第30話
九月の後半に入ると、秋雨前線の影響でぐずついた天気の日が多くなり、最後の月曜日も朝からずっと雨が降っていた。
週に一、二日は藤田と『たけのしろ』へランチに行くのがすっかり定着していたのに、先週は一日も足を運べなかった。そして、今日も傘のいらない地下街に行き、とんかつ屋で買ってきた弁当を仕事場で食べることになった。
「まだ、時間いいですか?」
冷房があまり効いていなかったため、弁当の容器を捨てるついでに、エアコンの操作パネルを見に行っていた藤田が、少し遅れて弁当を食べ終えた僕の背中に声をかけてきた。
「あぁ、いいけど」
午後二時半を過ぎた休憩スペースには、僕たち二人以外に誰もおらず、藤田は僕の方に少し椅子を寄せてから座り直した。
「えっ、何?」
「僕もついに、そういうときが来ちゃいましたよ」
「そういうとき……?」
「親から、見合い話を持ちかけられました」
「えっ、そうなの?」
「僕も耳を疑いましたよ」
「それで、見合いするの?」
「いや、断ってもらいます。うちと取引のある会社の人からの紹介なんで、とりあえず話はしたけど、父もそんなに乗り気じゃなかったみたいです」
「じゃあ、とりあえずは一安心、でいいのかな?」
「まぁ、そうですね。でも、そろそろ結婚も考えたらどうなんだ、って言われました」
「僕まで耳が痛くなる言葉だなぁ……」
僕がしみじみと呟くと、藤田は小さく笑いを漏らした。
「藤田君ってさぁ、本当に恋人いないの?」
「えっ、何ですか、いきなり」
「今の話の流れなら、いきなりでもないと思うけど」
「恋人は、いません」
「信じられないなぁ……」
「でも、ずっと好きな人はいます」
「えっ、そうなの?」
「誰なのかは言いませんけど」
「そこまで言って、それはないだろ」
「でも、ゆくゆくは話すことになると思いますから」
並んで座るカウンター席の正面にある窓から薄日が射してきて、いつもより少し短めに髪を切ったばかりで、端正さが増したように思える藤田の横顔を明るく照らした。
「えっ、どうしました?」
「あぁ、いや……」
藤田に視線を向けられ、僕はその横顔に見惚れていたことに気付いた。
「男前だなぁ、って見惚れてた」
「何言ってるんですか、もう……」
「ごめん。でも、本当のことだから」
「そんなこと言われたら、意識しちゃうじゃないですか」
照れ臭そうに言う藤田の表情は、どこか幼さを感じさせるもので、それもまた僕の目を惹き付ける。
「濱本さん、ゴールデンウィークに見合い話を持ちかけられた、っていう話をしたじゃないですか」
「あぁ、したね」
「その話を聞きながら、松尾君とのことを知らない濱本さんのご両親にしてみたら、こんなちゃんとしてる息子が、結婚して、子どもができて、幸せな家庭を築く、っていう人生を送れてないことが、もどかしくて仕方ないのかなぁ、って考えてたんですよ」
「僕がちゃんとしてる息子かどうかは別として、親がもどかしく思ってるのは間違いないだろうな」
「僕だって、松尾君との話を聞くまでは、濱本さんが結婚してないことが、ちょっと信じられない、っていうか、不思議でならなかったです」
「あぁ、そうだったんだ」
「それ相応の理由があるんだろうな、っていうのは、何となく思ってました」
「まぁ、それ相応の理由はあったことに……なるのかな?」
「そうですね」
「じゃあ、そういう理由でした、っていうことで」
僕はおどけたように言ったのだけど、藤田はすぐに言葉を返してくることはなく、二人の間に沈黙が流れた。
「松尾君と別れた後、どうするつもりなんですか?」
少しだけ残っていたペットボトルの緑茶を飲み干してから、藤田が静かな口調で聞いてきた。
「えっ……?」
「あぁ、すいません。幸せに付き合ってるのに、そんな話するもんじゃないですよね」
「いや、でも、ふと考えることはあるし、そのときに感じる不安は、少しずつ大きくなってるような気がする」
「次に誰かと付き合うとしたら、やっぱり、男性ですか?」
「女性っていうのは、ちょっと考えにくいかなぁ……。まぁ、それ以前に、次があるかどうかなんだけど」
「でも、濱本さんだったら……」
そこで言い淀むと、藤田は目を伏せた。
「僕だったら……?」
「あぁ、いや、すぐにいい人が見つかりますよ、とか簡単に言うことじゃないよなぁ、って思って……」
「まぁ、簡単じゃないことだからね」
「それに、松尾君とは、好きじゃなくなって別れる、ってわけでもないですしね」
「だから、松尾君のことを引きずって、一人の状態からなかなか抜け出せない、この可能性が一番高いんじゃないかな」
藤田は微かに頷いただけで、再び二人の間に沈黙が流れた。藤田と友達になってから、初めてと言っていいような状況に、僕は戸惑いを覚える一方で、期待に胸が高鳴るのを感じ始めていた。
次に付き合うの、僕じゃだめですか?
都合のいい妄想だと分かっていながらも、今の状況だったら、藤田がそんなことを言ってくれてもおかしくないように思えた。
さすがに少し気まずくなってきて、僕が顔を向けると、藤田は軽く噛んでいた唇を微かに開いた。
「藤田、そろそろ準備しようか」
すぐに聞こえてきたのは、藤田の声ではなかった。
「はい。すぐ行きます」
藤田が快活な声で答えると、藤田より二つ年上の同僚は僕に小さく会釈をしてから、会議室の方へと歩いていった。
「三時から打ち合わせなんです」
「あぁ、そうなんだ」
「何か、話、中途半端になっちゃって……、すいません」
「ううん」
椅子から立ち上がった藤田に、僕は何でもないように小さく首を振った。
「じゃあ」
藤田は背中を向けると、早足で歩いていったのだけど、休憩スペースから出る手前で振り返った。
「あぁ、捨てとくから」
僕はカウンターに置いたままのペットボトルを手に取り、藤田が戻ろうとしたのを制した。
「すいません」
申し訳なさそうな表情で手を合わせる仕草をしてから、藤田は小走りで戻っていった。その姿が見えなくなると、僕はカウンターに向き直った。窓越しに見える空は灰色の雲にすっかり覆われていた。
僕は椅子に背をもたせかけ、そっと目を閉じた。何かを言おうとしていた藤田の横顔を脳裏に浮かべようとしたのだけど、どうもうまく行かなかった。僕は小さく溜め息を漏らし、目を開いてから、藤田が置いていったペットボトルを再び手に取った。
藤田がいつも飲んでいるため、見慣れていたラベルをぼんやりと眺めているうちに、間接キスという行為がふと頭に浮かんできて、僕はキャップをゆっくりと回し開けた。そして、どこか艶があるように見える飲み口に、唇を近付けていった。
しかし、やっと唇が触れたところで、ドアが閉まる音に続いて、弾んだ声で話す女性二人の足音が近付いてきたので、僕は反射的に飲み口から唇を離してしまった。
女性二人はそのまま休憩スペースにやって来て、僕の席からは少し離れたテーブル席に座った。耳につくような話し声ではなかったのだけど、ほどなく居心地の悪さを感じるようになった。
僕は間接キスへの未練を断ち切るように、キャップを気持ち固く閉めると、椅子から立ち上がった。
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