女官と王
十一、三度目の人生
(まさか三度目があるなんて……!)
白い湯煙、白い衣。また水の中にいて。
王の湯殿で覚醒したリョンハは、否、ヒェリョンは、今まさに混乱の海にあった。
大きな彼に抱きすくめられているこの身体は、かつての自分のものではない。溺れ死んだ女子大生でもなければ、斬首刑に処された医女でもない。
あの冬の日、首を斬られた瞬間の記憶をもって、彼女はここにやってきた。また生まれてきてしまったのか、はたまた憑依か何かで誰かの人生を奪ってしまったのか。
記憶を一気に詰め込まれた感覚にぐらついた頭を抱え、自分に言い聞かせるように心の中で唱える。
(
そう、この脳に残った記憶は彼女に告げている。それなのに、
「リョンハ」
「ですから、私は、……。――
いつまでもくっついたままの彼が、彼女をしきりに〝リョンハ〟と呼ぶのだ。今の彼女は、この身体は〝ヒェリョン〟なのに。
(ここは、
この世界の時間軸ではとうの昔に、彼女の感覚としてはついさっき、リョンハは死んだのに。もういないのに。
(あの〝
ほどよい熱さのお湯の中。麗しき青年とそこそこの少女は未だにぎゅうぎゅうと抱きあっている。密に触れている。
現在ヒェリョンの腕は添える程度に彼の背に回してあるだけだが、彼の力が強いのでぎゅうぎゅうはぎゅうぎゅうだ。随分と逞しくなられたようで。弱々しくあられるよりは良いが圧迫感がちょっとつらい。
「リョンハ。ああ、会いたかった……。会いたかった」
(はい、さっきも聞きました)
口には出さずにまた胸で呟き、彼の言葉を聞き流す。こう切なげに呼ばれているのを聞いても、とても大事なことは分からない。もどかしい。
そう、どうして自分は彼と一緒に入浴しているのか。彼女と彼はどんな関係なのか。
イム・ヒェリョンは、かつての医女とは違って品階なしの婢女ではなく、女官。
初めてを覚えていないとなれば、なんというか、とても困る。これから先の知らない二度目以降の時に粗相をしてしまうかもしれない。この人生では女官ならば彼に抱かれても仕方ないとして、記憶の上では未経験なのに経験者のそれを求められたら耐えられない。
彼女は、才能と経験から来る自信を原動力に動く性質だ。そのため、逆にぜんぜん知らないところを突かれるとかなり弱い。色事の才能が自分にあるのか分からない。実経験がない。だからこの状況で、彼女はものすごく困っていた。
「リョンハ」
「……っ」
かつて触れた世子の指より太くて硬い、大人の男の指が、彼女の首に絡みつく。ヒェリョンの腰をぎゅっと抱いたまま、首筋にもぎゅっと力がこめられる。強く触れられる。
ああ、これは手遅れ、すでに御手付きかもしれない。首絞めという特殊嗜好を含んだあれそれもする仲なら、どうやったって無理だ。演じきれない。
いっそ記憶喪失になったふりをしようか。大事にはならないよう計算した上でわざと転んで頭を打ってみせ、自ら気を失ってみようか。そうしよう、後でやろう。
「殿下……」
「そなたは繋がっているな」
「首がですか」
「首がだ」
こくりと頷く。彼の指がさらに食い込む。
この身体は生きているのだから、もちろん繋がっている。もしも離れていたら大変だ。首なし死体と入浴するほどに精神をおかしくされていたら、さすがに前世の自分が浮かばれない。
というか今の状況も、なかなか、リョンハ的には嬉しくないのだが。自分は旧リョンハであり現ヒェリョンだが、いや、だからこそ分かるのか。まだ混乱していて本調子ではなくとも、彼の様子のおかしさには気づける。
かつての世子、今となっては国王の彼は、ヒェリョンを見ていない。まるでリョンハという女の亡霊を見ているようなのだ。
彼に触れられている身体はヒェリョンだが、彼の心が抱いているのはヒェリョンではなく、リョンハだった。
(貴方の心は、病んでしまったのですか……? この二十年の間に? ずっと? いつから?)
今の彼女は、イム・ヒェリョン。ほんとうは十七歳。表向きには、なぜか二十二歳とされている女。訳あって自ら年齢を誤魔化しているのか、誰かさんに弄られたのか、そこはちょっとわからない。記憶にない。
二度目のリョンハの記憶は、しっかりある。
一度目のれいかの記憶もすべて取り戻している。
だが、三度目、今世のこれまで十数年の記憶がうまく繋がっていなかった。ちらほらと空白もある。まったく覚えていないというほどではないのだが、ヒェリョンとしての昨日今日のことも分からない。
こちらでは、やっぱり赤子から始まらなかったからだろう、ヒェリョンとして生まれてすぐのことは覚えていない。赤ちゃんの記憶とはそういうもの。
さて、生みの親の顔も知らない彼女ヒェリョンは、物心ついた頃には王宮にいた。どういうわけか歩けるようになったばかりの頃から女官見習いになり、十五年の間のどこかで表向きの年齢を変えられ、正式に女官となって今に至る。
れいかやリョンハとしての記憶が戻ってくる、あるいは入ってくるまでのヒェリョンも、なんだかおかしな人生を歩んでいるのだった。
これは、ちゃんと生まれ変わりか。また転生であれたのか。
〝私〟のせいで本来の〝ヒェリョン〟の人生が侵される羽目になっていないか。ヒェリョンは私なのか。リョンハとして生きた記憶が色濃い彼女は憂う。そして二度とは会えない家族を想う。
一度目、
死と異世界転生により家族と永遠に別れた。
二度目、
父と兄は遠くで奪われた。母と妹は海に呑まれた。
三度目、
彼女の記憶に、もう、家族は誰もいなかった。
「そなたの心臓の音が、聞きたいんだ」
ふと彼が身じろぎ、肌着の白い衣に包まれた女の胸に、彼の耳がぴったりとくっつく。幸か不幸か、偶然か必然か、この年頃の彼女の胸の大きさはどの人生でもほとんど変わらない。
(でも、ほんとうに、貴方は大きくなりましたね)
あの日の青の光景が、瞑った瞼の裏に蘇った。
「あたたかい……」
ここは湯殿だから。お風呂だから。あたたかいのは当然だ。ヒェリョンの身体のおかげじゃない。
ああ、それなのに、彼女の胸もあたたかくなってしまった。知らない恋には満たない惹かれる想いが、まろびでる。止まれない。
この縁は、首を斬られても切られやしない。
「……ただいま帰りました」
彼女の三度目の人生は、前世年下だった、今世年上の彼に。この国の太陽に恋われて開幕する――
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