紫帯の浴衣

 浅草で花火大会があるからと下駄を履き黒い縦じま模様の浴衣に紫帯姿で電車に乗る。

 渋谷からは浅草行きではなく隅田川を挟んで反対側の押上行きに乗り込む。

 土曜日とはいえ夕方だからか混んでいた。白い浴衣に青い朝顔の絵柄が入っているおそろいの紫帯を締めた彼女がはがされぬように必死に手をつないでくる。

 列車は走りだし表参道を越えて青山一丁目へ走り出す。車内には乗客が激しく乗り降りを繰り返す。

 その度に車内奥の方に追い込まれそうになる。彼女がどんどん奥の方へ動かされている。何としても必死に守り抜かないといけない。

 皮肉なことに列車は永田町、半蔵門、九段下と近くの企業に土曜日出勤であっただろう人たちや同じ花火目的であろう人たちも乗ってきている。

 その度に奥に押し込もうとしてくる人たちがいる。一度下りたら再び乗れないかもしれない、次の列車もすぐ来るとは限らない。

 大手町駅に到着した。

 すると車内からたくさんの人が下りてくる。彼女ともちろん僕が流されないようにしっかりと抑え乗り込んだ時と同じ位置をキープする。

 周りの舌打ちも聞こえるが押してくる人たちがいけない。第一、危ないではないか。

 今度は同じ数だけ乗り込んでくる。

 またしても僕はしっかりと彼女を抱き寄せて背中で乗り込んでくる人たちのアタックに耐える。ここで流されてしまっては彼女から見て恥ずかしい彼氏になるだろう。

 無事にドアが閉まり、列車は動き出す。

 離れることができるほど前後にスペースがない状態となりまさしくすし詰め状態の列車である。しばらく彼女を抱き寄せておくしかない。

 俺しかこいつをちゃんと愛せないし、守ることができないはずだ。


 電車は水天宮前に到着する。駅名の通り安産祈願の神社の最寄り駅。

 私がここのお守りを必要とするときには誰がいるんだろうか。少なくとも今から一緒に花火を見に行こうとしている男ではない。

 さっきから混雑しているから奥に行こうと声をかけてもスマホに夢中。仕方ないから押したら木偶の坊みたいに突っ立っている。

 さらには大手町で急に抱き寄せてきた。

 大学で知り合った彼氏で一緒に赤坂でデートをして近くの町にまで引っ越したが近くに住み始めて日替わりで行き来するうちにどんどんそっけなくなってきた。

 汗臭さと新品の衣類特有のにおいに抱き着かれて逃げることができず、耐えつつ電車は清澄白河に到着する。

 日を重ねるごとにそっけなくなり、最初のころはレストランの店員などにも優しかった彼氏がどんどん店員にも不愛想になり、不快なことがあれば私にあたるようになってきた。

 さすがに我慢も限界である。

 電車はすでに住吉、錦糸町を出発した。少しスペースができ、抱き合う必要性がなくなり、お互いが離れる。


 押上の駅に到着しドアが開くと同時に男が話しだす。

「ここから北十間川沿いを歩いて隅田川に向かうよ」

 答えるように女が話す

「私は浅草線に乗るから気を付けてね」


 やっと今の彼氏と別れることができる。「おそろいね」と言って買わされた一本の男性浴衣向け帯を捨てて、ずっと使い慣れている黄色い女性浴衣向けの帯にトイレで付け替えて私は隅田川を渡り反対側から花火を眺めた。

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