それは、初恋が叶う前の恋だった
大河まさひろ
第1話
クレンジングの薬剤を髪全体になじませ、ビニールキャップを頭にかぶせると、松尾は頭上で回転する円形のヒーターが付いたスタンドを、僕が腰かけているチェアの背後にセットした。
「では、浸透させますので、このまましばらくお待ちください」
「はい」
僕は目を閉じたまま小さく頷き、松尾が傍らから離れたのを靴音で判断すると、深い溜め息をついた。
今日は会話があまり弾まなかった。
一ヶ月後に迫ったゴールデンウィークについて、僕はまだ仕事の休みが確定していないこと、松尾は定休日の月曜を除いてフルで働く予定であることを話した以外は、客とスタイリストに必要なやり取りしかしていない、と言っても過言ではないほどだった。たまに開いた目でちらりと見た、髪を切る松尾の表情は、いつもと変わらないように思えたのだけど、目には見えない心境はいつもと違っていたのかもしれない。
その理由を思い巡らせていると、隣のチェアで待っていた、年配の常連客に挨拶をする松尾の声が聞こえてきたので、僕は反射的に耳を澄ませた。
「オーナーから聞いたよ」
「えっ、何をですか?」
「結婚、決まったんだって?」
「あぁ……、はい」
控えめな声で肯定する松尾の言葉に、僕は言葉にならないような声を漏らした。
「来年の秋、って聞いたけど……」
「そうですね」
鏡に映る自分の姿がふと視界に入ったのだけど、その表情を見たくないという気持ちが働き、僕はすぐに目を伏せた。しかし、眼鏡をかけていなかったので、それはあまり意味のない行為だった。
「彼女がいるって話、全然聞いてなかったから、これまた急な展開だなぁ、って驚いちゃったよ」
「あぁ、そうですよね」
ヒーターで温める時間が終了したことを知らせる電子音が鳴った。次の客が来ていないときは、松尾が続けて薬剤を洗い流すシャンプーをしてくれる。しかし、スタンドを片付け、回転させたチェアを倒したのは、去年の暮れあたりから顔を見るようになった女性アシスタントだった。
「何か、あんまり嬉しそうな感じがしないんだけど……」
「えっ、そうですか?」
「まさか、マリッジブルー?」
「いや、そんなんじゃないですよ」
すっかり動揺していたせいもあって、おめでたい話なのに、松尾はどこか浮かない様子であることに、僕は今になってやっと気が付いた。
「来年の春には、実家に戻るんだってね」
「そうですね」
「ここは、来年の三月まで?」
「そうなります」
「あと一年しかない、まだ一年はある……。やっぱり、あと一年しかない、って思っちゃうなぁ……」
「そんな、寂しくなるようなこと言わないでくださいよ」
シャンプーが始まると、シャワーから流れ出るお湯の音や、頭皮と髪を揉むように洗う音に遮られ、二人の会話は聞き取りにくくなった。そして、松尾の結婚と退職を知って精神的な打撃を受けた僕は、そのまま気が遠くなってしまった。
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