転生医嬪ヒェリョン 〜処刑された元宮廷女医は、ドラマ知識と医学で王を救う〜

幽八花あかね

転生医嬪〈てんせいウィビン 〉ヒェリョン

医女と世子

一、出会い


 ――水の中にいた。


 深い、深い、青の中で、やけにくっきりと見えたのは白い顔。小さな誰かが沈みゆく。手を伸ばしても届かない。背景に溶け込む青の衣装に、浮いて煌めくは龍の刺繍。

 非現実的な青の世界で、女は、彼を救わなければと水を掻いた。ちらりと振り返った水面には、彼の冠――翼善冠イクソングァンが浮いている。


 ――世子セジャ様!


 未来の王を追って池へと飛び込んだ彼女の唇を、こぽりと透明な泡が滑る。幼い世子の丸い頬を、大人の女の指先がすらりと掠める。やっと届いた。もう大丈夫と伝えるように、ただの医女は一国の世子を抱きしめる。不敬だと罰せられても悔いはない。

 水に沈んだままなら、死んでしまう――彼女は身をもって知っていた。

 この青に再び呑まれたことで、前世の自分の死因を思い出したのだ。自宅マンションの浴室での溺死。それが一度目の最期だった。今の彼女の家族も、荒れ狂う海の中で命を落とした。

 世子の肩の向こうには、青の中で光り咲く一輪の花。

 ぱちりと瞬いた医女は、まみえた花の美しさと、蘇った記憶の鮮明さとに目眩をおぼえた。ひょっとすると、酸素も足りていなかった。

 幼い力に抱き返されたことで、はっとする。あれはだ。蓮花のだ。

 もっと近くに行きたいと魅せられた欲に、どうしてここに? という疑問が交じって。世子の手と己の好奇心のおかげで、彼女はなんとか我を保った。魔の力に打ち克った。

 今のうちに、逃げなければ――また強く水を掻く。今度は片腕で。もう一方の腕にも力を込め、決して貴方あなたを離しませんと胸に誓う。

 そんな彼女の心の声を、世子は聞いていたのかもしれない。医官の白い衣に包まれた胸に、彼の耳はぴったりとくっついていた。

 もしも、その声は幻だとしても。

 心臓の音は、ほんとうだった。と。

 すこし遠くの未来で、彼女のいなくなった世界で。この音を、ぬくもりを、この日の記憶を。

 彼は二十年も抱えて過ごす。

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