第9話・華美さんを追いかけて

 そして、清掃業者が入るその日。

 いつもより早く家を出て休日の学校へ向かうと、僕はまっすぐに教室ではなく旧校舎のプールへ向かった。

 その場所は相変わらず湿気が漂い、黴臭が充満している。

「……よかった」

 清掃業者は来ていないようだ。変わっていない風景に、僕はとりあえずホッとした。


 昨日、二度寝屋と作戦会議をした。

 二度寝屋は僕の夢に出てきたその疫病神の正体を、天邪鬼あまのじゃくだと言った。なんでも、合コンで一度顔を合わせたことがあるらしい。

 二度寝屋の話によると、天邪鬼は人の不幸が大好物で、特にいつまでも煮え切らない態度の男女の仲を強引に引き裂くのが趣味だという。

 つまり、人の嫌がることをするということ。

 僕が華美さんと離れたがっていると知れば、逆になにもしてこなくなるだろうという予想で、一芝居を打つことにした。


「二度寝屋の予想は当たったみたいだけど……」

 僕は華美さんを探して走り回った。

 本来いるはずの華美さんがいない。どこを探しても、どんなに黴臭い場所を覗いても。

「……華美さん?」

 じんわりと冷や汗が滲む。

「なんでいないんだよ……」

 もしかして、あのあやかしを騙せなかったのか?

 嫌な予感が脳裏を過る。

「華美さん! 華美さーん!」

 声の限り彼女を呼ぶ。


『あの女はもう時期消えるのだ』


 夢の中の天邪鬼の言葉が脳裏に蘇る。

 もう二度と会えないかと思うと、胸がはち切れそうに痛んだ。

 汗や黴で汚れていく体など気にもせず、ただひたすら旧校舎の中を走り回り、華美さんを探した。

「華美さんっ! どこ!?」


 最終的に辿り着いたのは、旧校舎の音楽室。

 しかし、この音楽室は未だに楽器が保管されているため、ここだけはしっかり清掃されていたはず。こんな綺麗な場所に華美さんがいるわけはないけれど、この場所以外はすべて探した。


 もしここにもいなかったら、彼女は本当に……。


「……華美さん?」

 音楽室には、規則正しいメトロノームの音が響いていた。

 グランドピアノが、ひとりでにポロロンとメロディとも言えない悲しげな音を奏でる。

 壁に飾られた肖像画の霊たちの視線を感じながら、僕は華美さんの姿を探した。

「……荒矢田君?」


 ――その声に振り向くと。

 彼女はグランドピアノの陰から現れた。どうやら、グランドピアノを鳴らしていたのは彼女だったらしい。

「華美さん……どうしてここに?」

「……荒矢田君こそ」

 問い返され、僕は目を泳がせる。

「……僕は、華美さんを探しに」

「華美を?」

 華美さんは、大きな瞳をさらに大きく見開いた。そして、ハッとしたように僕に駆け寄る。

「体調はもう大丈夫ですか?」

「うん……。もう元気だよ」

「……そうですか」

 彼女はホッとしたように頷いた。

 沈黙が流れ、メトロノームの音だけが二人の間に響く。


 居心地の悪い静けさに、僕は意を決して口を開いた。

「ごめん」

 華美さんは顔を上げ、僕を見つめた。

「……どうして謝るんですか?」

 いつもと違う気を使うようなひっそりとした彼女の声に、僕は喉を鳴らした。

「…………華美さんにひどいことを言ったから。傷付けて、ごめん」

 すると、華美さんはふるふると首を横に振った。

「……違います。荒矢田君はなにも悪くないです。華美が迷惑かけたからですよ」

「迷惑なんて思ってないよ!」

 強く否定すると、華美さんは悲しげに笑った。そして僕から目を逸らし、背中を向けて歩き出す。


 そして、ピアノの鍵盤を鳴らした。静かに澄んだ空間に、一音がまるで光の泡が弾けるように響いた。

「……華美は、荒矢田君が潔癖症だって知ってましたよ」

 ぽつりとした小さな告白に、僕の胸はドキンと弾んだ。

「え?」

「去年の入学式の日、誰よりも早く来てこっそりみんなの机をアルコールで拭いてたり、壁に黴がついていたらハイターで除菌してたでしょう?」

 僕は目を見張る。

「見てたの……?」

「はい。華美は入学する前から旧校舎のプールに住んでましたからね。あそこからは、ちょうど華美たちの教室が見えるのです」

「あ、そっか……」

「初めはただ、綺麗好きな人なんだなって思いました。だから、華美はちょっと苦手かもって。でも、荒矢田君は華美の机を消毒しませんでした。あ……もちろん、華美だけじゃなくて、それぞれのクラスメイトの個性を尊重したような掃除の仕方をしていて。まだオリエンテーションでしか顔を合わせていないはずなのに、もうみんなの特性を覚えてるんだって、驚きました」

