなくていい」秀英は快活に笑った。「皇帝に愛されているのだから堂々としていればいいんだ」
皇帝の言葉に、小月の頬は朱に染まった。
顔色一つ変えずに愛を語る秀英。小月の胸の中で銅鑼が鳴る。大音量の連打。嬉しくもあり腹立たしくもある。
侍女はこっそりと拳を握り、黄太監は無表情を貫いている。
「……でも、すでに貴妃様が二人もいるじゃないの」
「彼女たちとはまだ床入りしていないんだ。初めては小月がいいなと思っていて」
「う……!」
直接的すぎる言葉。銅鑼が壊れる。思わず目をそらした。
「小月、覚えておいてもらいたいんだ。私は今後も妃嬪を迎えることになるだろう。だが私の意志ではないんだよ。皇帝としての務めなんだ。私が愛しているのは小月だけだ。私の気持ちだけでも理解してほしい」
「……うん」
小月は唇を噛んだ。
なぜこんなにも居心地が悪いのか。
私も秀英が好きだ、と言えたら楽なのに。言葉はなぜ喉を越えていかないのか。
好意を直截に表してくれることは嬉しい。今にも舞い上がりそうになっている自覚もある。だが黄太監が思い描くような『強く賢く麗しい皇后』など私には無理なのだ。
強くもなく賢くもなく麗しくもない皇后でいいのかと訊ねたら、きっと秀英はこう言う。『もちろんだ。小月は今のままでいい』
その台詞を秀英に言わせることは、罪なのではないだろうか。
それとも自分が重苦しく考えすぎなのだろうか。
秀英の想いに応える前に、いっそ難しい課題を与えてくれたほうがありがたい。どう伝えたらわかってくれるだろうか。焦らすような真似はしたくないのに。
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