第7話
「尾神さーん、妹さんが呼んでるよ」
「え゛っ?」
梅雨の時期に突入したある日のこと、昼休みになり学食へ行こうとするアタシを止める人物がいた。その名を告げられて濁った声が出てしまった。
アタシを呼び止める人間は滅多にいないし、いたとしても提出物を集めなければならない日に現れるくらいだろう。
「姉――お姉ちゃん!」
アタシからの言いつけを守る晴香だけど、大声で呼ばれて腕を大きく振られては凄まじく目立つ。
教室から出て行く生徒たちがアタシたち姉妹を何事かと注目しながら去っていく。
晴香は他学年でも噂されるぐらいに己が有名であることを自覚しているのだろうか。
「ここじゃ静かに話ができないから移動するぞ」
「うん」
晴香の手を引っ張ると、彼女は握られた手を見て破顔した。こっちが照れるような反応は止めろ。
「さて、用件は?」
お昼時で学生が集中する学食やテラスとは反対の、空き教室が並ぶエリアに到着。
手を離すと晴香は残念そうな顔をした。
「姉上は夏休み、どうされるのですか」
「去年までと変わらない。お母さんの家に帰る」
階段の踊り場にアタシと晴香の声が響く。
2段ほど下から発せられる妹の質問に、淡々と夏の予定を語る。
「お母さんに学校生活を報告して寮に帰る。例年通りだよ」
「……姉上は、今年も顔を出しには来ないのですか?」
「あ?あの人の所のこと?」
晴香は静かに頷いた。
中学3年間、お母さんの所には帰ったけどあの人の家には1度として帰省しなかったけど、帰ってくるよう連絡が来たこともなかった。
だから帰らなくても問題ないと思っていたし、今年もわざわざ帰ろうという発想にはならなかった。
「アタシは死んでもあの人には会わないって決めたの。それとも連れてこいとでも指示されたわけ?」
「いえ、そういうわけではありませんが……姉上の予定は聞いておきたかったのです」
「そうか」
「今年は父の元には帰りません。代わりに3年ぶりに母上の家に帰りますから――姉上と一緒に」
「へぇ。晴香もこっちの実家に――嘘?」
「嘘ではありません。父にも母にも連絡済みです」
既に予定を決めていた晴香がスマートフォンの画面を見せてくれる。
そこにはお母さんと晴香のメッセージが写っており、確かにお母さんの実家に帰るという報告をしていた。
父の方とはすんなりいかなかったようだが、最終的には同意を得られたらしい。
「ところで姉上と連絡先の交換ができておりませんでしたね。この際に交換しませんか?」
「……別にいいけど」
そう言って、アタシはスマートフォンを差し出した。アプリで読み取りできるコードを開く。
中学の頃は互いの家を通して連絡していたし、年賀状や暑中見舞いにも連絡先は書かないでいた。流石にお母さんはアドレスや電話番号を把握していたけど、晴香にもあの人にも教えないよう頼みこんだ。
この前も物別れしたから連絡先は交換していない。
「ありがとうございます!いつでも連絡してくださいね!」
アタシのQRコードを登録した晴香から早速メッセージが送信された。
メッセージ欄を閉じると“友達”の画面に晴香という文字が新しく追加され、ちょっとだけ嬉しくなった。
アタシから送りたい話なんてないんだけど。
「……姉上は父上がいなければ私と結婚してくださるのですか?」
「どういう意味?父親は無関係でしょ」
「私にはそうでも、姉上にとってはそうじゃないかもしれません。姉上と結ばれるために、立ちはだかる障壁は取り除きたいのです」
「障壁を取り除くって」
妹に本音をぶつけられるはずもない。あの親も邪魔と言えば邪魔だけど、それ以上に晴香という存在がアタシにとっての壁となっている。
仮に晴香に本音をぶつけたら、この子はアタシを受け入れてくれるのか。
こんなアタシを受け入れて貰えたら、アタシは満足できるのだろうか。
「学校でこの件を出すのはやめて」
「しかし姉上」
「やめるつもりがないならアタシが帰るぞ」
食い下がろうとする晴香に釘を刺した。
アタシの本心が簡単に打ち明けられるものじゃなし、そもそもここは学校内だ。このエリアのこの時間帯は人があまり使わないというだけで、通らないとも限らない。センシティブな話題を誰かに聞かれそうな場所で出されるのは避けたい。
「では場所を変えれば話していただけるのですか……?」
「検討しておくよ」
どこかの偉い人みたいな返答に、晴香は半分は納得して、もう半分はまだ何か言いたそうな様子だった。
「約束ですよ?」
アタシの手を取って念押しする晴香。
「まだ続けるの?昼休みがなくなるから学食に行かせて」
「待ってください、姉上――あっ」
手を振り払い、歩き出そうとしたアタシの背後で晴香が声を上げた。
キュッという、物体の摩擦の音がして後ろを振り向く。
踏み外してバランスを崩した晴香が、階段から落ちそうになる。
払いのけられた晴香の手は空を切り、手すりを掴むことは叶わなかった。
「晴香っっ!!!」
久々に叫ぶような大声が出た。
目いっぱい力を込めて落ちそうになっている晴香の腕を掴み、なんとか踏み止まって彼女を抱き留める。
「あ、姉上……」
「はぁ、はぁ……!」
安心して力が抜けたアタシたちは揃って踊り場に座り込んだ。
……心臓が止まるかと思った。全速力で疾走したのかというぐらい、アタシの心臓は早鐘を打っていて治まる気配がない。あぁ、背中が今の一瞬で汗だくに……。
「って、顔が近いっ!!」
「わわっ」
呼吸が整ってから顔を上げると、晴香の顔が至近距離に……。
吐息がかかりそうな距離に耐え切れず晴香を引き剥がそうとして、失敗した。お互いに服や腕を掴んでいるから当たり前だった。
晴香が階段から落ちそうになった先ほどとは違う意味で鼓動が速くなる。
サラサラの黒髪から漂うシャンプーの香り、長い睫毛、ぱっちりとして愛嬌のある瞳、制服越しに伝わってくる柔らかさ。ありとあらゆる要素がアタシの心臓を撃ち抜いてきた。
「も、申し訳ありません!姉上にご心配をおかけしてしまって……!」
いつもはグイグイ来る晴香も頬を朱に染めていた。ワタワタと手を振りながら謝罪する妹。
「……ううん。アタシが悪かった」
階段であんなことをすればバランスを崩す可能性も想像できただろうに、冷静さを失っていたのはアタシの落ち度だ。
ともあれ晴香が無事で良かった、本当に良かった……!
胸を撫で下ろしていると、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「……お昼、終わってしまいましたね」
「……そうだな」
「すみません私のせいです」
「いやいや、アタシこそ……」
責任の奪い合いをしながら立ち上がり、それぞれの教室を目指して歩いた。
「また連絡します、姉上」
「はいはい」
1年生のフロアで別れて、さらに1つ上のフロアに通じる階段を登る。
「妹にドキドキさせられるなんて、アタシも半端者だね……」
晴香の感触を思い出しながらアタシは独り呟いた。
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