第91話 甘え
「泣き疲れてしまったのかしら……」
いつもよりも圧倒的に口数が少ないジメジメとした夕食を終えて、しばらくした後、姉貴の声に気が付けば、クロエが舟を漕いでいた。
マクシミリアンの決闘騒動で吹き飛んでしまったが、今日はやっと『白狼の森林』からダンジョンから王都に帰ってきた日だ。未だに慣れていない冒険の旅路での疲れもあるのだろう。
「ごめんけど、クロエを寝かしてきてくれないかしら」
「あぁ」
オレは椅子から立ち上がろうとすると、不意に左手を引かれた。左手を見れば、クロエの小さな手が、オレの左手をしっかりと握っている。
クロエが、食事中もずっとオレの手を握っていたのだ。えらく食べづらかったが、オレはクロエの好きにさせていた。
「………」
オレは切ないような気持ちを覚えながら、握りしめてくるクロエの右手の指を一本一本丁寧にほどいていく。ほどいても、またすぐに握りしめてくるクロエの細い指が、なぜだか無性に愛おしく感じた。
ようやくクロエの全ての指をほどき終え、オレはクロエの背中と膝裏に手を刺し込み、持ち上げる。予想よりもあった確かな重みと、驚くような軽さ。背反する二つの感想を抱きながら、オレは姉貴の開けてくれたドアをくぐり、寝室のベッドの上にクロエを寝かせる。
クロエの寝顔をしかと心に留め、立ち上がろうとすると、ローブを引っ張られる感覚を覚えた。最近よく覚える感覚だ。しかし、オレのローブを引っ張るのは、リディではなくクロエだった。
「クロエ……」
クロエの右手が、決して離すものかと、オレのローブを強く握りしめている。
オレは再びベッドの傍で跪くと、クロエの頭を撫でていく。そうすると、眉が寄って不機嫌そうな顔をしていたクロエの表情が、少しずつ融けていった。
オレは、ローブを握ったクロエの指を一本一本ほどくと、ようやく立ち上がる。
「おやすみ、クロエ。約束、必ず守るからな……」
もっとクロエの寝顔を見ていたい衝動を振り切って振り返ると、姉貴がまた眉をハの字にしてオレを見ていた。一応オレを信じてくれた姉貴だが、信じられる担保がどこにもないのだ。不安にもなるか。
オレは狭い寝室を出ると、テーブルにある三つのイスの一つに腰を下ろす。姉貴がクロエと二人暮らしだというのに、オレのために用意してくれたイスだ。そのことが今、無性に嬉しく感じた。
オレがイスに座ると、姉貴もオレの正面の席に腰を下ろした。その顔は、相変わらず不安そうな、今にもまた泣き出してしまいそうな顔だった。
「笑ってくれよ、姉貴。オレは笑った姉貴の顔が好きなんだ」
「無茶言わないで。どうして笑うことができるのよ……」
自分でもひどいことを言っているのかもしれないという自覚はあった。だが、最期に見ることになるかもしれない姉貴の顔が、こんなくちゃくちゃの後悔ばかりの顔というのは嫌だったのかもしれない。
「頼むよ……」
「嫌よ。あたしを笑わせたかったら、生きて帰ってきなさい」
オレの絞り出すような声に、姉貴は応えてはくれなかった。しかし、姉貴がオレの生還を心より願っているのが伝わってきた。これは、姉貴なりの激励なのだ。オレは、自分の心が弱くなっていることを自覚する。
“最期”ってなんだよ。オレは必ず生きて帰ると約束した身だぞ。オレが勝手に諦めてるんじゃねぇよ!
「すまねぇ……。忘れてくれ」
オレは自分の弱った心に鞭を入れ、強くあろうとするが、どうにも強い自分というものが想像つかなかった。
だからだろう。姉貴の顔は晴れないまま、その口を開く。
「ねえ。本当に勝てるの? 勝機はあるの?」
「………」
オレの態度が姉貴を不安にさせている。そのことを分かってはいても、オレは虚勢すら張れずにいた。変に虚勢なんか張っても、姉貴には見透かされてしまうだろう。そしたら、ますます心配させてしまうだけだ。
「それをこれから見つけに行くのさ」
なんだかいたたまれなくなり、オレはそれだけ言うと、イスから立ち上がる。
「これから……? どこかに行くの?」
「あぁ。ちと呼ばれてるところがあってな。わりぃが、行ってくる」
姉貴に背を向けて歩き出すオレの背中に、姉貴の言葉が突き刺さる。
「あたしを置いて? あたしよりも大事な用事なの?」
「………」
本当なら、オレだってこの限りある時間を姉貴と共に過ごしたい。だが……。
「すまねぇ。どうやらオレは、姉貴と居ると弱くなっちまうらしい。無意識に姉貴に甘えてるんだな。姉貴に甘えて、寄りかかって、慰められて……。そんな甘い誘惑に負けそうになる。だが、今回の相手は、そんな甘ったれた状態で勝てるわけがねぇ。だから、オレは行く。甘さを捨てて、自分と向き合って、研ぎ澄ます」
「………」
オレの言葉に、今度は姉貴が沈黙した。荒事を経験したことがない姉貴には、俺の言っていることなんて、よく分からないかもしれない。だが、これだけは譲れなかった。
「約束は守る。絶対に」
その言葉を最後に、オレは姉貴の家を後にしたのだった。
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