第120話 クロエ

 あたし、クロエは、新しいお屋敷の廊下を音を立てないように移動する。目指すは少し離れた叔父さんの部屋だ。


 叔父さんとあの小さなエルフが、作戦会議の後、部屋に入っていったのは知っている。なんでもあの小さなエルフは、有名な冒険者にして大きなクランのリーダーみたいだけど、そんなすごい人が叔父さんに何の用なのだろう。


「まさかとは思うけど……」


 相手はリディと同じくらいの背丈の幼いエルフだ。さすがに叔父さんの恋人ということはないと信じたいけど……。注意が必要なことにはかわりはない。


 だって、あのエルフも女だもの。叔父さんと女の人が、二人っきりで叔父さんの部屋の中とかとても羨ま……。とても危険なシチュエーションだ。


 それに、あたしの中のなにかが、あのエルフは危険だと、ひっきりなしに警鐘を鳴らしている。これが女の勘ってやつかしら?


 断じて見逃すことはできない。恋は一瞬の油断が命取りなのだ。


 ソロソロと広い豪華な造りの廊下を移動する。床は木材だ。油断すれば軋み、音を立ててしまう。慎重に慎重に、少しずつ前に進む。


 やがて廊下の角に突き当たると、あたしは腰のシーフツールが納められたポシェットの中から、小さな鏡と細い棒を取り出した。棒の先に鏡を取り付け、そっと廊下の角から少しだけ鏡を出す。


 これが、斥候役であるシーフの業だ。頭を出すと危険なので、鏡の反射を利用して廊下の角の様子を窺うのである。まさか、ダンジョンで培った業が日常生活でも使えるとは思わなかった。


 角度を付けた小さな鏡を覗き込むと、角の向こうの廊下が映し出された。


「誰も居ないわね」


 自分の思い通りに事が進んで、口の両端がキュッと吊り上げられたように上がるのを感じた。


 あたしは、ササッと音も立てずに廊下を移動し、ドアに密着する。そして、ポシェットから取り出したメガホンのような筒の広い口をドアに押し当て、小さな口に自分の耳を押し当てた。


 ドア越しに、少しくぐもった声が二つ聞こえてくる。エルフと叔父さんのものだ。


「ワシはの、アベル。お主を束縛する気は無いのじゃ。お主は自由に生きると良い。そして、思い出した時にでもワシを抱いてくれれば十分じゃ」

「そいつぁ……」


 いきなりエルフちゃんがぶっ込んできた!?


 え!? どういうこと!? やっぱりあの小さいエルフちゃんと叔父さんはただならぬ関係なの!?


 というか、エルフちゃんの考えが、予想以上に大人でビックリした。たしかに、エルフだからきっとあたしよりも年上だと思うし、もしかしたら、叔父さんよりも年上かもしれない。でも、まさかそんなことを言うなんて!


 だって、リディと同じくらいの背丈しかないし、見た目だけなら本当に宝石のように美しいのだ。下世話な話なんてしないんじゃないかと思うくらい清楚で清純。まるで、森林を駆け抜ける爽やかな風のような美しさを感じた。あの見た目でこんなことを言うなんて、想像もできなかった。


 叔父さんも、エルフは潔癖な種族って言ってたのになんで!?


 予想外だったのか、叔父さんも絶句している雰囲気が伝わってくる。


 でも、これはマズイかもしれない。あのエルフの美貌は、他を圧倒している。悔しいけど、あたしよりかわいいことを認めざるをえない。そんな子にここまで言われるなんて……。あたしは叔父さんを信じているけど、さすがの叔父さんも揺らいでしまうかもしれない。


「強要はせぬが、お主には他の女と番となって、子どもを残してほしいがの。さすれば、ワシの長すぎる生の慰みになろう」


 部屋に飛び込んで話を中断させるかどうか。悩んでいると、エルフがたたみかけるように言葉を紡ぐ。そのドア越しにも綺麗な声が紡ぐのは、悲しげな、普通ではありえないような願いだった。


 あたしには、エルフちゃんがなぜそんなことを願うのか分からない。叔父さんのことが好きなら、普通は他の女に叔父さんを渡したりしないはずだ。ましてや子どもなんて……。あたしだったら想像しただけで耐えられない。


「何を企んでいるんだ?」

「なにも裏などありゃせんよ。ワシはお主の都合の好い女になりたいのじゃ。お主の愛を一欠けらでも貰えればそれでよい」


 叔父さんの問いかけにも、コロコロと笑って答えるエルフちゃんの声。でも……。


「シヤ、お前は……。本当にそんなことを望んでいるのか? お前はそれでいいのか?」

「無論じゃ。もう決めたことよ。これこそがワシの望みじゃ」

「じゃあ、何でお前はそんなに無理して寂しそうな笑みを浮かべるんだ? 今のお前の笑みは……歪んでいる。心からのものじゃない。何がお前の心を歪ませた?」

「ッ!?」


 ハッと息を呑む気配が伝わっていきた。あたしの感じていた違和感。やっぱり、シヤというらしいエルフは、無理している。そして、それは常日頃からあたしが鈍いと感じている叔父さんでも分かるくらい分かりやすいものだったようだ。


 そんなことは、考えなくても分かる。好きな人に自分以外の好きな人が居るなんて耐えられないほど悲しいことだ。それはシヤさんだって同じはず。なのに、シヤさんは叔父さんに恋人をつくれ、その恋人と結婚して子供をつくれなんて言う。そんなの辛くないわけがない。


 なんで? なんでシヤさんは自分から辛い道を選ぶの?


 あたしには理由は分からない。でも、なにか原因があるはず。そして、その原因は叔父さんじゃないと消せないのだと、一瞬でパズルが解けたように理解できてしまった。


「ゆ、歪んでなどおらぬ! この願いはワシの本心じゃ!」


 シヤさんが図星を突かれたように大声で否定する。そんなの違う。そんなことがシヤさんの本心なわけがない。


「違うな」


 そして、シヤさんの言葉を叔父さんが否定する。確信をもって告げられた言葉。叔父さんはなにか理由を知っているの?


 しかし――――。


「シヤ、お前の助力には感謝する。情報面でもかなり助けられた。これ以上ないくらいだ。だが、今のお前を信用することはできない。出ていってくれ」


 叔父さんの口から飛び出たのは、ゾッとするほど冷たい声だった。


 どうして? どうして叔父さんはこんなに冷たいの? あたしは叔父さんの冷酷とすら感じる声を初めて聞いた。だって、普段の叔父さんは怒ることも滅多になくて、温厚で優しいんだもの。叔父さんにこんな冷たい一面があるなんて信じられなかった。


 シヤさんは、絶対になにか抱えている。そんなことは分かり切っているのに、シヤさんを突き放すなんて……。なにかの間違いだと思った。そのくらい普段の叔父さんとは乖離した対応だった。


「……ワシは信用に値せぬか?」

「今のお前はな」

「そうか……。じゃが、ワシの心はお主にあること。それだけは分かってくれ……」


 叔父さんに縋るように言葉を重ねるシヤさん。その言葉の端々から叔父さんへの深い思いが伝わってくる。今日初めて会ったあたしでも分かるのだ。叔父さんだって分かっているはず。なのに、叔父さんからの反応はなかった。黙殺したのだ。


 こんなことがあってもいいのか……。あたしの心はシヤさんを慮って泣きそうだった。


 シヤさんは、あたしの恋敵だと確定した。でも、叔父さんのあんまりな対応に勝手に同情してしまう。恋敵がこっぴどくフラれたのだ。普通なら喜んでもおかしくないシチュエーションなのに、あたしはこれっぽちも嬉しくなかった。

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