「あれは……早く馴染めるようにって」

 よりによって華美さんに見られていたなんて恥ずかしい。顔を赤くする僕に、華美さんはにっこりと笑いかけてくる。

「華美は入学式より前に、荒矢田君のことが好きになりました」

「嘘……」

 華美さんの告白に、僕は瞳を見開いた。

「でも、華美の想いは届かないって分かってました。荒矢田君にとって、黴の付喪神である華美は天敵です」

「……そんなことは」

「それでもなんとか荒矢田君と仲良くなりたくて、でも話しかけられなくて……それで、友人に頼みました」

「友人?」

「二組のサキュバス・先場さきば蓮子はすこに、荒矢田君の夢の中で華美の姿に化けてもらって、常識の範囲内で荒矢田君を誘惑してほしいって」

「は!?」

 華美さんは顔を真っ赤にして俯いている。

「…………あの悪夢はそういうことでしたか。なかなか大胆なことを……」

 しかも一年半もの間、毎日とは。

「でも、失敗でした。蓮子はイタズラ好きで、最後にはいつも荒矢田君が華美をトラウマになるようなオチをつけたと言っていましたし……あ、でも安心してください。荒矢田君に振られた日からは、蓮子にはもう夢を見せなくていいと言ってありますから」

 なるほど、だから先週から夢を見なくなったのか。僕が、彼女をフッたから……。

「……失敗じゃないよ」

 彼女が夢に出てこなくなったのは、たったの一週間だけ。

「え?」

 この一週間、毎日願った。夢でもいいから、華美さんに会いたいって。

「いつも、夜寝るのが楽しみだった。学校ではあんまり話せなくても、夢の中では華美さんに会えるから。最終的にはいつも悪夢になってたけど、それでも僕にとってはかけがえのない時間だったんだ……でも」

「でも?」

「この一週間、華美さんが出てこなくなって、すごく寂しくて……。どうせ僕たちは相容れない存在同士だから……華美さんにあんなひどいことを言っておいて、今さらって思うかもしれない。都合がいいって思われるかもしれないけど……」

 僕は唇を噛み締める。

「華美に会いたかったんですか?」

 華美さんは瞳を丸くして僕に駆け寄ってくる。

「まさか夢まで見なくなるとは思わなくて……学校では話せなくなっても、夢の中では変わらず毎日会えると思ってたから」

「おかしいです。荒矢田君は華美が嫌いなはずです」

 華美さんは混乱したように眉を下げ、目を泳がせる。僕は強く首を横に振った。

「……好きだよ。華美さんのことが好き。夢じゃやだ。やっぱり本物の君と……」

「華美と?」

「か、華美さんと……その」

 華美さんはまっすぐに僕を見ている。その熱視線に、途端に心臓が跳ね出した。


 ――バクバクバクバク。

 鼓動の音がメトロノームとメロディを奏で出す。


「荒矢田君?」

 僕は拳を握り、華美さんを見据える。

「華美さんが、好きです。僕は君と、恋人になりたい」


 その瞬間、華美さんは瞳に涙をいっぱい貯めて抱きついてきた。

「わっ!」

 受け止めると、小さな彼女の体はすっぽりと僕の腕の中に収まった。

「か、華美さんっ!?」

 ふわりと華美さんの髪が僕の頬をくすぐる。優しく撫でると、柔らかな香りが鼻を掠めた。

 華美さんが僕のジャケットをギュッと握る。

「……華美でいいんですか? 華美は黴の妖ですよ? 掃除嫌いだし、晴れの日嫌いだし、乾燥も嫌いだし」

 僕は彼女の手を優しく握り、目線を合わせた。コバルトブルーの瞳と視線が絡み合い、僕は口もとをほころばせた。

「……うん。知ってるよ。でも、君がいい。華美さんがいいんだ」

「荒矢田君……華美も荒矢田君のこと、大好きです! ずっとずっと、大好きでした!」

 華美さんのふわふわ綿菓子のような髪が頬をくすぐる。くすぐったさに身悶えながらも、僕は幸せを噛み締めたのだった。

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