第35話 世界が敵であっても

 俺はもう限界だった。

 あれがささやいてくる。


 何事も人に負けるのが嫌だった。でも俺は天才でも努力ができるタイプでもない。その上、負けたことをやりすごす、でも悔しいという気持ちは持っている。

 確かに良いやつとは言えないかもしれない。

 でもそんな人間いっぱいいるじゃないか。


 なんで俺なんだよ……。

 そう自分の中に生まれたたまごを破ろうとする何かを必死に抑えつける。

 頭を押さえて、好きだった音楽を大きな音でイヤホンから流して、机に顔を伏せる。昔、辛い時に俺を支えてくれた音楽が雑音にしか聞こえない。ずっと眠いのに眠れない。


 ニュースで言っていた凶悪犯罪者はみな人間の形をしておらず、捕まった彼らはみんな一様に口をそろえて民衆をあざ笑った。


『私たちの心にたまごがあった。君たちはそれを自覚していないだけだ。私たちは目を背けなかった。ただそれだけだ』


 専門家は集団催眠や、何かしらの共通の影響を探したが、彼らの年代はバラバラで性別も住んでいる場所も生まれた境遇も共通しているものはなかった。

 ただ、そうなる前に強いストレスがあったという。


 普段と雰囲気が変わり、自暴自棄になり、そして世界に失望する何かがあった。

 起因しているのは、人格が変わるほどのストレスだ。


 がりがりと強い力でひっかいて、俺の中で何かがこちらへ出ようと暴れている。引き裂こうとする。


 何がいけないんだろう。

 婚約中の彼女に浮気されて、俺が捨てられたから? 職場の人間関係が悪くなったから? ああ、そういえば、最近好きだったアイスを全然食べてないな。


 彼女を気に入っていた両親は、俺に何か原因があったんだろうと少し怒っていた。でも無理じゃないか。彼女は浮気相手の子供を妊娠して、向こうと結婚するんだから……。


 何もかもうまくいかない。選ばれなかった俺にはきっと何の価値がない。


『俺はずっとお前のそばにいる』


 こいつが話しかけてくるようになったのはほんの最近だ。


「ずっと? いつからだよ」


 俺がふざけて問うと、あいつは殻の隙間からニヤリと笑った。まっくろにそまったそこから、俺にそっくりな何かがこちらを見ている。


『生まれた時から』


 バカみたいだ。こんな戯言に少し嬉しくなってしまう。

 こんな妄想の、都合の良い言葉に。


 ふっと笑った瞬間、また殻が破れた。

 俺はもう限界かもしれない。諦めて、俺はスマホの緊急通報ボタンを押した。すぐに電話はつながり緊迫した様子で警察がこちらに何が起きたのか説明を求めてきた。


「俺の中にあるたまごが割れてしまいそうなんです」


『はあ?』


「早く俺を逮捕してください。」


 俺は必死に伝えるが、心の中にたまごがある感覚が伝わらない。必死に声を出せば出すほど、電話の向こうで怪訝そうな雰囲気が伝わってくる。

 どうしてわかってくれないんだよ。


 いつしか電話は切れていた。


「疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた」


 気づくと口から出ていた言葉に自分でも驚いた。気が抜けると、もう感情のコントロールが出来ないのかもしれない。最近はずっと頭に霧がかかったようで、思考ができない。俺が何も理解できないこと悟られてしまいそうで人の目が見れない。


『大丈夫』

 お前のせいだろ。

『俺がお前の代わりをする』

 乗っ取るの間違いじゃないか。


 ボロボロとこぼれる涙をぬぐう力すらない。

 外から子供が遊びまわる声がする。そちらに目をやるとカーテンの隙間から、今日はとても天気の良い日だと分かった。

 彼女と幸せな生活を送るために、将来を見据えて買った広すぎるファミリーマンションの一室。慰謝料代わりにもらった薄暗いここは、ただの牢獄だ。


『願いを叶えてやるよ』


 俺の願い、そんなの決まってる。

 なあ、俺は十分がんばったよな。病院だって行ったし、処方された薬だって飲んだし、たまごの事は警察に伝えた。もう一歩だって動けない。

 だって歩き出す力がないんだから。


 ドロリとたまごから、あれが溢れ出した。

 俺の中を嫌な感情が満たしていく。


 うちの子はほんとだめで。そんな言葉が聞こえた。

 小学生の時に徒競走で負けたこと。音楽の授業で音痴で笑われたこと。罰ゲーム告白の対象にされたこと。隣の席のあいつより勉強ができなかった。資格試験に落ちた。知名度のない地方の大学に進学した。営業の成績が悪い。彼女は俺を選ばなかった。


 そんな小さなことの積み重ね。ああ、あいつは俺が見たくなくてふたをしたはずの感情だったんだ……。

 あいつが俺の頭を愛おしそうに抱きしめた。


『善人であろうとすることは、良いことだ』


「うん」


 もう俺の体を動かしているのはあいつだ。神経が遮断されて、けれども感覚だけはある。俺の意思で、俺の体は動かなかった。

 外の景色はうっすらしか理解できないが、この闇はとても心地いい。


『俺はお前の怒りで、そしてお前の中にずっとあったものだ』


 ニュースの凶悪犯たちはみんな言っていた。誰の心にもたまごはある、気づいてないだけだ、と。

 あいつらは悪魔のようで、そして実際、悪魔と呼ぶべきものなのだろう。俺があいつらを受け入れて、そのうえで体の主導権を取り戻すことはそう難しくない。


 これは、直視し認めてしまえば、それ以降は難しいものじゃない。

 そんなのは理解してる。


 鏡にうつる俺は、ニュースで見たものとは違ってほとんど人間とは変わりない。


『俺たちは生きるために進化する。お前らもそうやって文明を築いただろう?』


「うん」


 ヘラヘラと浮かべるあいつの笑みは、とても人に好まれそうだ。

 たまごだったんだ。


 あいつは本当に内側にいた。俺という殻を破って、この世界に生まれた。


 これは乗っ取りでも入れ替わりでもなくて、生まれ変わりだ。俺はもうずっと消えたかった。消えたかったんだ……。あいつが何をするのか、俺はこの思考がとろけそうな暖かい闇の中で見届けることになるだろう。

 だが止める気はない。もうあの体は俺じゃない。もう俺はいない。


『おやすみ、兄弟』


 あいつの言葉に同意するように、俺は殻に閉じこもった。

 きっとみんないつか気づくはずだ。自分には何の価値もない、消えるべき存在だということが。



『資格試験も何回も受験してようやく受かったじゃないか、空き地でみんなで走り回って運動会の練習してただろ、音痴だって笑われて泣いた時だって親が一緒にカラオケで練習に付き合ってくれたじゃないか。隣の席の……よくいる苗字のあいつだって勉強に付き合ってくれたし、大学では気の合う友達に講師とも仲良くて楽しかっただろ、最初は悪かった営業成績だって先輩や同僚と一緒に努力してさ楽しかったじゃないか。

 結局、罰ゲーム告白で付き合った彼女には婚約破棄されちゃったけどさ、』


 俺はカーテンを大きく開けた。


『お前が間違ってないこと、俺が証明してやるよ』


 だって俺はお前なんだから。

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